第117話 或いは月が喰らっているのか。3/4
——。
「この短時間で、もう一品を作るとはな」
黒いテーブルの上、割愛された僅かな時の合間に何が行われていたかを雄弁と語るように二つの
「……まぁ、軽く
ガラルの感心の吐息を受けてイミトも椅子に座り直しながら、目の前のテーブルの上にある調理用の器に手を伸ばし、中で盛り付けられるのを待つ己の創った料理と向き合って。
「コッチは、ちょっと前に作ったラー油と
そこにあるのは、暗い夜に光を吸わぬ黒い半球状の器も相まって野営の照明だけでは若干と分かり辛い——赤みがかった油のテカリを帯びる黒いモニャモニャ。
「ラーメンに使おうかと思って用意してた有り物を使って、遠い昔に聞きかじった知識で作ったもんだから期待はしないで欲しい所だ」
「見上げたものだと思うのだがな……では、まずは
二本の黒い箸で器の中から抓み上げた木耳に、肩の力を抜いた自嘲の笑みを浮かべながら一口と口に運ぶイミト——対して毒味役の様相でイミトの様子を
やがて黒きフォークの先を小鉢の底に押し込んで緑が青々しい胡瓜の細切りと黒い木耳の細切りを口へと運んでの
「——ふむ。萎びながらもシャキリとした瑞々しさに……この木耳とやらの弾力とも言えぬ独特の歯ごたえ、和えた調味液の強い風味、後味が残りながらも嫌悪は無い。むしろ爽やかさすらあり、もう一口と食べたくなるな」
湿原を見下ろす小高い丘に吹き抜ける風に時の
「醤油、酢、ゴマ油、醤油自体が九州醤油に近かったから砂糖は入れなかったんだが……にしても目分量でやったからか少し濃かったかな、胡瓜もなんか……ちょっと思ってたより感じが違ってるし……原産地やら環境が違えばな。まぁ和え物なんて正直、適当で楽に一品増やすもんだから別に良いけどさ」
一方で、少し辟易と椅子の背もたれに身体を預けてガラルの咀嚼の後を追うように木耳と胡瓜の和え物を食べたイミトは
「ふふ……しかし些か手持ちの酒には合わん気もするな。次はコチラのススメを頂こうか——コチラは見るに、
「む。なるほど、辛いか——木耳が
作る者と食す者の差異——舌の違い、視点によって思う事それぞれ。
「かっ、今頃……酒飲みミリスが
「ほっほ……コチラは良いな、酒に合う。気まぐれに足を運んでみたが、随分と良い経験をさせて貰っておるよ……貴殿の、人の悩みを聞くもまた
食べ合わせもまた、同じものに対するその感想を大きくと変えるのだろう。口直しに啜る酒と紅茶——食後の顔は、やはり対照的。
「そう言ってくれて
浮き沈む心持ちを開き直って持ち直すように肩から漏れていそうなイミトの溜息、雑多に片腕を椅子の背もたれの裏に回し、いつまでも暗い顔はしていられないなと未だ月明かりと遊び惚けている厚き暗雲に顔を向ける。
「——他を愛せておるか、己を信じられぬ。善を偽善と決めつけて、醜きと己の心すらも邪推する……中々どうして、確かに呪いのようではある」
そんな面立ちに意味深げな視線を流しつつ、木耳をつまみに酒を追加で舐めたガラルは、ふと徐にとを装ったような空気感で独り過去を振り返り、そして伏し目がちに黒い器の中で小さく波打つ酒の残りを眺めた。
「だが儂は思う。己を否定する事は、己を肯定する何かがあるのでは無いかと心の何処か片隅で信じておるのではないかと。
そして語らうは、やはりイミトの愚痴に似た悩みを聞いたうえでの己の私見。撫でるような肌触りで熱を
「悩むという事は変化を望んでおるという事……成長を望んでおるという事」
やがてクッと飲み干し、乾く杯——役目を一先ずと終えてテーブルに置かれる黒い器。そんな最中に少しイミトの横顔に向けて傾くガラル。
「若者よ、悩みなき世に変革は無い——満たされた者に更新は無い。悩める己を誇りなされい。汝は変われるという事に相違なく——失敗を恐れ、他より歩みが遅かろうと立ち止まらずに変わろうと進めるなれば、変わらぬ者よりは面白き人生にも相違ない」
ほんのりと回る世と酒、普段は寡黙に努めていそうな老人の口も滑るように回ってガラルの枯れ枝のように細くも時の重みを匂わせる手が伸びるのは、黒い器の傍らで未だ
——先程まではフォークを使って食していたものを、フォークと共に用意されていた箸の二本で食べようか。
「こうして木耳の味付けを悩み、試せておるのもまた——その証左であろう」
そのような
「貴殿の悩みも不安も存外、こうして味を和えるだけの方策で済むやもしれぬ事よ。記憶なき父親という存在を過大に見ておるだけ……愛する者の腹から産まれたばかりの弱々しき子を抱く。それだけで、さもすれば男は父となるやもしれぬ」
安穏と満ち足りた月の再演を待ち侘びる夜にて行われる晩酌のひと時、されどそのガラルが
終末を謳うが如く、
「少なくとも貴殿は、他を
「ふっふ……しかし箸というのは、知っては居ても慣れねば使いにくいものだな。ほんに、度し難いものよ」
握る形で不本意に掴まれていた箸は転がる。そしてその時——箸が転んでも可笑しい年頃であるかのように老人は、かんらかんらと笑っていた。
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