第64話 壊滅の足音。5/5


「呼び方なんて些細ささいな問題。どうでもいい事」


やがて少し考えたセティスが見つめていた黒い囲いから視線を動かし呟いた言葉は否定であった。吹き荒ぶクレアの頭髪を煽る風に、不器用にデュエラが悪戦苦闘している最中に、彼女も不器用を口にしたのである。



「ま、そりゃそうと言いたい所だがなぁ。そりゃ、それぞれの価値観の話だろうよ、なぁデュエラ」


しかしセティスの返答にも筋があり一里もある。だが黒い囲いの外の空気など読めぬし読む気も毛頭ないイミトの悪辣な悪戯心いたずらごころは、外の空気を殊更に居心地の悪い物にしようとうずき出して。



「ぇ……あ、わ、ワタクシサマは、その……なんというか……どちらでも構わないのです、よ……です」


水底から泥をすくうが如く、波立つようにデュエラの心を揺らし、セティスの良心にまで波及させるイミト。柔らかな湯船から湯を持ち上げて顔を洗い、虚脱のあまりに襲い来る眠気をいさめつつ彼は会話を続ける。



「強制はしないさ。セティスの言う通り、俺も些細な処世術しょせいじゅつくらいにしか思ってないからな」


「……ふん。デュエラとセティスの仲をその処世術とやらでつむいで、貴様は何の目的を果たすつもりぞ。まどろっこしく気持ちの悪い」


するとようやくと、ここまで無関心に静観していたクレアが見かねて会話に押し入り、独り言のように悪態を吐く。湿り気で重くなっていた髪が柔らかな風とタオルで水気を吸われ、軽やかな面持ちを取り戻し、黒き輝きは陽光を反射しただけの物か疑わしく思える程の色合いで。



「はは、人聞きが悪いな。ただの御節介だよ、裸で湯に浸かりゃ心がゆるんで屁みたいな善意が浮き出すもんさ」


対照的に身を綺麗にしているはずの男の言葉色は、如何に湯水がきらめこうとも、心の汚れまでは取れぬと世界が嘆くようである。



「表現が汚い。とにかくスープを温め直す」


もうこれ以上は付き合い切れぬ。クレアが割って入ったおかげか、心に負荷を掛けてくる悪辣なイミトの物言いから逃れるべく隙を見つけて歩き出すセティス。短い草原の雑草を踏みしめる音が僅かな会話の隙に混じり始め、黒い囲いの向こうと言えば、湯船に浸からず冷えていく体の部分に湯を掛ける音がしたたりゆく。



そうして、飯と仲間についての会話は終わった。


「——ああ。ゆっくり長風呂でもしたい所だがな……腹も減ってるし、そろそろ面倒な動きがありそうだから裸のままじゃ締まらないし」



 「そうだな、イミト殿。馬が二頭、こちらに迫っているようだ」


平穏に見える時あれど、決して止まっている訳ではない。

風雲急と何処ぞへ危機をしらせるようにも見える空の雲の動き、何の気なしに湯船からソレを見上げて呟いた独り言に、次なる会話を女騎士カトレアが切りひらく。



「……もうか。


その言葉に気怠く傾くイミトの濡れた白黒の前髪。先ほどまでの悪戯いたずらな笑みは消え失せて、真面目な顔色が唇に浮かぶ。


「いいや、セティスのスープが温まるまではカトレアさんが対応してくれ。デュエラはクレアを頼む」


しかしながらイミトの決断も早い。一間ひとまの思考の末、自身が浸かる湯舟を波立たせ気分を一新させた様子で迫り来ているらしい来客への対応を一行に告げる。



「ほう、この我に隠れておれと?」


「別に堂々としてても良いさ。デュエラの太腿の上で構えといてくれ、まぁ会話の空気は読んで欲しいけどな」


左肩の皮膚越しに右掌で筋肉をいたわりながら、傾けている首筋をなぞり挑発的な物言いを突きつけるクレアを慣れた様子であしらえば、


「——よかろう。デュエラ、馬車の御者台ぎょしゃだいに我を持って行け」


 「は、はいなのですクレア様」



「……それで、私はどのように立ち回れば?」


残りはスープを温めに行くセティスをのぞいて実務をこなす騎士が一人。

平穏から一転、これまでとは違った意味合いでせわしなく動き始めるデュエラの動きを横目で追うカトレアは、己の役目を自覚する。


「聞きたい事を聞けば良いよ。出来る限りコチラの情報を話さずに相手の自己紹介と、ここに来た理由。理想の結婚相手の条件でも良いしな。ま、相手が話してくれるのを待ってるだけで良いさ」



「本当に……口を開けば人を不快にする男だな貴殿は」


やがて聞こえ始める、既に聞こえてくるような差し迫る馬のひづめが地を荒らす音。

それでも彼らは余裕であった。



「——戦闘になる可能性は」


 「無いとは思いたいがな。まぁ相手が二人なら、クレアも居るし即死する事は無いだろ……そんなに強そうに見えるか、アンタの眼から見て」



わざとらしく腰に帯びるおのが愛剣のつばを大きく鳴らし、警鐘をうながすカトレアにイミトは尋ねる。


彼女の視線の先——、迫りくる何者かが『』と不吉極まりない黒い魔力を黒い囲いの向こう側で静かに溢れさせ、差を比べてみろと圧力を掛けながら。



自負じふ——ある者はそれを油断ゆだんとも過信かしんとも、傲慢ごうまんとも言うのかもしれない。



「——……確かに。戦闘と言うよりは索敵の身なりをしているようにも。マントの裏に何があるかは分かりかねますが」



ただ、彼を知る者は知っている。

実際、女騎士カトレア、カトレア・バーニディッシュは知っていた。



「おおかた小鬼の軍勢の動向を注視していた周辺の街の兵士あたり、でしょうか」


 「それだけ分かってりゃ十分さ。警戒に越した事は無いだろうけどな」



「——スープが温まるまでには話を終わらせて欲しい」


或いはセティス・メラ・ディナーナも、旅に用いる馬車の方へクレア・デュラニウスや彼女の頭部を抱えて歩いていくデュエラ・マール・メデュニカも知っている。


「分かってるよ。そんな長い話にはならないさ……まぁ、何もかも相手次第な所も多いけどな」


やがて黒い囲いの向こう側から、来たる男の足音が軽快に響けばそれは確信だという事を。すべからく思考の用意を周到に済ませた臆病とも思える程に呪われた悪魔が、既にそこに居るという事実を彼女たちは思わずとも知っている。



迫りくる馬の足音が、まるで壊滅を自ら望むような無知で哀れな蛮勇である事を。


好きや嫌いは別として。



望む望まずと、知ってしまって——居るのである。

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