第32話 嘆きの峡谷。4/4
「悪いが、お涙頂戴の与太話はそこら辺にしといてくれ。カトレアさん、ユカリに代わってくれるか?」
「ひっ⁉」
周囲に張られた目隠しの黒い壁から顔を覗かせた——姫に悲鳴を漏らさせる程に血に
「き、貴殿は、もう少し姫の
「小綺麗に生きれりゃ俺だってそうしてるよ。いい加減に慣れろよな」
狂気にして凶気に塗れたイミトは、無神経と
カトレアが
もはや自分たちの方が異常なのではないかという冷静さで、カトレア・バーニディッシュは絶句したのであった。
「それに……ユカリ・ササナミに代われとは……何故ですか?」
そして彼女は彼らの倫理観を正すことを諦め、本来の本題へと足を進める。
ユカリ・ササナミ——今はカトレアの胸に埋め込まれた魔石に眠る魔物の、生前の名にして本来の魂の呼び名。
この世界での異名はハイリ・クプ・ラピニカ。氷を操る大型兎の魔物である。
そんな魔物にイミトは用があるという。
当事者であるカトレアはイミトの考えが読めずに無意識に首を
「解体した熊肉を
しかし、イミトにとっては不思議でも何でもない事であった。氷を操る魔物の特性を最大限に生かそうという心の働き。ただの食肉と化した嘆きの峡谷のヌシを
「肉の質自体は悪くないんだけど、どうにも
けれどもその口振りには歴戦の知識と自信が
「言っている意味が良く分からないが……ユカリと代われと言われても私自身の意志では何とも……」
しかしカトレアにはイミトの要求を満たす
だが、方法や前例がない訳では無い。
「この間の感じで良いだろ。クレアに引きずり出してもらえば」
「また貴様は……我を
以前立ち寄った廃の隠村、隠れ里にてイミトとクレアはユカリとの不要な争いを
「そう言うなよ。美味い飯の為だ」
「ふん。どのみち、クダクダと他人の意志を聞いてやる時間も気力も無いので協力してやろう」
「ちょっ、クレア殿——まっ……」
それは、カトレアの
「カトレア‼」
ではあったが——、
「あいたぁ~、この起こし方は辞めて欲しいピョン。なんだか頭が痛いし、心が削れてる感じがするピョンよ」
もはや慣れたものだと言わんばかりに彼女の体は地面に踏ん張り、赤い魔物の瞳を
——ユカリ・ササナミの登場であった。
「か、カトレア……?」
唐突に頭に生えた兎耳、話には聞き及んでいたが初めて直に垣間見る己の従者の
そして一方のユカリもそんな姫が己に向けてくる心配するような憂いの視線を浴びて、
「誰ピョン。ずいぶん可愛い子ピョンね」
初めましての
だが——、
「テメーの体のご主人様だよ。女騎士と姫様」
「はーん、オタクっぽい響きピョン」
「……アナタが、話に聞いたハイリ・クプ・ラピニカ。いえ、ユカリ・ササナミなのですね」
「あ? この娘、私たちの言葉が分かるピョンか? なんて言ってるピョン? アイサツ?」
「……通訳が面倒ってのもあるが、とにかく時間がねぇ、ちょっとこっち来て手伝え」
イミト・デュラニウスは
「何だピョン。折角だから、挨拶とかしといた方が、これからの——ひっ⁉」
「……さっさと
「はいピョン‼ 直ぐに行くピョン‼」
無論、悪態にも思えるイミトに対して思う所では無かったユカリではあったが、彼女は以前に巻き起こったイザコザで、傍ら冷たい目を浴びせてくるクレアに対してトラウマとも評しても良い恐怖を身に刻まれていて。
「申し訳ないとは思わないが、同情はする」
「むちゃくちゃ怖いピョン。もうヤダ……あの人、怖すぎだピョン」
彼女は逃げるようにイミトを追ってその場を後にしていく。
しかし彼女は忘れていた。
クレアに対する恐怖で心が
「ていうか、イミトさん、なんでそんなに服が汚れてるピョン?」
「あ? ああ……そうか、そうだった。凄い面倒くさい事になりそうだ」
クレア・デュラニウスというデュラハンの片割れであるイミト・デュラニウスもまた、平穏な世界では狂人と
「きゃあああああああ‼ アナタ達、何してるピョン⁉」
初めてみるか否かは知らぬ、凄惨な光景。一見すると熊の死骸を
一方、場に残されたマリルティアンジュは——
「——……カトレアは大丈夫なのでしょうか? 傍から見ていても、少し無理な事を重ねているように思えるのですが……」
「知らぬ。我らは我らの利ででしか動かぬ、結果として利用価値があるのは和平調印式に参列する名分である貴様のみ。貴様の護衛騎士など物のついでに関わっておるだけだからな」
同じく場に残ったクレアに話しかけ、軽々とあしらわれていて。
「……分かっています。私も
自らが持ち運んだ騒動による負い目、無論カトレアの身体を危惧する言葉にも嘘偽りはない。
しかし彼女は話したかったのだ。話してみたかったのだろう。
「ふん。ここ数日で、覚悟は決まっておるようだな……別れの挨拶くらいはさせてやる。そして
「——戦場でのみ活きるデュラハンが、和平に挑むなど
戦場の死に神、処刑騎士、災厄の魔物、救世の英雄、クレア・デュラニウスという
「そんな事は……。デュラハンが現れれば何を置いても停戦せよ……それが人間の戦場でのしきたりと以前、何処かで聞いた事があります」
自らの悲願である和平の
「
「……」
けれど彼女は、それ以上答えなかった。
嘆きの峡谷に吹き抜けた風は酷く
背後で喧騒慌ただしく嫌悪の悲鳴を打ち鳴らすユカリの言葉が、一切合切を掻き消すように尚も木霊する。
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