回奏―Hopes and Dreams―

 それまで流していたゲーム音楽に、お洒落でそれでいて哀愁のあるサウンドが差し込まれた。ピアノ以外は何の楽器で演奏しているのか、はっきりわからない。

 反射的に油画制作室の入口を見ると、スマホを手にした智昭が立っていた。爽やかな笑顔を浮かべている。こいつは暑くないんだろうか。

 背が高いくせにひょろい。あたしがこいつを倒そうと思えば多分できる。肌も白っぽくて、ちゃんと食ってんだろうかといつも思う。それが智昭だ。

 床の所々に絵の具が付着し、その色がごちゃ混ぜになって汚れた部屋を見渡してから智昭は近づいてきた。並べられた他のカンヴァスに当たらないように、ゆっくりとした足取りで。


「なるほど。先輩たちがゲームのラスボスと戦いながら描いてる奴がいるって言ってたけど、明子のことか」

「うるさい。何を聞こうがあたしの勝手でしょ。誰もいないんだし。いいからその曲消して、そんであんたは帰れ、寝ろ」

「ひっで。夜中まで課題してるって聞いたから、様子を見に来たのに」


 智昭は「この曲はジャズでも有名な」とかなんとか言いながら、渋々スマホを操作してジャズを消した。あたしが流してる曲も、話しやすいように音量を下げる。

 ゲームのラスボス戦曲。そろそろコーラス部分に入るはず、これで七ループ目。


「何でこれ聞いてるの? さっきのジャズみたいな曲の方が、夜にはぴったりだと思うけど」

「ゲームの戦闘曲は聞いてると、やる気出るの。追い立てられてる気分になるし、ノリやすいし」


 敵と戦う時に流れる曲だから、課題と戦っている今のあたしには特にぴったりだ。リズムに合わせるように絵の具を画面にのせていく。


「まぁ、戦闘曲を聞いたらやる気が出るのはわからなくもない、かな」


 木の椅子をカタカタ持ってくると、表面についた絵の具の跡を気にしながら智昭は座った。


「明子は、本当にゲーム音楽が好きだね」

「何よ、偉そうに。そっちだって、さっきの曲みたいなジャズばっか聞いてるくせに」


 この曲に少し飽きてきたところではあったから、違う曲を流すことにした。多分ロック(音楽のことは詳しくはわからない)で、英語の歌詞がラップのように展開される。

 さっきのはどこか言いようのない威圧感があって格調高い曲だったけど、これはテンポが速くて純粋にカッコいいと感じる。


「これ、知らない曲だ」

「あ、た、しは知ってるからいいの」

「こんなのも聞くんだ」


 智昭は音楽を聞きながら、おもむろに空を思わせる青色の手帳を取り出した。

 音楽科で作曲専攻であるこいつは、聴いてる音楽を耳コピして書いてみるか、思いついた音をメモにするのが癖だ。今もどっちかだろう。

 あたしは、そんな智昭を横目に立ち上がった。着ているつなぎの袖をまくりながら、カンヴァスから距離をとる。

 制作室の奥に広げているモチーフと比べる。バランスは悪くない。このままで良いはずなのに、どこか違う気がする。絵を眺めながら額の汗を拭う。


「ねぇ、あんたは何しに来」

「明子ってさ、面白いよね」

「はあっ?」


 あたしはつい、そこらへんにあったデッサン用の食パンを投げた。パンは智昭に当たると、そのまま木の床に落ちた。


「ちょっ、何すんの」

「あんたが変なこと言うからでしょっ」


 こっちはただでさえイライラしてるというのに。

 あたしの言葉に、彼は神妙な顔つきになった。


「うん、ごめん。確かに、言い方が悪かった」


 智昭はこういうところが良い。あっさりしている。あたしもそうだ。

 ずぼらなあたしと几帳面な智昭、デコボコカップルだと同じサークルの人には言われるけれど、この共通点があたしたちを引き合わせてるんだと思う。


「僕が言いたかったのは、明子はゲーム音楽が好きでしょ?」

「うん」


 答えながら油を継ぎ足す。暑い部屋に、また一つ油の匂いが立ちのぼる。絵の具と油の混ざった匂いが智昭は苦手だと言うけど、あたしは好き。


「明子はクラシックなんて難しそうでよくわかんないって言うけど、ゲーム音楽にもクラシック調の曲はあるし、ロックだってある」


 絵のどこに手を入れるか考えながら、智昭の話に耳を傾ける。


「あと、時には和楽器が使われている音楽も聞いてるよね」


 以前聞かせた曲のことか。

 のびやかで力強さを感じる和風の音楽。その曲が流れる、海沿いの高台というロケーションにもマッチしていて好きだ。


「それにピアノメインの曲も、この前好きだって言ってた。つまり、明子はゲーム音楽が好きなわけだけど、聞いている曲のジャンル自体は幅広い。それが、なんだか面白いって感じて」


 あたしからすれば、好きなゲームで印象に残った曲が好きになる。というだけなんだけど。


「最近色々考えてたんだ。僕が作曲専攻に来たのは、もちろん作曲家になりたいから。今まで、漠然と良い曲を作りたい、美しい曲を作りたい。そう思ってるだけだった」


 声に陰りのようなものを感じて、ちらりと彼を見ると、手を止めて視線を伏せている。あたしは音楽プレーヤーを操作して、音楽を消した。

 静かになった途端、湿気が押し寄せてくるかのように感じられて、あたしは思わず息を大きく吸った。


「でも大学に入って、周りとのレベルを感じて、みんなには目標があって。漠然と思ってただけの自分にさ、ちょっと嫌気が差したんだよね」


 いつものあたしなら「人生の相談とかいう、つまらないことをするなら出ていけ」って軽口を叩くところだけど、言えなかった。あたしも似たようなもんだから。

 絵が好きで美大に憧れて、勉強しながら画塾に行って、やっとここまで来たのに。みんなのレベルに驚いた、あたしの絵じゃダメだって思った。

 今だってそう。

 自分の思った通りの良い絵を描けてるはずなのに、自信がない。何かが足りないと思ってしまう。そのせいで、だらだらと夜中まで描いてしまっている。


「だけど明子に出会って、君の音楽の趣味を知って思ったんだ。多分明子は、例えば戦闘曲なら敵と戦っている時に流れて気持ちを盛り上げてくれるから好きってことでしょ? そういう風に、音楽が流れるシーンとの調和を含めてゲーム音楽が好きなんじゃないかって」

「んー。そう、かも?」

「だから。僕も単に良い曲を作るんじゃなくて、そういった曲を作りたいって思って。流れるシーンに寄り添うことができるような、そんな良い曲を」


 気づくとあたしは手を止めていた。筆をゆっくりと下ろす。

 あたしはどうだろ。あたしは、どんな絵を描いてみたいんだろ。

 そっか、それが足りないんだ、あたしの絵には。

 良い絵を描きたい。それだけじゃ駄目なんだ。目標がない、それが足りないから自信がなくて、どれだけ描いても納得できない。


「じゃあ何? ゲームの作曲家にでもなるの?」

「それはまだわかんないよ。けどさ」


 不意に、智昭は立ち上がるとあたしの絵を眺めた。


「僕が好きなジャズとかクラシックだけじゃなくて、もっと色んな曲を知らないといけないのは確かだ」


 彼はそのまま、あたしに顔を向けた。さっきの陰りはどこかに消えて、爽やかな腹立つ笑顔を浮かべている。


「だから、もっと教えてよ。明子の好きな音楽」

「好きって……、そういえばあたしが好きなゲーム曲にジャズっぽいのがあった気がする」

「ジャズっぽい? ブルーノートが使われてるのかもね」

「ブルーノート? 何それ、あんたの手帳のこと?」


 智昭は書き始めていた手を止めると、青い手帳をヒラヒラと振った。


「違うよ。ブルーノートっていうのは長音階の……じゃなくて簡単に言うと、ジャズとかブルースとかに使われる音階のこと」

「最初からそう言って」

「ごめん。でも、勉強のために色んな曲が聞きたいから、ジャズに似た曲はちょっと」

「私が好きな曲を学びたいんでしょ。それに、そういうのって、自分が好きな領域に近いものから始めた方が良くない?」


 そう提案すると、智昭は合点がいったように「なるほど」とつぶやいた。


「なんだか悪いな。僕の勉強に付き合わせるの」

「それはお互い様だから」

「え、どういうこと」


 智昭のおかげで、自分の絵に対して抱いていた自信のなさの理由に気づけたから、あたしはこいつに感謝していた。

 自分がどんな絵を描きたいのか頭の片隅で考えながら、あたしは首を振る。


「なんでもない。そんなに申し訳ないって思うなら、今すぐコンビニ行ってきて。で、あたしにアイス買ってきて」

「いいよ。僕の分も買ってくる」

「なんで?」

「君が終わるまでここにいる。どうせゲーム音楽聞くんだろ?」


 得意そうな智昭を見て、あたしは肩をすくめた。


「好きにすれば。ほら早く行って。でないと筆投げるよ」


 にっこり笑いながらあたしが言うと、彼は大慌てで部屋から出て行った。

 制作室は相変わらず暑く、むっとした空気が漂っている。だけど、さっきまで抱えていたイライラはどっかに吹き飛んだ気がする。

 音楽プレーヤーを手に取ると、あたしはまたゲーム音楽を流し始めた。自分の作品と改めて向き合うために。

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