第58話 仄暗き泥沼。3/3
——。
正体さえ分かってしまえば間抜けな気もするポップコーンの音に混じり、にわかに騒がしくなった馬車を尻目に、空を飛翔する宙に浮いたままの開かれた本から解き放たれた紙切れに囲まれながら互いに向き合う二人の男。
「……さしずめ、前世帰りって言った所か。そりゃ普通にチート貰っただけの連中に勝ち目は無いわな」
イミト・デュラニウスは自らの身に起きた異変をまるで事前に知っていたが如く、首近くに片手を当てて凝った肩の具合を確かめるように
少なくとも馬車の中に居るユカリやカトレアとは全く違う反応を魅せつけて。
対するバンデット・ラックも——
「魂に刻まれた前世の肉体を受肉させる。前世の記憶があればあるほどに、それは明確に再現されていく訳だ。甘やかされた世界で育ったテメェに勝ち目は……——」
目の前で繰り広げられる慣れ親しんだ光景に際し、仕事始めと言った具合で両拳の骨を鳴らし、首を回して改めて敵対する男の様子を
だが、何処かが——何かが違う。
「……イキってんのは、どっちなんだか。
戸惑いもなく、恐怖もなく、ただそこに当たり前に存在する平静。
取るに足らぬ
明らかに違ったのだ。これまでの誰よりも、得たものを失っている事に
「デバフ掛けた奴としか戦ってきませんでした僕チンは、ってな。居酒屋でクソみたいな喧嘩武勇伝を語られてる時の気分ときたらロクでも無い事この上ない」
「黙ってやって、酒飲んで忘れろよボケが」
奪われた力に裏打ちされていない身一つに宿るイミトの自信を感じ取るバンデット。
よくよく見て見れば、異変は起きていると言えど変わった部分は白黒の髪が黒に染まった程度である。
その他に特質すべきものがあるとすれば——首から肩に掛けて
「クソ陰キャが……チートも無いテメェが勝てるとでも思ってんのか」
それでも、バンデットは普段通りに振る舞うしかない。たとえ異様や違和感を覚えようとも、鞘から抜いたような殺意を今更と引っ込めることが出来ない。
彼は、彼らを
体と心に絡みつく成功体験を基にした自負心が、彼に
それを見越してか見通してか、魔人イミトは呆れ笑う。
「そうやって陰キャって言っとけば陽キャにでもなれたつもりか? それとも自分は他の誰でも無い特別なクソッタレにでもなれた気分に
敵を見下げるように右手で前髪を掻き上げ、腰の裏に付いた
「喧嘩なんざ、パパに教わらなくても出来るくらいの代物だろ。何を得意げになってんだ」
「……」
その時——世界を垣間見る彼の
ただ一点——敵の姿のみを捉え、胸を突く。
——
「さっさと殺ろうぜ、お互いに
ヒリヒリと
——嵐の前の静けさは、今ここにあった。
「——ひとつ、まだ間違ってるテメェの考えを訂正してやるよ」
その台風の目に、足を踏み出すバンデット・ラック。地面に突き刺したまま放置している武骨な大剣を素通りし、鍛え抜いたのであろう筋骨隆々な肉体で強く拳を握る。
だが——、
「これは喧嘩じゃねぇ……殺し合いだ‼」
殴り合いをする道理など無い。足下の泥を強烈に踏み飛ばし、素手で駆け出したバンデットではあったが、彼の服の袖の裏には隠されたナイフがあった。それを手慣れた様子で瞬間的に駆使して右手で掴み、イミトの体を狙って鋭い刃を突き立てようとするのである。
——卑怯、と
「——……気が合うねって言いたいが、あいにく刃物で遊ぶ奴とは仲良くなれない信条でさ」
「岩⁉」
無論それは、素手だと思われていたイミトが腰裏の鞄から隠し持っていた岩を取り出し襲いくる刃を防ぐ間までの事である。元より互いに、武器を使う気であったなら素手対武器の公平な決闘とは皆目と言えず、武器対武器の衝突音に出した言葉も引っ込めること
「人を殺すのに刃物は要らねぇだろ‼」
岩に突き立てられ、砕け弾けたバンデットのナイフ。しかしイミトは礼節を
「——っ‼」
だが紙一重と言っていい程にバンデットが咄嗟に背中を逸らし頭部を引いたおかげか、岩はバンデットの
「……仕方ねぇから、テメェのパパの代わりに俺が喧嘩のやり方を教えてやるよ……どっちがイカれてるかの比べ合いをすりゃ良いのさ」
再び開かれる間合い。咄嗟に背後に跳んだ所為か或いは額に受けた掠り傷の所為か、よろめくバンデットを尻目にイミトは使用した岩を草原に放り捨て唾を吐く。
だが今、この場で行われているのは開始のゴングも休憩の時間も無い殺し合い。
それは——彼なりの
「もとより殴り合いなんざする奴ぁ……死に絶えんのがお似合いだからな‼」
言葉の終わり、素早く屈んで
彼が掴むは勝利の栄光か、敗者の泥か。
「——くそっ、今度は泥か‼」
「美顔まっしぐらだな。おらよ‼」
バンデットの視界を塞ぐべく地面から泥を投げると同時に、今度はイミトからバンデットに向けて駆け出し、助走の勢いを付与して振りかぶる渾身の拳をバンデットへと叩き込む。
「っ⁉ このっ——⁉」
しかし殴られて尚、歯を食いしばって踏みとどまったバンデットは反撃の
だが——、
「分かり易い左だ」
「ぐぅっ——‼」
サラリとそれは
「うぐぅ‼」
されどそこで猛攻は収まらず、イミトは転んだバンデットの泥まみれの顔を目掛けて同じく泥まみれの
「そりゃ向かってくる岩に刃物を突き立てたら指がイカれるか、
それでも、蹴り転ばされ少しイミトから距離を離されたバンデット。聞こえてくるイミトの声を他所に、蹴りを顔の代わりに受けた事で痺れを生じさせている腕を地面に落とし、早く起き上がろうともがく。
「地形の状況も相手の強さや性格も調べない脳筋プレイ……おおかた自信を付けさせる為に適当な連中と適当な場所で戦わせられてきたんだろうが」
何の罪もなく踏まれた雑草に雨ではない赤い
「こちとら、やりがい満点アットホームな職場で給料もらってきてんでね……そこらの有象無象とはキャラコンのレベルが違うんだわ」
眉毛まで覆う黒い
「ほら、テメェがイキり陰キャじゃない所見せて見ろ。悲劇の主人公みたいにテメェが今まで殺してきた連中の想いを力に変えて」
「俺も——そうするからよ。比べようぜ……どっちが重いか。それとも向こうで女の裸でも覗いて鼻血を垂らす平和な日常回を過ごす事にするか?」
「こ、この……クソ雑魚がぁぁぁぁぁあ‼」
目の奥にあった憎悪は、嫌悪は、殊更に燃え広がるようにバンデット・ラックの身体を奮い立たせ、彼の身を汚す泥をあって無きものとして、もはや恥も外聞も関係なく彼は拳を泥ごと握り締めて咆哮し、彼の怒りが彼を復讐へと更に駆り立てていくのである。
魔人が、そんな彼を——静かに
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