大罪人の娘・前編

第八節 戦いの天才たち

ほとんどの歴史書にはこう書かれている。

「織田信長は、新しい時代を作るために古い秩序を『破壊』した」

と。

ところが！

近年の研究者たちによって、それが全くの誤りだと指摘されている。

「むしろ古い秩序を『重要視』していた」

と。

歴史書がいかに出鱈目（でたらめ）なのかが良く分かる一幕（ひとまく）だろう。

　◇

『秩序』を重要視したこと。

これは、信長自身に大きな災いを齎（もたら）した。

大勢の人間が信長の敵となってしまったからだ。

「奴らは何も分かっていない！

戦国乱世となった原因は……

己（おのれ）の、しかも目先の『利益』ばかりを追求して争いを招き、それが戦（いくさ）へと発展した結果として、秩序を崩壊させてしまったからではないか。

あ奴らのような秩序を軽んじる振る舞いこそが、戦国乱世の元凶なのじゃ！」

信長はこう叫んだが、叫んだところで解決しない。

視点を変えることにした。

「敵を作りたいわけではないが、この考えを改めるつもりもない。

どうする？」

そして、一つの『目標』を立てた。

「わしに固い忠誠を誓い……

どんなに大勢の敵を見ても怯（ひる）まず、果敢に攻め掛かることができるような味方を得よう。

人は銭［お金］を支払ってくれる相手に忠誠を誓うもの。

ならばよし、この信長が銭を支払う側になってやろうぞ！」

目標を達成するための『手段』も編み出した。

「それには、多くの銭［お金］を持つ富んだ者どもを味方に付けておく必要がある。

奴らが一番嫌がることは何か？

敗者の側にいたせいで、持っている銭が減ってしまうことじゃ。

だからこそ常に勝者の側にいたいと願い、戦（いくさ）に強い武将を探し回っている」

この『発想』こそ……

信長が、一種の天才だと言える理由なのかもしれない。

「『戦いの天才が現れたぞ！』

奴らに、こう信じ込ませようではないか。

そのためにわしは、一見すると愚かで、無謀な戦い方をする。

敵より圧倒的に少ない兵力で、しかも正面から挑んでやろう」

と。

　◇

信長が織田家を継いで4年ほど経った頃。

「信長は秩序ばかりを優先し、一族や家臣たちの利益を軽んじた。

わしは断じてそのような者を当主とは認めん！

一方。

弟の信行（のぶゆき）様は、一族や家臣たちの利益を最優先にされる御方じゃ。

どちらが当主の器に相応（ふさわ）しいのか……

戦場（いくさば）にて決着を付けようぞ！」

信長を裏切った家臣、柴田勝家（しばたかついえ）と林秀貞（はやしひでさだ）が合計1,700人の兵力で立ち上がった。

一方の信長はたった700人だけ用意して戦いに挑む。

『稲生（いのう）の戦い』である。

「たった700人だと？

ならば包囲して確実に殲滅（せんめつ）してやろう！」

信長軍の数を聞いた勝家（かついえ）と秀貞（ひでさだ）は勝利を確信した。

勝家軍が1,000人で東から、秀貞軍が700人で南から迫る。

これを知った信長の家臣たちは大いに狼狽（ろうばい）した。

「信長様！

このままでは、我らは挟み撃ちにされてしまいます。

一刻も早く退却を」

対する信長の答えは……

家臣たちの理解をはるかに超えていた。

「我らが敵より圧倒的に『有利』であるのに退けと申すのか？」

と。

　◇

家臣たちは呆気（あっけ）に取られた。

「信長様。

これの、どこが有利なのです？」

「そちたちは……

敵の動きを見て、何も感じないのか？」

「そう仰（おお）せれても……」

「敵は我らの倍以上いるのに、なぜ自ら数の優位を『捨てた』？」

「数の優位を捨てた、とは？」

「まだ分からんのか。

兵を二手に分けない方が、数の優位を保てるではないか」

「挟み撃ちにするために兵を二手に分けただけでは？」

「そんな簡単に挟み撃ちなどできるかっ！

挟み撃ちとはな……

2つの軍が、寸分も狂わず同時に敵とぶつかる作戦なのだぞ？

片方が少しでも遅れたら作戦『失敗』であろうが」

「で、では……

なぜ？」

「奴らが『一つになっていない』からじゃ。

こんなものは、ただの兵力分散と何ら変わりはない。

各個撃破の好機とはこのことよ」

「おお……！

では、兵力の少ない秀貞軍から攻めますか？

距離も勝家軍より近いようです」

「いや。

秀貞と比べ、勝家は判断力のある戦上手（いくさじょうず）。

我らの動きを知った勝家は……

即座に判断し、最初に決めた予定を捨て去るに違いない」

「どう動くと？」

「急進して我らの背後に回ろうとする」

「何と！？」

「だが。

判断力のない秀貞にそんな芸当はできん。

最初に取り決めた予定を変えていいかどうか、周りに相談して貴重な時間を浪費する」

「し、しかし……

秀貞軍より勝家軍の方が遠くにおりますが？」

「今まで何のために兵を歩かせ、走らせたと思っているのじゃ！

今日この日のためではないか！」

こうして信長軍は、電光石火の早さで勝家軍へと襲い掛かった。

　◇

勝家（かついえ）が敵の接近に気付いたとき……

信長軍は目の前に迫っていた。

「信長が目の前に？

近くの秀貞（ひでさだ）へ向かうと思っていたが、裏をかかれたか！

それにしても……

何という早さじゃ！」

勝家軍は、数の優位がありながら受け身に回った。

それでも冷静に守りを固めて迎え撃つ。

信長軍に手痛い犠牲を払わせたものの、結果的には退却した。

直ちに信長は軍の反転を命ずる。

「追撃など無用！

反転して秀貞（ひでさだ）軍へと向かえっ！」

秀貞が敵の接近に気付いたときも……

信長軍は目の前に迫っていた。

「の、信長が目の前に！？

ついさっき勝家とぶつかったと申していたではないか！

早い、早すぎる！

もしや……

勝家が裏切ったのでは？

どうする？」

「秀貞は相変わらず判断が『遅い』！

敵を目の前にしてやるべきことは、たった一つであろうが。

戦（いくさ）とはな、こうやってするものじゃ！

全軍突撃！」

浮き足立った秀貞軍は一瞬で叩き潰された。

　◇

「戦いの天才が現れたぞ！」

富んだ者たちは信長に熱狂した。

瞬く間に信長にお金が集まり、瞬く間に信長の敵からお金が消えた。

『お金の力』に物を言わせた信長は……

家臣や兵士たちへの報酬を増やし、固い忠誠を獲得する。

そして。

お金の消えた信長の敵から、人間も消えていく。

打倒信長を固く誓い合った味方が、先を争うように信長へ寝返った。

「金の切れ目が、縁の切れ目」

まさにこの言葉の通りとなった。

　◇

戦いの天才たちは、どうやら同じところに行き着くらしい。

アレキサンダー、ハンニバル、カエサル、ナポレオン、源義経（みなもとのよしつね）、北畠顕家（きたばたけあきいえ）、そして織田信長。

彼らは兵士の訓練方法も共通していた。

ひたすら歩かせ、ひたすら走らせたという。

かつてナポレオンの言った言葉に全てが含まれている。

「わたしが求める強い兵とは……

よく歩き、よく走る兵だ」

と。

　◇

比留（ひる）は、阿国（おくに）の話を感心しながら聞いていた。

「戦（いくさ）において……

いかに兵を早く移動させるのかが肝心なのですね」

「その通りです。

孫子の兵法にもあります。

『兵は、神速を尊（たっと）ぶ』

と」

「なるほど！」

「しかし、光秀様はこう仰（おお）せでした。

『勘違いしてはならん。

この言葉は、兵の移動する早さだけの意味ではないぞ』

と」

凛の目が変わった。

阿国の話に何かを感じ取ったようである。

「他に、どんな意味があるのです？」

「止むを得ず戦（いくさ）になったとしても……

必ず『短期決戦』とし、長期の消耗戦は絶対に避けよと」

「阿国。

短期決戦など簡単ではありません。

慎重に考える時間もなく、直感に頼るしかないのですよ？

どれだけ危険か分かっているのですか？」

「凛様の仰（おっしゃ）る通りですが……

長期の消耗戦になれば、死ぬ人が確実に増えてしまいます」

「……」

「だからこそ光秀様は……」

　◇

「これはまずい」

軍議の席にいた光秀は、強い危機感を覚えていた。

「比叡山（ひえいざん）を焼き討ちにせよ」

信長が命令しても誰も進んで従わない。

比叡山への恐怖が、信長の命令に宿っていた力を消しつつあった。

織田軍の強い結束力が揺らいでいた。

「戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成したい」

自分と同じ志（こころざし）を持っていることを知り、信長を主（あるじ）に仰（あお）ごうと決意した。

ところが！

秩序を優先したために大勢の者が敵となった。

得意の各個撃破に出たものの、何と最初の敵で躓（つまず）いてしまった。

自分が率先して従う模範を示せば、信長は救われる。

深く感謝し、厚く報いてくれるに違いない。

人生に一度あるかないかの大きな機会［チャンス］到来である。

ただし。

その『代償』があまりにも大きい。

信長は今後、どんな命令でも率先して従うことを自分に期待するだろう。

「大きな代償を支払うことになるとしても、戦は常に短期決戦でなければならないのだ！」

こう覚悟して先陣を名乗り出た。

「光秀殿の『覚悟』は見事じゃ！

あの姿勢は尊敬に値する。

だが、茨（いばら）の道ぞ……」

こう呟（つぶや）いた男は、木下秀吉（きのしたひでよし）と言う。

後の豊臣秀吉である。

【次節予告　第九節　闘ってようやく開花する才能】

「これは、凛様にとって大きな転機になる」

阿国はこう言います。

彼女は凛の持つ『才能』に気付き、それを開花させたいと考えていたのです。