第117話 或いは月が喰らっているのか。4/4


特段と嫌悪は無い。されども何かに想い馳せるようにイミトはガラルの言葉を聞きながら静まり返っていた。


「……やっぱりどうも、納得が行かねぇな。いや、アンタは——で、有難いお言葉だとは思うんだ。確かに、足りねぇのは実感……成功体験とか、そういうもんなんだろうけど」


そして木耳きくらげラー油の和え物を咀嚼しながらに、色合いの変わらぬ夜空の暗雲を眺めていた双眸を閉じる。雑多に座っていた体勢を整え直し、呆れの吐息を幾度目か溢す。



「……ほっほ。良い良い、その根深さは自ら掘り進めて行かねばならぬものだろうしの」


「硬い岩盤に突き当たらないのを祈るばかりさ。んしょっと……」


やがて己の諫言を拒絶したイミトをそれでも尚と快活に笑い飛ばすガラルを尻目に、イミトは椅子から重い腰を持ち上げる様相で立ち上がり、かかとの向きを変えた。


「なんぞ、また何かを作るのか。儂はもう、満ち足りておるが」


向かう先は、やはり黒い厨房でガラルがそのような問いと気遣い無用を先んじて口にするのも無理からぬ事である。しかしながらと、


「いやいや、他の奴等の為の作業をそろそろ再開しようと思ってるだけだ。途中だったんでな」


そのような思惑はイミトには皆目も無く、ガラルの静かな視線を浴びながらも彼は厨房の前に辿り着き、底だけが質感の違う寸胴鍋を支える三脚土台の下に置かれた魔石へと平然と火を灯すに至って。



「そうか……それは良い。では、儂もそろそろ行くとするかの。老体は、こうして椅子に座っておるだけで邪魔にもなろうし」


些かの安堵、過ぎたる杞憂——寸胴鍋の蓋を開け、傍らに置いてあった柄杓ひしゃくで鍋の底をユルリと掻き回し始めた背に、それらを悟り、もてなしの重圧から解放された様子でガラルは肩を少し落として座っている椅子の横に立て掛けてあった杖を手にする。



「はは。別に邪魔じゃねぇさ、流石に朝までコースは勘弁だけど——それに、こっからの作業は臭いが本格的に酷いからむしろソッチの為に逃げる事をすすめる」


まだまだと生き違い、勘違いは続いているとガラルの挨拶を笑いつつも、それでも良い時節——引き止めることも無い。加えてその時、湿原を吹き抜ける強き風が旅路の岐路きろしらせているようでもあった。


「くっく、儂も若者のしょうもない愚痴に朝まで付き合うのは流石に御免こうむりたいのでな」


よたりと椅子から立ち上がる酔いどれの夜。イミトの皮肉に皮肉で返し、両手で持つ杖を地面に突き立ててガラルは改めて作業を再開させたイミトの鍋を掻き回す背を眺め始める。


見据えたのは敵の未来か、或いは世界でもだえるあわびとの労苦。



「真、良い出会いであった。また会える時を楽しみにしておるよ……イミト・デュラニウス殿」


それでもガラルは振り返ることも無く作業を続けるイミトを眺める双眸を、頭を下げるように閉じて杖を動かし別れを告げてきびすを返した。


だが——そんな折、振り返った矢先の背後から、


「いや——、多分もうアンタとだろう。残念だけどな」


イミトの声色で透き通るような言葉が耳を突く。とても穏やかで、とても寂しげな口調。


吹き荒んだ風は——恐らくと天上より来たのであろう。

夏の余韻が残る季節にしては酷く冷たく、しかしながらその風は朗報に踊るようでもあったのだ。


「——ほう、随分と寂しい事を申す。良き別れかと思っておったが、噂に聞く未来予測か。聞かせて欲しいものじゃ、


夜空から月光を奪い去った厚い暗雲が千切れ千切れ所々に裂けていくが如く——いや或いは——。



「アンタが、良い奴だからさ。良い奴は、いつだって俺より先に死んでいく」


「クレアと離れて独りになってる俺を目の前にして、なんて選択をして一飯いっぱんの恩でむざむざと好機を逃した。その挑戦の無い生き方は、きっと最後の一瞬に後悔を産む」


月光の静かな灯りが天から幾つもこぼれる織物の如く注がれていく世界。


されども立ち止まらされたガラルの、イミトの背に顔だけ振り返らせた鋭い眼差しの中に映るのは、先ほどよりも遥かに濃く見える影。


先ほどの人の子は何処へ——そう思ってしまう程に、闇に溶けるような人影は想像の中に潜む悪魔に良く似ている気さえして。



「これは忠告だよ……ガラル・ディエガさん。殺し合った相手と手を組もうとしたり、わざわざ冥途めいどの土産を貰おうとしないこった。信じるってのは、自分の生き死にを相手に押し付けるのと同義なんだから。捨てられたって文句言われる筋合いが無くなるぞ」


カタカタと風に揺れる地に刺された木の枝に吊るされる照明、嘲笑に似た諦観は不思議と風に遮られることも無くガラルの耳に届いている。



「ルーゼンビフォア・アルマーレンも何かを企んで着実に強くなってる。もう力が封印されているとは考えない方が良いよ」


確かに月夜は晴れる、されど暗雲が世から微塵みじんと消え去った訳ではないのだろう——ただ風に、時流に動かされて揺蕩い続ける。そのような実感を与えるような響きが、イミトの呟きには存在しているとガラルは感じていた。


そう——まるで、彼がかかる呪いのようだと。


けれど、呪われて尚——


「……なるほど。肝に銘じておこう」


ガラルは悠然と足並みを整え、体の前面の地に突き立てている仕込み刀の杖を支えに——月のある方向に身体を向けて言葉の通り心に忠告を留めるべく瞼を閉じるのだ。


そして、老人は意趣返しのように若者へ告げる。



「では、儂からも一つ。最後に貴殿に言葉を贈らせてもらうとしよう」


去り際に濁ってしまった雰囲気を整え直すように、月明かりが戻りゆく世に羽ばたいた水鳥の如く語らい始めるガラル。しかし去り際に変わりは無く、ここまで徒歩で来たらしい老体の傍らの空間が歪み始めて渦のような穴を創り出していく。


さしものイミトもそこで漸くと作業の手を止めてガラルへと振り返り、その空間の歪みが転移の魔法だと認知するに至って。


そして——彼曰く、最後の別れ。


「先ほどの問いの答えよ……人生はプラスかマイナスか。それが何を以てプラスとするかマイナスとするかははかる者によって違うのであろうがな」


濡れた布巾で手を拭いて、別れを見送る構えのイミトへ——ガラルは不敵に、先ほど話題に欠片と昇った質問への問いを返し始めた。


「儂は、その計算式はなのだと思うぞ。マイナスの者はマイナスとなり、プラスの者はプラスとなる。初めの不公平はあったかもしれんが、一つ一つとマイナスを打ち消し、或いは不平を轢き潰すような挽回の賭けに興じて夢を見るも良い」



「多くの人と出会い、掛け合い、目まぐるしく移り変わる己が数字——そして最後に傍らに居た者がプラスの人で在りて己もまた少なからずとプラスであれば、それがき人生なのではなかろうか」


徐々に晴れ往く暗雲の向こうの満ち足りた月を見上げて、或いは見上げさせて、遠く遠くにあるような余生の輝きを指し示すような口振り。


「懸命に生きなされ……今宵の食事の礼の代わりに汝の生が、善き人生である事を切に願うよ、イミト・デュラニウス」


しかして些か気取りに気取ったと夢想理想を振り返り、彼によく似た自嘲の面立ち。やや我ながらと呆れて動き始めた老体は自らの魔力で創り出した何処へ繋がるともイミトには分からぬ穴の向こうに歩み行く。



そして最後に、その姿がイミトから見えなくなるその間際に、ふと立ち止まり別れの言葉をクシャリとした笑みで贈るのであろう。



「いいや——今日は敢えて、相馬意味人と呼んでおこうかの。汝の人生が、実り多き人生であらん事を」


「では、また会おう——相馬意味人よ」


——。

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