第32話 嘆きの峡谷。4/4


「悪いが、お涙頂戴の与太話はそこら辺にしといてくれ。カトレアさん、ユカリに代わってくれるか?」

「ひっ⁉」


 周囲に張られた目隠しの黒い壁から顔を覗かせた——姫に悲鳴を漏らさせる程に血にまみれたあの男に至っては、その非情に止まらぬ時すらも追い越して無情どころか無神経に進撃し、更に血塗ちまみれの腕を黒い壁へと乗り上げさせて近付いてくるのであって。



「き、貴殿は、もう少し姫の御心おこころを考えてくれ‼ そのような血に塗れた格好で‼」


「小綺麗に生きれりゃ俺だってそうしてるよ。いい加減に慣れろよな」


 狂気にして凶気に塗れたイミトは、無神経とそしって来る善人に反吐を吐くように辟易と息を吐き、場に止まって獣を解体していた刃を彼女らに魅せつけた。



 カトレアが憤慨ふんがいしながら立ち上がるとそのイミトの背後では、黒い壁から僅かに先程までは嘆きの峡谷のヌシと呼ばれていた獣の頭部をせっせと運ぶデュエラの姿も垣間見える。


 もはや自分たちの方が異常なのではないかという冷静さで、カトレア・バーニディッシュは絶句したのであった。



「それに……ユカリ・ササナミに代われとは……何故ですか?」


 そして彼女は彼らの倫理観を正すことを諦め、本来の本題へと足を進める。

 ユカリ・ササナミ——今はカトレアの胸に埋め込まれた魔石に眠る魔物の、生前の名にして本来の魂の呼び名。


 この世界での異名はハイリ・クプ・ラピニカ。氷を操る大型兎の魔物である。

 そんな魔物にイミトは用があるという。


 当事者であるカトレアはイミトの考えが読めずに無意識に首をかしげる始末。


「解体した熊肉を熟成じゅくせいしつつ冷凍保存する方法を試したくてな。結構な量だから精度の高い氷の魔法をちょちょいっと頼めねぇかと思ってさ」


 しかし、イミトにとっては不思議でも何でもない事であった。氷を操る魔物の特性を最大限に生かそうという心の働き。ただの食肉と化した嘆きの峡谷のヌシを感慨かんがいもなく美味しく頂こうという、ある意味では狂気に満ち満ちた常識、倫理観りんりかん



「肉の質自体は悪くないんだけど、どうにも筋張すじばってて、このままだとかたい上ににおいのクセが強そうな感じだからよ」


 けれどもその口振りには歴戦の知識と自信がみなぎり、正常で素朴な人間の思考が溢れていた。


「言っている意味が良く分からないが……ユカリと代われと言われても私自身の意志では何とも……」


 しかしカトレアにはイミトの要求を満たすすべがない。ユカリ・ササナミは言ってみればカトレアの身体に潜む——もう一人の人格。死霊騎士、引いては半人半魔となって数日、未だカトレア側からユカリに接触をはかれたことは無いのである。



 だが、方法や前例がない訳では無い。


「この間の感じで良いだろ。クレアに引きずり出してもらえば」


「また貴様は……我をあごで使うつもりか……」


 以前立ち寄った廃の隠村、隠れ里にてイミトとクレアはユカリとの不要な争いをける為、カトレアの意識を眠らせ、ユカリの人格を引きずり出す事に成功していた。



「そう言うなよ。美味い飯の為だ」


「ふん。どのみち、クダクダと他人の意志を聞いてやる時間も気力も無いので協力してやろう」


「ちょっ、クレア殿——まっ……」


 それは、カトレアのうち——彼女を死霊騎士たらしめているクレアの魔力に干渉し、ほぼ強制的に意識を失わさせる荒業あらわざ



「カトレア‼」


 かたわらに居たマリルティアンジュが悲鳴を上げる程に、ふらりと血の気が引いたように倒れ込むカトレア。


 ではあったが——、

「あいたぁ~、この起こし方は辞めて欲しいピョン。なんだか頭が痛いし、心が削れてる感じがするピョンよ」



 もはや慣れたものだと言わんばかりに彼女の体は地面に踏ん張り、赤い魔物の瞳をたぎららせて彼女でないように不満を吐露とろする。


 ——ユカリ・ササナミの登場であった。


「か、カトレア……?」


 唐突に頭に生えた兎耳、話には聞き及んでいたが初めて直に垣間見る己の従者の変貌へんぼうに、マリルティアンジュ姫は戸惑うばかり。



 そして一方のユカリもそんな姫が己に向けてくる心配するような憂いの視線を浴びて、



「誰ピョン。ずいぶん可愛い子ピョンね」


 初めましての挨拶あいさつ代わりに疑問をつぶやくのである。


 だが——、

「テメーの体のご主人様だよ。女騎士と姫様」

「はーん、オタクっぽい響きピョン」



「……アナタが、話に聞いたハイリ・クプ・ラピニカ。いえ、ユカリ・ササナミなのですね」

「あ? この娘、私たちの言葉が分かるピョンか? なんて言ってるピョン? アイサツ?」



「……通訳が面倒ってのもあるが、とにかく時間がねぇ、ちょっとこっち来て手伝え」


 イミト・デュラニウスはいそがしかった。挨拶も早々に、親指で背後を示し、命令口調でユカリを急をようする事態に引き連れようとする。


「何だピョン。折角だから、挨拶とかしといた方が、これからの——ひっ⁉」


「……さっさとけ。愚鈍ぐどんな兎よ」


「はいピョン‼ 直ぐに行くピョン‼」


 無論、悪態にも思えるイミトに対して思う所では無かったユカリではあったが、彼女は以前に巻き起こったイザコザで、傍ら冷たい目を浴びせてくるクレアに対してトラウマとも評しても良い恐怖を身に刻まれていて。



「申し訳ないとは思わないが、同情はする」


 「むちゃくちゃ怖いピョン。もうヤダ……あの人、怖すぎだピョン」


 彼女は逃げるようにイミトを追ってその場を後にしていく。

 しかし彼女は忘れていた。


 クレアに対する恐怖で心が盲目もうもくとなり、見逃していた。



「ていうか、イミトさん、なんでそんなに服が汚れてるピョン?」


 「あ? ああ……そうか、そうだった。凄い面倒くさい事になりそうだ」


 クレア・デュラニウスというデュラハンの片割れであるイミト・デュラニウスもまた、平穏な世界では狂人とそしりを受けかねない人物であった事を。



「きゃあああああああ‼ アナタ達、何してるピョン⁉」


 初めてみるか否かは知らぬ、凄惨な光景。一見すると熊の死骸をもてあそんでいるような景色に、カトレアの声でカトレアでない言葉をカトレアが見せた事の無い表情で彼女は叫び、嘆きの峡谷に悲鳴を木霊こだまさせる。



 一方、場に残されたマリルティアンジュは——


「——……カトレアは大丈夫なのでしょうか? 傍から見ていても、少し無理な事を重ねているように思えるのですが……」


「知らぬ。我らは我らの利ででしか動かぬ、結果として利用価値があるのは和平調印式に参列する名分である貴様のみ。貴様の護衛騎士など物のついでに関わっておるだけだからな」



 同じく場に残ったクレアに話しかけ、軽々とあしらわれていて。


「……分かっています。私も貴女あなた方を利用している……それでも、国の為に尽くす一人の騎士をおもんばかる事は王家の姫として、おかしい事なのでしょうか?」


 自らが持ち運んだ騒動による負い目、無論カトレアの身体を危惧する言葉にも嘘偽りはない。


 しかし彼女は話したかったのだ。話してみたかったのだろう。


「ふん。ここ数日で、覚悟は決まっておるようだな……別れの挨拶くらいはさせてやる。そしてなんじの願い……此度こたびの和平調印には心より手を貸してやろうではないか」


「——戦場でのみ活きるデュラハンが、和平に挑むなどいささ滑稽こっけいであろうがな」


 戦場の死に神、処刑騎士、災厄の魔物、救世の英雄、クレア・デュラニウスという一個いっこの存在と、過ごす一時に彼女は感じていたのかもしれない。



「そんな事は……。デュラハンが現れれば何を置いても停戦せよ……それが人間の戦場でのしきたりと以前、何処かで聞いた事があります」


 自らの悲願である和平のいただきに至る道筋のしるべが、彼女の中にあるような気さえして。



貴女あなた様は……愚かな戦争の歯止めの為に存在しているのだと、私は思うのです」

「……」


 けれど彼女は、それ以上答えなかった。


 嘆きの峡谷に吹き抜けた風は酷くむなしく、彼女らの嘆きをさらっていく。

 背後で喧騒慌ただしく嫌悪の悲鳴を打ち鳴らすユカリの言葉が、一切合切を掻き消すように尚も木霊する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る