第164話 旅立ち。3/4
とはいえ、敢えて振り返り老人から視線を逸らしたという事は老人からも女神の表情は
月明かりの斜光、星々の
しかしてそれでも老人は僅かルーゼンビフォアが垣間見せた僅かな感情の機微から、何かしらを悟るに至ったのかもしれない。
「ふむ、伝聞……そう思えば、事前に聞かされていた貴殿の性格も些かと噛み合わぬ印象ですな。権力に
かつての女神の傍らにて蠢き始めた少女だった怪物の変異に対して咄嗟に両手で握り、今にも杖を
そこから周囲の状況を確認するような目線を流す
「油断を犯して手痛い目にあったとは聞き及びますが、そこまで——彼が恐ろしくなり申したか」
そして告げるは一見と挑発めいた言動か。
いいや、侮蔑せぬからこその探りに違いない。
欲したのは、背を向けて振り返って感情を隠す女神の心と、未だ測り得ぬ数多の者たちの心を掻き乱し続けている——風雲児の正体を知るに至れる糸口。
さぁ——かつての女神は彼の者の事を、或いは己の事を何と答えるだろう。
「恐ろしい? ふふ、まったく何も分かっていない……私の性格を己の尺度でアナタに語らったギリクもまだまだ青二才」
いや、それは
彼女は老人の放った言葉を浅はかと断ずるに余りある指摘だと笑う。
クスクスと表現できるに似た人差し指の第二関節に軽い
「情けも、加減も、彼らが望まぬというから私は敬意をもって出来得る限り彼らの望みを叶えようとしているに過ぎないのですよ」
まるで
片手に持つ槍の矛先に傍観者たる月光を僅かに注がせる動きを魅せながら、振り向けば見えなくなる戦場の木霊に耳を傾けるが如く小首を傾げ、後ろ髪を
「敬意を払うとは、その対価を持っている者にのみ当て
「いえ……ここは敢えて見定め直したと言うべきでしょうね、ふふふ」
そして敵対者を前に瞼の帳をユルリと降ろし、悠長に時を過ごしているかのような余裕を装いつつ、そして一人語りを続けながら思い出し笑いをも浮かべゆく。
「それの証とする為に、わざわざ急ぎでコレを間に合わせたというのに……足手纏いと邪魔が入り、私は少し不機嫌ですよ」
「ほう……」
かつての彼女は神であった。そのような名残、威光や風格という物を未だ感じさせていても静やかに彼女が周囲で蠢き、白い息のような蒸気を燻らせる少女だった怪物に視線を向ける所作を品定める老人の双眸には、明らかに禍々しい神ではない何かのように映り込んでいて——、
「ですが、私は変わらず公正で公平だ。対価も覚悟せず己が罪も自覚せず、身勝手な振る舞いをする者に相応の
あらゆる世界の全てを等しく見下げるような冷徹が、そこにある。
嗚呼——その堂々たる言い
「度が過ぎた越権行為の数々——汝が『秩序』の地位を剥奪されたのは、そのような振る舞いが公正などと程遠い物であったと聞き及んでいますが?」
品定めようとする本質、彼女は如何な善にして悪か。水平に傾けていた隠し刀の仕込まれた杖を持ち直し、そっと杖らしく杖先で今は足下——岩場高台の地を老人は密やかに削るに至って。
「面倒事を嫌い、世界を甘やかす神々——何の一つと現状が変わらない停滞。繰り返すばかり……誰もが秩序を軽んじ、好き放題に振る舞い、文句ばかりを垂れ流す」
そうして杖の腹を親指でグッと持ち上げて僅かに隠し刀の刀身に静寂にして騒がしい月の明かりを僅かに跳ねさせながら、彼は問いを向けた彼女の答えを安穏としない真剣味の有る面立ちで聞き通す。
——刀は抜ける。
斬れるか否かは別の話ではあれど、確かに刀は抜けるだろう。
「都合が良い時にだけ秩序だ、正義だ、愛だと
「
並行思考で気もそぞろではあったが、聞き耳立てて確かに耳を打つルーゼンビフォアの言葉の端が、全身に鳥肌を立たせるような不快感を
悪か否か、正か邪か、やや傾く心の秤——平たく、等しく在ろうとする佇まいを貫こうとしていても自然と体は武器を構え始める。
しっくりと来るのだ。しっくりと、来るのだ。
「歪み? ふふふ……歪んでいるのは
両手に隠し刀を仕込まれた杖を持ち、目の前の敵対者との間を別つように位置させる事こそが、相手に密接となる事無く、己が立ち位置との明確な差異——拒絶の意を示すのに——それが実に、しっくり来るのだ。
「今も尚——私は、私こそが『秩序』の女神ルーゼンビフォア・アルマーレン」
微笑みに滲み出る狂気じみた狂信と自負、一切と己を疑っていると思わせる何一つの余地もなく
己が瞳に映る——見定めようと思っていた、或いは御しきれるやもとも思えていたルーゼンビフォアの姿と紡ぐ言葉に、老人は己が胸中にあった淡い期待を断ずるに至る。
——不変絶対こそが彼女が神たる所以か。
言葉は届かない。話し合いで、言葉のみで汲み伏させる事は恐らくと不可能に近しいに違いないと、老人は深く彼女を理解した。
確固として確立された思想、信念——揺るぐ事を期待するだけ無駄だと断ずる。
そして——、
「ギリクの遣わした資格者……不適格ですね、アナタも。秩序の神になるには程遠い……脆弱な魂だ」
「……」
見れば当然と、見られる事を畏れなければならない。月明かりに、彼女が欠ける眼鏡の鏡面に一舐めの白がユルリと映り込み、一瞬だけ彼女の双眸が世界に隠れた。
その時——何かに反応し、空気に慟哭を伝えるが如く彼女の周囲で蠢く少女の顔面だった怪物の皮膚から見開かれた幾つもの眼球が慌ただしくギョロギョロと動き始めても居て。
「始めますか? 此処まで会話に足りたアナタになら最低限の敬意も払いましょう……この子のように、尊厳すらも破壊して残骸を利用するような事は無いと約束して差し上げます」
——老人は悟り、そして思い至りもしたのだ。
この尊大な堕ちた神に、敬意を払われる一人の男の存在を思い出しながら、思い至りもした。
「アナタの中にある神秘は、あの男を苦しめる為の……今回は間に合わなかった者の願いを叶える最後の一欠片には成ってもらうかもしれませんが」
この落とされて尚と尊大を失わぬ神とは真逆に、己も他も——何も信じる事が出来ぬと、何者よりも愚かで弱いと嘯いた真逆と言って差し支えぬ悪魔じみた人の子の事を思い出し、そしてその男の計り知れぬ可能性も悟るに至りて。
彼は笑った。
「……それはそれは——これから如何に振る舞うべきか、未だ計りかねますな……彼の者の予見を
嗤っていた彼を思い出し、笑うのだ。
何を宣う——誰よりも、この神を討つに相応しき
何の恐れも無く、するりと抜かれる隠し刀の白刃は煌き、月夜の暗がりに僅かに踊る。
嗚呼——此処より先は、少し先にて物語ろうか。
——。
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