第118話 月は何事も無いように。1/4


月は、何事も無かったかのように輝いていた。


「掛け算ね……そりゃ人生の長い時間、殆んど全てがマイナスで——プラスにするには相当な運と労力を要する気がするんだがな。ロクでもねぇ」


溢れんばかり、音が聞こえてきそうな程に湯煙を沸々と放つ寸胴鍋の前で柄杓ひしゃくで弧を描きながら男は蒸気の群れの中にその月が写っているかのように男は目を閉じずにうそぶいた。


周辺の千切れに千切れた暗雲に些かと遮られながらも、広々とした湿原に万遍まんべんと降り注ぐ月光、風の音はいずれ来る騒乱に備えてのささやくばかりの小休止。



「にしてもわずらわしいもんだ、祭りの後も——あんな爺さんとの別れの夜ですら、寂しげで」


目の行く先と色を変えぬまま、滑稽にカクリと小首を傾げたイミトは独り言を続ける。ガラルが何処ぞへと消えた——その余韻が風に流されぬまま残る旅情に、長い夜に語りきれる事はまだ絶えぬと言った様相に違いない。


そこで己の途切れた集中を未熟なりと相も変わらず嗤うイミトではあるが、ふと夜空を見上げる彼の双眸は何処か誇らしげでもあったのだ。



「そうだな……俺はもう、独りじゃねぇのか。人恋しいたぁ皮肉が効いてる——美味く行くと良いけどな、コレもアレも」


月光を断末魔の如く細々と遮る雲の脇、ひと際と煌いて見えた星の一つに度し難い世に僅かばかりのり甲斐の笑み、しかし束の間と止めていた柄杓の動きを再開して彼は穏やかに時を過ごしていた。


されども——


「——もう話し掛けても良いぞ。客は帰った、?」


今はさびぬぐえぬ静寂の夜に変化は無く、まるで彼は背後に居た何者かに声を掛けるように独り言に似た何かを呟いた。無論、視界三百六十を死角なく見渡せる平坦な湿原の只中で彼の背後には何者も居ない。


空間の転移などという彼から言わせれば、与太話な御伽話な魔法などという異常の気配もなく、



『……別に話す事なぞ無いわ。それに貴様らのくだらぬ問答など聞いても居らぬ』


彼が話しかけたのは内なる己か、或いは紛れもなく彼女に対する言動であって。脳裏に響くような反響——彼の魂の片割れといっても過言では無い存在、クレア・デュラニウスが細やかな不機嫌で不貞腐れた様子の返事を暗に放っているようである。


って言ってんじゃねぇか。飯、食べ終わったか?」


『ああ……随分と静かに食べておったが、今は片付けを終えてセティスとレネスの二人でデュエラに文字の読み書きやら物を教えておる』


そうして悪態で始まる普段通りの会話、一先ひとまずと火であぶる寸胴鍋を掻き回す作業を止めて柄杓を鍋のふちを叩き、柄杓に残る雫を払って黒い厨房に置いたイミトは次に同時進行していた別の鍋の前へと歩き始めた。


やがて、まだ火も付かぬ魔石コンロの上で未だ中身も入っていない鍋の傍ら、イミトが手を伸ばすのは円柱型の太めのつつふた——よくよくと見れば、その筒は黒い厨房と一体化して突起のようになっていて。



「そうか……川で冷やしてたデザートは食べたか? 固まってるかどうか不安の極みだったんだけど」


質問に応えたクレアに対する言葉を返す最中、筒の蓋を掴んだイミトの掌から僅かな黒い煙がイミトを嫌うように天上へとすり抜けて霧散むさんし、更には黒い筒の周辺が震えるように黒い渦が巻き起こり始める。



『あの片栗粉とやらをで使ったとかいうという奴か。そう言えば伝えておらぬな、少し待て……確認させよう』


「すまねぇな、手間かけさせる」


——彼は、豆腐を作ろうとしていた。黒い厨房と一体化していたはずの黒い円柱型の筒は、黒い煙と成ったのであろう蓋と共に初めから付着していなかった素知らぬ様子でイミトの手に持ち上げられて、中身を鍋に注がれる。


ばかり口にするでない、腹立たしい』


「悪いとは思ってるよ。いつだって、そこに嘘は無い……ただ——何度と反省しようがが治らねぇだけで」


どろろと鍋に流れる白濁の液体は、充分に水を吸った大豆が漬け汁と共に筒の中で粉々になり水に溶ける程に掻き混ぜられた結果なのだろう——そして滑らかな質感で鍋の中に垂れ行く液体は、彼の軽やかな口調のようでもあった。



『どのみち改善せねば同じ事よ……今、セティスを川に行かせた』


「ありがと。固まってなかったら食べるなって言っといてくれ」


その白々しさにクレアの眉を顰めたような指摘が零れ、しかしながらともはや指摘するのも面倒と思い直した様子で話題すら変えられる始末。そんなクレアの優しさに、鍋に白濁を流し終えたイミトは火を付けるように言葉を返した。


あたかも怨念おんねんの如く揺らめきで滲むように鍋の底で灯る焔。



『ああ……そちらはどうだった。何か新たな情報は掴めたか』


「んー、まぁ……大したことない話かな。今後の展開を確定で優位に運べるようなもんは無かった……基本は世間話で愚痴を聞いてもらっただけだからな」


業々と、滲むように赤い輝きを帯びる魔石から溢れるソレは瞬く間に鍋底を埋め尽くしていく。


それを踏まえてか、即座にイミトは掌に新たな黒い渦を巻き起こし、創り出した黒いヘラで鍋の中身にムラなく均一に火が通るように掻き混ぜ始めた。



『しょうもない……貴様は、いつまでそのような些事さじで悩み続けるつもりだ』


 「一生。とは思うけど、明日の朝には終わらせとくよ……もう答えは出てるしな」


豆腐を作っていた。


滑らかな白濁の液体に火を掛けて、焦がさないように掻き回して沸々と沸きだすのを待つひと時——まるで人生のようだと彼は口角を少し持ち上げて、カクリと首を落とすが如く不謹慎を誤魔化しながら改めてと微笑ましく世界を見るような呆れ嗤いを浮かべ直す。


「アイツらが望むなら、いや違うな——お前らが望むなら、全部背負って……代わりに貰える物は全部貰う。欲深く行こう、どうせ嫌われ者の人生だ」


そして——いつものように悪魔のようでもありながら、穏やかに時を過ごす老害と罵られた老賢人の如き哀愁で青年は開き直るように言った。



『……であれば違ったか』


その時、思い出したかのように或いは時が再びと動き出したかの如く、ぶわりと気まぐれな風が詰まっていた息を吹き出して、黒い不吉な厨房を照らす魔石の灯りが激しく揺れる。


あたかも、彼の動揺であるように。



「はっ、お前のそういう所——マジで好きだな。退屈しねぇ」


「いいや。結論は一緒だろ……欲しいものは欲しい、性根の話さ。コソコソやらなくていい分、今の人生の方が個人的には清々しい」


しかしてカン、カン——豆乳間近の中身が踊る鍋を掻き回す黒いヘラが勢い余って鍋の内側を叩きて音を立てる中で言い得て妙と大したことも無い失敗を無神経に笑うイミトであって。



「たださ……躊躇ためらう理由が、もう一個あるとすりゃ——聞いてくれるか」


「聞かぬと言えば黙るのか。別に話したければ独りで何でも語っておれ。聞きたくなければ耳でも塞ぐわ」


それでも道化の笑みは笑い疲れた様子で謳うのだ。


「寛容に感謝するよ、ホントに」


「……明日の朝、陽が昇る頃にはきっと——聞きたいって言われても黙りこくってやるからよ」


そう言って——またしても謳い、始めるのである。


——。

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