レナトゥス

レオニード貴海

第1話

 僕の右手にはフェンシングで用いられるフルーレのような武器が備わっていた。いつの間にそれを手にしていたのかはわからない。ここがどこなのかも。

 足元にはカラフルな模様が広がっている。地平線の果てまで、どこまでも。勢いに任せて雑に塗りたくった油絵の抽象画みたいだが、よく見るとそれが絵ではなく何かの破片であることが判る。僕は左手でそっと、そのうちの一つを摘み上げた。指に挟まれたゴム質の薄い欠片は、プルプルと頼りなく震えた。

 ふと、僕は上方を見上げる。天井などはなく、ただ曇ったような灰色の空間がどこまでも続いている。そこに無数の、色とりどりの風船が浮かんでいる。小さな玩具のようなものから、巨大な飛行船みたいなものまで。その周りを、翼を生やしたものたちが飛び回っている。

 辺りを見渡すと、ぽつぽつと人々の姿が見えた。僕と同じように手にはフルーレを持ち、忙しなく駆け回っている。パン、パン、とあちこちから音が聴こえた。


 背後に気配を感じて振り向くと、すぐ近くに、赤い風船がゆっくり下降してくるところだった。誰かが急いでこちらへ向かってくる。

「もーらい!」

 風船が射程範囲に至るやいなや、彼はひょいっとフルーレを突き刺した。赤い風船は小気味よい音を立てて空中に飛散した。

「へへっ」

 彼は得意そうに笑いながらまたどこかへと駆けていった。新しい風船を狙っているのかも知れない。僕はどうしたものかな、と周りをぐるりと見回した。誰もが同じような武器を振り回して、あるいはチェストして、時折力なく降りてくる風船たちをパン、パン、と虐殺していく。


――ぱあん!


「やった!」

 ひときわ大きな破裂音の後、発せられた高い声の方を見やる。女の背中からにょきにょきと二本の白いアスパラガスのようなものが生え、回転しながらぶわっと音を立てて広がるとそれは翼になった。彼女は背中から飛び出した異物の重みに少しくよろけた後、しかしすぐに要領を獲得して翼をはためかせ、羽根にねばつく半透明の液体を振り払うと静かに飛び立っていった。上空へと登っていく彼女は見る見るうちに小さくなり、空の天使たちに紛れて間もなく区別がつかなくなった。

 少し離れた場所では、積み上がった風船たちの破片ごと地面が盛り上がり、中から大学生風の男が出てきた。右手にはフルーレ、呆けた顔をしてきょろきょろと辺りの様子を確認している。僕もああやって出てきたのかな。


「あんたあんた」

 振り返ると中年の男がいた。

「新人だろ、ここのルールはわかったか?」

「なんとなく」

 男は満足そうに頷く。

「チームを組まないか。どっちかが風船を捕まえて、もうひとりがそれを割る。交互に繰り返せば効率がいい」

 さっきから風船を仕留め損なっている人は確かに少なくない。そもそも当てることのできないものから、当ててもうまく割ることができないものまで、いずれにせよ手こずっているようではある。

「でも、なんのために?」

 男は呆れたように目を逸し、大きなため息をついた。

「ここにずっと居たいのか? 風船を割らなきゃ、もらえない。呼んでもらえなきゃ、いつまでも地面に這いつくばっているしかないんだぞ」

「この風船は何なんです? 上には何があるんです?」

「知らんよ。でも周りを見てみろ、みんな必死で上を目指してる。ここには何もないが、上には何かあるかも知れん。とにかく風船を割らなきゃ始まらん」

 男はしびれを切らしてもういいよ、と言うと僕から遠ざかっていった。


 僕は地面に座り込んで彼らの華麗だったり滑稽だったりするプレーをしばらく眺めた後、特に何の気もなく、フルーレを地べたに突き刺してみた。地面は柔らかく、フルーレはガードの部分まですんなりと沈み込んで行った。ふうん?

 お尻の下にある風船の残骸をすべて退けると、赤く濡れた黒い土が顔を出した。幾分気味が悪かったが、僕は構わずに掘り始めた。すぐに両手が真っ赤に染まった。一心不乱に作業を続けて、何日分かの汗を流し終えたとき、僕の手はつるつるした硬いガラス質の層にたどり着いた。六、七メートルは降りてきたと思う。しかし、新たな層はフルーレを立ててもびくりともしない。ここで行き止まりのようだ。奥の方では赤い光が薄っすらと輝いている。


 と、風船の一つが僕のところへ落ちてきた。掘り進めた穴は直径が十メートル近くあり、ウジ虫のような気色の悪いワームもたくさん出てきたうえ、僕自身赤い液体のせいで全身が深紅に染まっていた。さながら猟奇的連続殺人現場の様相を呈していたので他の連中は不気味がって近寄ってこなかった。僕はこの数日(ここには太陽も何もないので、便宜的な時間感覚)で変人としての地位を確固たるものにしていたのだ。かくして白い風船は無事に僕の手元までたどり着いた。

 しばらくの間、手にとった風船をじっと見ていたが、割ってみようという気にはならなかった。どうしてだか知れないがそれは、なんだか大切なものに感じられた。

 不意に思いついて、僕は風船をガラス質の層に押し当ててみた。風船はほとんど何の抵抗もなく、すうっ、と、透明な壁の向こうへと落ちていった。少しして、中に入り込んだ風船からぬるっと細長いしっぽのようなものが生え、くるくると回転を始めた。風船は突然意思を獲得したようにして、ガラス質の層の中を緩やかに泳ぎ出した。赤い光の中心へと向かっていく。


 風船が深くへと潜っていき豆粒のようになって光の中へ消えてしまうと、突如、大地が揺れ始めた。連続する恐ろしい破裂音が聴こえて空を見上げると、まるで花火のようにして風船たちが次々と爆発していくのが見えた。空を飛んでいた人々も、翼を失って落下してくる。あちこちから悲鳴が聴こえる。僕はなにかマズいことをしでかしたらしい。


 そのとき、声がした。声は外からではなく、背中の内側から聴こえてくるようだった。僕の知らない言葉だったが、どこか懐かしく、温かみのある音だった。

「7zmJUrZnF@PO+@+@A?+P!!」

「え?」

「v.MZbp+51ntpW/52U@za」

「うん……」

「0AnYqn*!VuhLT9A#R!q」

「……」


 わずかな痛みとともに、背中から何かが飛び出した。粘液が滴る音。一瞬の間をおいて、体が宙に浮かび上がる。気がつくと空にいた。

 堕ちてくる天使たちと入れ替わるように、体はぐんぐん上空へと昇っていく。一番大きい飛行船のような巨大な風船が眼前に迫ってくる。この紫色の風船だけは破裂しないようだ。巨大風船は遥か上層にあり、地上から想像していたよりもずっと大きい。まるで小さな星だ。びりびりと体を貫くようなエネルギーを感じる。色の無い光線が胸を貫く。音の無い声が聴こえる。

「27A15F6B0DAF0D5460D3DE7CF501D4」

 信じがたいほどの怒り。体がばらばらになりそうだ。星のような風船は僕を滅ぼそうとしているようだった。ブラックホールの重力に捕まった恒星がその姿を維持できなくなるみたいにして、僕はもうすぐ散り散りになるだろう。おとなしく風船を割っていればよかったのだ。

「B1E3E7F0D74C00EE056BC74704D55032FBFA6B04D2B6517」

「q!*!Yin=-Nls4%Gdna*z」

「え?」

「%E@qhYMQTft$dSUi.qoNwgQvC」

「nWLIHWK5kd6G3h??」

「うん……」

「C141374AB4650C4510624A7FDE204A4342B5042B106AC13DD26A53B0401EBB3ABA5BFF6D765ED3730EC4260BAD06FAA5C3BF4FD04BC45300EA715043......」

「N8#QdN*JPJKjxidsmNX=I/」

「うん」

「cw.m80*!G9v%2rBG!」


 僕は身体ごと振動する両手でフルーレをしっかりと掴み直し前方にぐいっと突き出した。まっすぐに伸ばして維持しようとするが安定せずに震える。広大な、うっ血した肌のような色の風船が視界いっぱいに広がっていく。ふっ、と、糸が切れるようにしてすべての音が途絶え、何故か一瞬、赤ん坊の泣き声が聴こえた。視界が真っ白に染まっていくと、やがて意識が失われた。




(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

レナトゥス レオニード貴海 @takamileovil

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る