第40話 春の下、虫二匹。1/5


 樹齢千年はこうかという太い幹の上、枝に咲く白い花びらが吹雪の如く世を埋め尽くす。


 背景は黒いが闇は無く、星々のきらめきと散りゆくもののあわれは明瞭めいりょうに見えていた。



 床の白タイルに敷かれる赤を極めた緋毛氈ひもうせん——降りしきる桜吹雪を傘持ちにしのがせ、静かにさかずきを舐める花魁おいらん姿の女がいる。



「いよいよ始まるようですね。神、ミリス様」


 傘持ちの執事服を着た女性が言うに、彼女は神であった。桜の木の下で見事な赤に染まる緋毛氈ひもうせんに半ば寝そべり、あでやかな着物を淫靡いんびに着崩す気まぐれは、恐らく彼女が酒を美味しく飲む為のささやかな趣味趣向であるのだろう。



「ふふ……おかしな事を言うものね、アルキラル。もう始まっているのよ、彼らの戦いは」


「血飛沫が飛び交うばかりが戦争では無いもの」


 姿形などはあって無きに等しく。


 傘持ちの天使アルキラルが、神ミリスの御前の供えられた大きな赤い盃の水面に映る世界を見下ろして話しかけてきた話題をクスリと笑い、つたない赤子の手を引くように片手に持っていた小さな盃の残りしずくを御前の盃におとしいれる。



 すると、大きな盃に映っていた景色は変わり、人の子らがそれぞれの思惑を胸にうごめく様が幾つか映り始めて。



 それは、セティスの入浴が終わるのを待つイミト・デュラニウスであったり、


 人の姿から粘液ねんえき体に変わるアーティー・ブランドであったり、


 まなこを真っ赤に染め上げて頭痛にさいまれているカトレア・バーニディッシュであったり、



 或いは静かに剣気をたぎらせるアディ・クライドであったり、



「……確かに互いに巧妙に動いている様子で。どちらが勝つか……私には分かりかねます」


 次から次に様々な人物の様子が盃の水面をまたたく間に通り過ぎ、天使アルキラルは問われたような気がしたその者たちの行く末を考え、そして及びもつかないと予測を答える事すらもおびえてしぶる。



 彼女を桜吹雪から守る為の番傘をクルリと回し、積もった桜雨は風に運ばれ改めてと黒の世界に飛んでいく。


 すると、神ミリスは手酌てじゃくと言うにはいささか足らぬ、宙に浮く酒器から手に持つ盃に酒をそそぎ、アルキラルの不安を愛しく笑った。



「罪人さんが勝つわよ。ルーゼンは彼が何をしようとしているのか、考えていないもの」


 そして素知らぬ顔で酒の薫りを一啜ひとすすり、味の余韻をのどに流しながらミリスは全てを悟っているかの如く語る。



「それは——未来を見た結果なのでしょうか」


 天使アルキラルはそんな神のげんに。持っていた傘を揺らす事こそ無かったものの、冷静なまし顔で神の御前の大きな盃の水面に映る世界を疑った。



 ——それが過去なのか、現在なのか。或いは未来なのか、と。


「いいえ。折角こんなに面白そうな展開なのに、そんな無粋な真似はしないわ。先が分かっているって、退屈だもの」


 しかしながらアルキラルの指摘に着物のそでで口元を隠し、つややかに笑んだミリス。自らの優位性を嫌悪し、遠い目で愛おしく世界を眺める。



 大きな盃の水面みなもに舞い落ちた桜の花びらを拾い上げ、彼女は自らの盃にその一片ひとひらを飾り付けるのであった。



「単純な予測として罪人さんが勝つと考えてる。今の彼女は神の力のほとんどを失っているし——私たちのようにはたから盤面を見通す事は出来ないのよ?」



 そしてミリスは横たわりつつあった体を起き上がらせて、着物の乱れを整えつつアルキラルにしゃくをするように盃を掲げる。


 その意は迅速に理解されたのだろう。



「——しかし、恐れながら状況として圧倒的に優位に立つのはレザリクス側です。あの罪人の思考や考えている策が最善を尽くしていて有効なのは認めますが、選択できるカードが多いのは、やはりルーゼンビフォア様の方かと」


 持っていた傘を開いたままに据え置いて、ミリスの傍らに辿り着いたアルキラルは片膝を着き両手で丁寧に宙に浮いていた酒器を持ち、最後の一滴いってきまで酒をそそいだ。



「でも、選べるカードは常に一枚ずつなのよ……どんな世界であろうと、幾ら選択肢が多くたって、それは絶対の理」


「……」


 その堕ちる最後の一滴ひとしずく、切なげに見送る神の眼差しに天使は何も応えない。恐らく決まっているのだろう——全てを知り過ぎ、退屈に殺されてしまっているかのような眼差しに、答えを返せるはずも無い。



「まぁ私個人の願望も込みで、自信を付ける為にも彼には勝って欲しいってのもあるわ。まだまだ彼やルーゼンには働いてもらわなきゃいけないものね」


「……そろそろ神酒みきの御用意を。ミリス様は如何いたしますか?」



 そして一啜りする酒の薫りに満たされて、うそぶく彼女に天使はうかがう。よくよく見れば緋毛氈ひもうせんの上、世界を映す大盃おおさかずきを囲むように置いてある膳の数々。


「そうね。も訪れ始める頃かしら、勿論おかわりは必要よ」


 「かしこまりました。ただちに用意させて頂きます」



 酒席は四つ。つややかに盃を乾かすくちびるは、尚も酔いの向こうを求めてうたい、天使はかしずき、からさかずき、受け取って。



「——花見をさかなに一舐めの盃。世は事も無くとは行かねども、子らを眺める三割九分のこの想い、桜一片あくらひとひら水面一波みなもひとなみ……世に幾許いくばくの威をもたらせようか」



 えりを整え、謳うは無情。妖艶舞踏ようえんぶとうそでを踊らせ、桜を見上げた神ミリス。

 バツ悪く笑むはかなさを、桜吹雪がでていく。


 そんな折、一匹の蜂が羽音を鳴らし、


 桜の吹雪をくぐり抜け——神の指先にふと止まった。



はちに化けるとは、中々にいきね。ロンドベル」


 「……みつを運ぶも我らのつとめ。危うく蛇に絞め殺される所でしたが」



「ご報告を。我らが神よ」



「聞きましょう、貴方たちが、こんな私を神だというのなら」


 世界の意図せぬ動きの中で、とても微笑ましいと思いながら今日も彼女は、子らを見守る。


 ——。

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