第34話 約束。1/4
そして嘆きの峡谷でユカリとの会話から幾許の時が過ぎて——イミトは嘆きの峡谷を抜けた先、草原野原の道なりに埋まっていた腰掛け岩に寂しく座る。
周りの風景に首切れ馬の嘶きが聞こえぬ所を見れば、クレア達とは別行動を取っているようで。
「良かったのか、姫さん。明日の朝まで時間はあったんだぜ?」
良好な天候の
どうやら彼らは、いよいよ城塞都市ミュールズに姫を送り届ける為の行動を開始したらしく、その場に居合わせているのはイミトとマリルティアンジュのみ。沈黙を嫌う退屈しのぎの会話に、イミトはそれまでの時の思い出話を選び取ったのだった。
すると、そんなイミトに気品よく微笑み、マリルティアンジュは言葉を返す。
「……良いのです。和平調印式までの準備の時間は多い方が良いですから」
「それに——あまり長い時を過ごすと、本音が漏れてしまいそうですし」
細やかな平穏、穏やかに流れる風に撫でられながら彼女はどこか寂しげに言った。
「本音、ねぇ……聞くのは野暮か?」
故にイミトはあからさまにも見えるマリルティアンジュの感情を気遣い、彼なりに遠回しに尋ねて会話も続ける。しかし大方の予想とは違い、ここからの話の向きは別の方角へと向かい始めていって。
「いいえ。その事はカトレアも知っての事……それにイミト様たちは私どもを助けて頂き、その上——今もこうして、わざわざミュールズの兵の迎えに呼んでもらったり、護衛してもらっていますので」
イミトは当初、マリルティアンジュの本音が仕方のない事情があるとはいえ、忠臣であるカトレア・バーニディッシュと別れなければならない事を
けれど、姫の顔色の沈み具合から何となく別の悩みもあるような気がして。
そして、心の奥底に押し込んでいた言い
「……
「……政略結婚って奴か」
川の流れに身を
そこに愛は無いのだな、とイミトは
「はい。婚約のお相手はアルバランの第三王子であるクジャリアース様。お会いしたことはありませんが
「そりゃ聡明である事を祈るばかりだな」
イミトから顔を逸らし不安に俯き気味のマリルティアンジュは、それでも彼女なりに強がりを魅せて泣き事を表情にも顔にも表すことは無い。しかしそれらを察するイミトは、頭の中で御伽話を現実と
腰掛け岩の上、両手を後ろに体を倒して見上げた空、世の非情を皮肉るが如く持ち上げた口角は、天への恨みか、
そんな視線から逃げるように太陽は
「ふふ、イミト様は貴族や王族というものが本当にお嫌いなのですね。さもすれば、民衆は皆が心内ではそうなのでしょうか」
そんな
純粋無垢な少女が野原に降り立つカラスに声を掛けるように。
彼女は笑い、遠くの世界を夢想する。
「いや、うーん。どうだろな、俺自身は貴族なんかと関わるのは面倒臭そうと思うだけで、いつだって人によるさ」
「上流階級を
故に黒ずくめの鳥は、彼女に己の足で歩けと語る。その姿は、全能に思えた小さな翼を小さな翼だと自虐しながら、運んできた過去に肩を
「ふふふ……正直な方。とても御自由で、羨ましく思えます」
そんな己を
誰に憚る事もなく、世界に放つ
それでも彼は——己の生き方に不満があるように
「王族生まれを
肩の力を抜いて、負け犬が路地の隅を歩いていくような俯き気味に爽やかな
「アンタだって、礼儀に厳しくて責任ある立場の王族だから、辛い狩りや農作業、家事もせずに誰かが苦労して作った美味しい飯を喰らって、ある意味で不自由なく気楽に暮らせてたんじゃねぇの?」
「この間やった、うどん作りは大変だっただろ? あんなの毎日出来るのか?」
ブワリと風に流れる肩で吐いた息ひとつ。腰掛け岩に置いていた右手の掌を持ち上げて見せつけたのは例え話か思い出話。なんの悪意もなく放たれる幸福論は、悪意に
大変と謳いながらも
「うどん作り……ふふ、あの経験は楽しいものでしたが、確かに私には無理かもしれません。旅の間、食べさせて頂いた他の料理の作業も大変に見えていました」
故に彼女も笑うのだ。苦労の中に見出した
「——……そうですね。対価なのでしょう……だから私は今回の婚約に異議を唱えなかった。だから私はこれまでの恩恵の対価として、この国の為に身も心も捧げるのです」
突き付けられた現実、顔を上げて遠くを見据えるその瞳は晴れやか。
確かな決意が
「でも私は、私を育ててくれたこの国が好き——人々を愛し、人々が手を取り合い、常に穏やかで平和である事を願っている——その光景を見守って居たい——恩返しがしたい」
「それもまた私自身、嘘偽りのない本当の想いなのだと思います。イミト様たちからすれば身勝手で自己満足な只の小娘の
そうして胸に手を当てて閉じた瞼。彼女は祈るように言葉を並べ、そして己の未熟さを呪いつつイミトらに対して、はにかむような自嘲の微笑み。
——確かに彼女の細腕は彼女の願いを抱えるには
けれど同時に、思ったのだ。思ってしまったのだろう。
「……カッコイイんじゃねぇか? 別に笑うつもりは無いけど恥ずかしい台詞だなとは思うけどな……単純にそんな台詞を素直に言えるくらい、この国はアンタにとって素敵な所なんだろうなってのも思う」
一瞬の空白を姫を見つめたままに過ごし、その無意識の産物に遅ればせながら気付いたイミトは贈り物を遠慮するが如く顔を逸らし、呟くように言った。
彼にしては珍しく言葉に感情の余韻——言うなれば重みが乗っている気がした。
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