第40話 春の下、虫二匹。2/5


 狂い咲いたような春の桜が吹雪ふぶく空間から一転、静寂が支配する夜の世界。

 月の威光が天の窓から降り注ぎ、男は手を組んで黙祷もくとうし、祈りをささげていた。



「——神への畏敬いけいを捨てた貴方が、今さら何に祈りを捧げているというのです、レザリクス・バーティガル」


 床に片膝かたひざを着いた荘厳白衣そうごんはくいの宗教家は、修験者しゅげんじゃとして最高の権力と威光を手に入れてなお、柱の陰から声を掛けられるその時まで真摯しんし直向ひたむきにつつましく祈る。


 そんな彼の祈りをさえぎり、柱から声を掛けたルーゼンビフォア・アルマーレンは掛けている眼鏡をクイっと中指で持ち上げて、レザリクス・バーティガルという背教者はいきょうしゃの名に皮肉を込めて嘲笑あざわらった。



 すると、真摯な背教者は語るのだ。



「——祈りとは、神に何かをう為のものでは無い。己の心と世界に感謝を贈るものだ、ルーゼンビフォア殿」


 教義教典にはっていない己の思想を言葉に漏らし、瞑想めいそうけていたまぶたを開いて静やかに彼女の無知を批判する。布教を受けたいのならば歓迎すると立ち上がり、ルーゼンビフォアの存在している柱の方に体を向けて、優しくシワの多い微笑み。



 きっと不快極まりなかったに違いない。


「……あの男が来ているようですね。どうです? 会ったのでしょう?」


 大言壮語も甚だしく、遥か高みからモノを言うレザリクスにルーゼンビフォアの自尊心は酷くいらついた。彼女も神なのだ、神であったのだ。


 秩序ちつじょの名の下、死人しびとの魂を裁き、幾重数多の罪人を罰してきた女神。行き過ぎた断罪で他の神々からこの世界に追放されるまで、彼女も神であったのである。



「なかなか厄介そうな男だった。何か策をこうじているのは間違いない」



「どうせ小賢しい事しか出来ませんよ、アレは軟弱な世界で甘やかされて飼い殺されてきた奴隷のような男……アレ自体は恐れるに足らない」


 自身がおとしめられている現状に腹立たしさを抱えながら、神の位置に返り咲く為に僅かに歯を噛みしめて人如きとの共闘を飲んでいるルーゼンビフォア。



 眼鏡の裏色に映るのは、彼女がこの異界に堕とされるキッカケとなったと言っても過言では無い一人の男への復讐心で燃えていて。



「それに、こちらの作戦は既に終了している。アナタの望み通り、和平は崩れ……アルバランとツアレストは長く続く戦争の時代に至る」


 そして愚かな人間どもの世界など、どうなろうと知った事かと盤面の駒を蹴散らすが如く彼女は未来の展望を語った。



 神の——、力ある者の——傲慢。


 この世界を管理する神ミリスの予測において、敗北すると言わしめる原因が、今の彼女には如実に見て取れる。


 故に、共謀者であるレザリクス・バーティガルもそれは不安視したのであろう。



「……油断はせぬ事だ。貴殿が何者で何を目的としているのか私は知らぬが、貴殿はいささおごりが過ぎるふしがあるようだ。最後の最後、詰めを誤らぬようにな」



「……ふん。生意気な事です、誰にものを言っているのか」


 しかし、そんなレザリクスの忠告もなんのその。天窓より注ぐ月光の陰、柱に寄り掛かるかつての女神は僅かにきらめく眼鏡の裏で瞼を閉じる。


 それでもレザリクスは彼女に言葉を続けた。


なんじが人を如何いかに思うかなど知った事ではないが、人をあなどる事は決してせぬ事だ」


 「私は神を信じることを止めたが、人を信じる事までも止めたつもりは無い」


 ——確かな危機が、そこにあったのだ。



「それに——貴殿は、あの男が奴隷だという。しかし私の目には触れた者の全てを腐らせる悪魔のように見えたものだが」


 今宵の夜会の隙間に出会った敵が、明確な悪意が——悲願の断絶、圧倒的な敗北を予感させて。


「仮に貴殿の言うような男だとして——少なくとも、既に鎖が解き放たれた牙を持つ獣であるかもしれんぞ」


 おびえに近い歴戦のかん。レザリクスは少なからず、その相手と相対し——ただならぬ不安を胸に抱いた事を誤魔化さない。安穏あんのんと過ごす事の出来ぬ夜、彼が今この時——何者かに祈りを捧げているのはそう言った理由があるからなのかもしれない。



「——まぁどちらでも構いませんよ。アレの相手をするのはアナタ方。私たちは私たちの仕事を果たすだけです」


 そんな意味深長なレザリクスに対し、懐疑的な視線を送りつつ、呆れの吐息を吐くルーゼンビフォア。もたれ掛かっていた柱から体を起こし、それと共に何処ぞから飛び立った一匹の蝶を目で追いかける。



 そして——、

「ねぇ……イミナさん」


 「——……はい。ルーゼンビフォア様」



 ルーゼンビフォアの傍らに気配なくたたずんでいた仮面の少女に声を掛ける。


 飛び立つ蝶は一閃と体を二つに切り裂かれ、鱗粉を散らして堕ちていく。



 ——そこに意味など無いのだろう。


「決行時刻は明日の朝、和平調印式が始まる正午の前にコチラは動き始めます、構いませんね?」


 蝶の死骸しがいを踏み付けて、石畳に足音が鳴り始める。静寂の月光は、ただ魔性を際立たせるのみで、その足を止める力は有りはしない。



「ソチラの話はソチラで決めればよい。だが、私の部下を一人貸している……失敗は許されんぞ」


 盟約、同盟、共闘。それらにるいする関係でありながら、繋がりもなく別たれる道。



「しようもない……それに、アナタの許しに何の意味があるのやら……——」


 ルーゼンビフォアの足下に光り始めた魔法陣。レザリクスに吐いた捨て台詞と共に、彼女は仮面の少女と光の粒へと回帰する。天窓から降り注ぐ月光は消えゆく共謀者を追わず、未だレザリクス・バーティガルにのみ焦点を当てているようであった。



 そしてレザリクスもまた光の粒が飛散する方向に横目を流して、言葉を一つ。


「——……おろかだな、ルーゼンビフォア・アルマーレン」


 「こちらの作戦が既に終了しているという事は、もはや作戦を変える事は出来ぬと言って等しい」



 或いは彼も、人の世の道理であれば神よりも知る人物なのかもしれない。



「アーティー。居るか」

 「……は。ここに」


 振り向かぬままに同志に呼び掛けると、石畳の隙間から溢れる粘り気のある液体は素早く人の形に変わり、再び陰謀の調べをかなで始めて。


「明日は細心の注意を払い、事に当たれ。くれぐれも悟られることが無いようにな」


「——……心得ております」



「貴様らの悲願が成就じょうじゅする日も、直ぐそこまで来ておる。尽力せよ」


 「……はい。邪魔をする者があれば、アナタとて殺します」



「ふふ、構わんよ。好きにするがいい」



 端的な言葉を交わしたその後に、アーティー・ブランドは再び液体へと変化を始め。石畳の隙間に染み込んでいく。


「——……さて、私は祈りを続けるとしよう。愚か者のように無意味無意義に捧げよう」



 残された老体は優しげに、己をわらい、世界をあざけり、また手を組み、そっと片膝を堕とし込む。


 ——。

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