第118話 月は何事も無いように。2/4


やがて月は、何事にも聞き耳を立てぬように輝いていて——酒のつまみのように細い裂き烏賊いかのような白雲を口端に尖らせる。


「一番、俺が一番に怖いのはさ——失望する事なんだよ」


ほんのりと黒いヘラで掻き回す鍋から湯気が昇る気配を見せた頃合い、まだまだと安堵ひと息とは行かぬ様子で凝った肩を落とすイミトは、鍋へと寝ながらに吐露するが如くクレアに己が胸の内の底に眠っていた想いを語った。


「客の手前、格好つけて人の心配ばっかしてるように魅せたけど——本当は、なにより自分がガッカリしたくないだけ」


『……』


己の小ささと欲深さを嘲笑いながら搔き回す鍋の中でポコリと一つの気泡が重苦しい液体の中で呼吸を求めるように白濁の水面を盛り上げて弾けて失せる。


空っぽに見える呻き——


「例えばさ、何に襲われるか分からない暗い危険な洞窟の先で、金ぴかに輝く宝箱があったとする。その箱に飛びついて、これで俺も幸せになれると叫ぶ」


「けど、箱を空けてガッカリ——しょうもないガラクタしか入ってなかったとしたなら? もしかしたら俺は、宝箱に興味が無くなって蹴り飛ばすかも知れねぇ。別に箱は悪い事を何もしてねぇのに酷い話だと思うだろ?」


次第に、次第にと沸々と鍋の中で渦を巻きつつ初めの一つに気付かされたように鍋の底からあぶられていた事に気付いた気体たちが波及的に重い液体を押し退けるように泡立たせ始めて、見る見ると気泡の群れを成して鍋底から噴き上がらんとうごめき出す。


そこでイミトはそれを見越して、魔石が灯す怨讐おんしゅうの火を弱めるべくといた片手に持つ火鋏ひばさみで魔石の位置をずらして行くのだ——すれば熱は冷めたと誤魔化され、静まりゆく群れの滑稽。


『要点が掴めぬな、例えなどで誤魔化さずハッキリと申せ』


次に火鋏ひばさみの代わりに手に創り出した底浅の柄杓ひしゃくにて白濁とはもう言えぬ薄黄緑に近しい色合いの水面に浮いた泡を掬い、尚も焦げ付かぬように鍋の中を掻き回す作業を再開した。


そんな最中にも脳裏に響くクレアとの会話には留意していたようで、



「……好きでもねぇ女を抱いた時と、好きな女を抱いた時に感じるものが同じだったなら愛なんて物に何の意味も無くて、愛のあるセックスが存在しない事の証明になっちまう。不安なんだ、それが一番——嫌われるよりももっと……嫌なんだよ」


作業に気を取られ、僅かに逸らした意識の隙に突きつけられたかし声に、一呼吸。されども穏やかに慌てふためくことも無く切なげな言葉を返す。


その表情は、彼が帯びる呪いの如き哀愁が如実に満ちて彼の胸中に絡みつく罪深と自認する過去を容易に想起させるものではあった。この時の——唯一の救いは、その表情について掬う者が近くに居なかった事ばかりであろう。


『……』


「相変わらず答えなんて一つの、くだらねぇ話で……結局は、やってみるまで分かんねぇし逃げ回った所で追い掛け回される問題だ。そういう相手が出来た事を喜ぶべき事なんだろうけどな」


ほのめく液体が熱にあおられ沸かされた湯気が抱擁する青臭い薫りは、いずれ豆腐のような蒸された香りに至る。そう願うように彼は穏やかに、やはり焦げ付かぬように鍋の中身をどろりと搔き乱していく。


だがその時、不意に彼の手は止まった。



『——言うなれば、我の肉体と似たような問題という訳か』


「……そういう流れにするつもりは無かったんだけどな。同じって言うのは、事の深刻さが段違いだし、悪い」


それは——紛れもなく無意識で、無神経な行き届かない無配慮の結実。互いに——暗黙の内に胸に秘めて、ここまで匂わせるだけで語る事は無かった可能性の話題。



『奴等が行動を起こし、事を急ぐは限界が近いからであろう。我も目覚めたとなれば尚更だ』


「やっぱり感じてるか。向こうさんは、どう思ってるんだか」


やはり直接的に語る事は無くとも、明確な一つの事柄について言葉を重ねる二つの命。薄々と感じていた可能性は、旅が進むと共に現実味の薫りを濃く漂わせているのだろうか。


鍋の中身を心ここにあらずの風体で撫で続けながらも、出来得るなら語りたくは無いと言わんばかりに重い息を吐くイミトの湯気にまみれる表情には些かの徒労が汗ばんでいるようであった。



『あまりにも弱く、しなびておる——恐らく、少なくともジャダの滝の戦では想定通り、そう期待も出来まい。それどころか——』


「諦めんなよ。まだ確定してねぇし、決めつけるのは早過ぎるだろ」


細やかな幸せな悩みを噛みしめる暇など棚に置かねばならぬ程に切実な問題は、気怠く彼女らに絡みつく——そんな因果を解きたいと、鍋を炙る弱々しくなりつつある赤き火の魔石の幾つかの内の一つを、唐突に漆黒の色合いの鎧篭手で包んだ掌で掴み上げて感情の発露の如く静かにこうイミトは呟いた。


「【不死王殺デス・リッチし】」


すれば瞬く間に火を灯す魔石が熱を吸われたかの如く鎧篭手よろいこてへと炎が移り消え去って、残された白い魔石は独りでに——否、あやまって握り潰されてしまったかのように砕け散る。


切なげに、泣き出すように。


『ふん。貴様がそれを言うか……貴様としては、我が体を取り戻すのは不本意なのでは無いか? 我が貴様との繫がりを断てば、貴様の作る飯の味が分からぬようになるのだぞ』


「それは——別にどっちでも良いさ。一緒に居てくれよ、俺が飯を作ってるのを文句を垂れながら眺めて、たまには喧嘩して、借りてるもんやら因縁やら、くだらない物を全部片づけて一緒に行った事のない場所へ行こう」


それでも彼らの面立ちはきっと、笑んでいるのだろう。長々と待ちぼうけを余儀なくされる雨音に似た夜の、とても長い気がする調しらべに、暗幕が降ろされても尚と次の場面を待つ客のように期待と不安で胸を躍らせるかのように。


風に揺られて明滅と誤認する輝きを、漆黒の鎧篭手で夜空の星をそうするが如く掴み覆われて、ひと時——夜は本来の姿であろう闇をさらす。


「お前を愛してるかどうか、何かを愛した覚えも無い俺にゃイマイチ確信は持てねぇけど——お前が居なくなったら、たぶん他の誰が居なくなるより……寂しいとは思うよ」


しかして溢れんばかりの煌きが再びと、否——先ほどよりも強く輝きを放つのはイミトが魔力を込め直した所為。



「だから俺は——メイティクス・バーティガルを想い入れも無く殺すんだ。それが誰かのそれを奪う結果になろうともな」


『……』


軽々と蒼天の昼晴れと見紛う程に心持ちに迷いは無く、禍々しき暗黒の掌に包まれる太陽に似た格好で魔石から手を離したイミトは、クレアへと告げた。



「にしても、ちょっと嬉しいな。お前の今しがたの口振りじゃ、体を取り戻しても俺達と一緒に旅してくれるつもりみたいで」


そして柄にも無いと、自ら駄目な洒落っ気を鼻息で嗤い飛ばしながらに加える茶化し。あからさまに己が濁した会話の雰囲気、傷口に唾を吐きつけて血を拭うような話題を変える試み。


そして、


『——……そうだな。暫くは、約束しておいても良い。暫くは、だが』


『このような旅路に、付き合わせてしまった礼もあるのでな。そんなものが礼となるとは思えんが』


再びと寡黙の言い訳となる料理に逃げるような足取りで、彼は黒い厨房の湯気を放つ鍋の元へと戻っていく。


その時、湿原の——何処か遠くで獣が鳴いた。

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