一章:モーンガ―タのささやき/03


「ゲリラ豪雨らしい」

 放課後になっても席を立たない高野がそう言った。窓の外、彼の指さした方角を見ると、住宅街の先に広がる空が、どんよりと黒く濁っていた。

「あっちに家があるから、去るまで今日は待つ」

「傘、持ってきてないのか」

「買うのもバカらしい。停電も起きてるってさ。ここにも影響、くるかもな」

「なら僕は先に帰るよ」

 高野は窓の外を眺めたまま、じゃあな、と手だけ振った。もう一分、いや、もう十秒でも長く高野と会話をしていたら、結果は変わっていたかもしれない。

 昇降口を目指していたところで、作楽、と呼ばれた。姉さんの声は遠くにいてもよく通った。聞こえないふりをして進んだが、これが悪手になって、姉さんはさらに僕の名前を叫んだ。周囲にいる生徒、全員が立ち止まった。何人かが僕に気づいて、とうとう視線を浴びる。癖で息を止める。存在を消そうとするが、もちろん注目は収まらない。呼ばれてるよ、と知らない女子がくすくすと笑いながら言ってきた。

 屈辱と呼ぶには派手だけど、怒りと表現するには足りない、そんな感情がうずまく。何か言葉で姉さんを傷つけたい気持ちにかられたが、結局何も思いつかなかった。

「……なんか用?」

「そんなに怒らないで。あのさ、今日急に家庭教師のバイトのシフトが入っちゃったの。お母さんに頼まれた夕飯用の買い物、代わってくれないかな?」

 カレーをつくるみたい、とメモを見ながら姉さんが答えた。そうしていると、「田越先輩」と、誰かが近付いてきた。男女の二人組。何か相談ごとがあるらしかった。

 姉さんが彼らに気を取られているうちに、靴を履き替えて外に出た。作楽、とまた呼ばれたが、今度こそ足を止めなかった。

 校門をでて坂を下る。高台につくられた高校なので、登校中の朝は地獄だが、帰りの足取りは軽い。下った先を直進する。家に帰るなら、左に折れるべきだが、途中でスーパーによらないといけない。

 交差点にさしかかったところで、背中からまた姉さんの声がした。ぱたん、ぱたん、ぱたん、と靴が地面を叩き、はずむ音が近づいてくる。

「作楽、メモっ」

 そういえばもらい忘れていた。自分の失敗。本来なら、一〇分後には忘れてしまえるような小さなミスなのに、姉さんに指摘されると、僕のなかではとんでもなく大きな失敗で、取り返しのつかない恥のように思えてきてしまった。

「カレーだろ、覚えてるよ」

 思わず振り返り、叫び返した。メモなんて必要ない。すべて覚えている。そういう言い訳を用意することに決めた。

「作楽!」

 そのとき、ひときわ大きく姉さんが叫んだ。僕を呼んだのではないとわかった。我慢の限界が達して、怒った声でもなかった。それは理性を感じさせない、単純な悲鳴だった。その叫び声で、ようやく自分の渡る歩道の信号機が点灯していないことに気づいた。赤にも青にもなっていない。消えている。停電。

『ゲリラ豪雨らしい』

 交差点のほうで激しい衝突音がした。信号が消え、秩序を急に失った車同士が、混乱し、ぶつかっていた。玉突きで他の車も追突する。

 その事故を避けようと、一台の灰色のセダンが急に向きを変え、こちらに突っ込んできた。逃げなくてはいけない。前に進んで渡り切るか、後ろに戻るかの判断が求められた。後ろには姉さんがいた。僕が渡りきろうとしたのは、ただそれだけの理由だった。そんなくだらない判断のせいで、逃げるのが、遅れた。

 衝撃がやってくる。しかし車にぶつかったわけではなかった。誰かに背中を突き飛ばされた。つんのめり、バランスを崩す。転んだ拍子に、そのまま顔を派手にうちつけた。頬に焼けるような痛みを感じた。

 地面に倒れていることがひどくかっこ悪く、非常識なことのように思えて、すぐに立ち上がった。視界がぐらついた。ようやくピントが合った視線の先に、民家の塀に激突したセダンが見えた。セダンの近くに、ある物が落ちているのが目に入る。姉さんの靴だった。

 音が遠かった。耳鳴りがするだけだった。ゆっくり近寄ると、壁と車の間に挟まった姉さんを見つけた。バンパーの部分にその上半身が倒れこんでいる。右腕がわずかに動き、うめき声をあげていた。

 姉さんを助けだすのに誰かの手が欲しかった。見まわすと、ひとが集まってきていた。OL風の女性が電話をかけていた。事故です、と通報する声。他の四、五人は通りの向こうでこちらを見つめてくるだけで、近づいてはこない。

 セダンの運転席にいるスーツの男性がギアに手を伸ばし、バックさせようとするのが見えた。その瞬間、近くにいた老人が車の窓を叩き始めた。「だめだ! だめだ! 動かしちゃだめだ! はさんだままにしておくんだ!」野太い声が響く。「体から車を離すな! でないと……」その先を老人は続けなかった。

 作楽、と呼ぶ姉さんの声で我に返った。近づき、その腕に触れる。姉さんが僕を見る。だけど目が合わない。視線が泳ぎ、どこかを漂っている。顔が真っ白だった。

「体の感覚がない。ねえ、どうなってる? わたし、しゃべれてる?」

 つま先の湿る感覚があった。見ると、車の下から血が流れてきていた。避けないでいると、靴がどんどん濡れていった。血の流れに沿って何かが運ばれてきた。小さなメモだった。姉さんが僕に渡そうとしていたもの。買い物メモ。

「作楽、いる?」

「い、いるよ。ここにいる」

 ようやく絞り出した声は、自分で耳にしても嫌になるくらい、頼りないものだった。手を握ると姉さんは微笑んだ。無事でよかった、と小さく言った気がした。それから泣き始めた。

「姉さ、ん」

 言葉がのどにつまる。うまく出てこない。姉さんは怯えていた。初めて見る表情だった。励ませるのは僕だけだった。ここにいる家族は、僕だけだった。何か言え。安心させろ。早く。早く。早く。大丈夫だって。助かるって。

「……死にたく、ない」

 姉さんは目を閉じて、それきりしゃべらなくなった。

 救急車が到着したのは一〇分後のことだった。


       †


 玄関を開けて靴を放り、廊下を進む。足がもつれて、途中で転びそうになる。教会跡地からここまで、走り通しで息が切れていた。足の指先がじんじんと、さっきからずっと痺れている。進んでいる実感がなく、不自由な夢のなかを走っている気分だった。

 リビングに入るとテレビがついていた。父さんはソファでくつろぎ携帯をいじっている。母さんは食卓のテーブルで、フラワーアレンジメントの仕事で余った花を使い、リースをつくっていた。

「どうしたの、そんな汗だくで。ジョギングでもしたの?」母さんが言った。

 たったひとつの質問をするのに、とてつもない勇気が必要だった。実際に口を開いたとき、少しかすれて、声が出た。

「……姉さんは?」

「さあ、予定がなければ、部屋にいるんじゃない? そういえばさっき、作楽を探してた。というかあんた、どうして制服着てるの? ジョギングじゃないの?」

 母さんも父さんも、喪服を着ていない。休日の、リラックスした私服に変わっている。葬式が終わってから、一時間も経っていない。

 リビングを飛び出し、階段をかけあがる。姉さんの部屋の前につき、深呼吸して、乱れた息を整える。心臓は、ばくん、ばくん、と落ち着かない。ふと、手元を見ると、教会跡地で着信を受けてから、ずっと携帯を持ったままだったことに気づく。

 ノックしようとすると、部屋のなかで物音がした。手元の携帯が振動する。出る代わりに、僕はドアを開けた。

「あ、作楽。帰ってたんだ。もう、さっき一瞬だけ電話出たと思ったら、すぐ切るんだもん」

 田越葉月。僕の姉さんが、そこにいた。

 生きている。そこにいる。

 血が流れていない。棺に横たわってもいない。立って息をして、話している。

「事故のことだけどね、わたしたちの治療費と検査費は向こうの保険会社が支払うんだけど、それとは別に警察がもう一度事情聴取するかもしれなくて……って、ねえ作楽、大丈夫?」

 自分がどんな顔をしているかわからない。だけど姉さんは心配して、僕に近寄ってくる。一歩近付くごとに、床がきしむ。重さがある。幽霊じゃない。

「ああ、姉さん……」

「なになに、どしたの」

 姉さんは僕を抱きよせてくれた。僕は動けず、されるがままだった。体が温かい。姉さんの心臓の鼓動が伝わってくる。動いている。

「怖かったね。でも生きてる。二人とも」

 入院費、と姉さんは言った。あの事故は、どうやらそういうことになったらしい。僕と姉さんは、二人とも、軽い怪我で済んだようだ。頬の傷にそっと触れる。ガーゼがなくなっていた。跡形もなく消えていた。

 姉さんが続ける。

「最後には、うまくいくようにできている。だから大丈夫」

 もう冷たい態度なんてとらない。無視もしない。朝、おはようと言われたらちゃんと返そう。もっと会話を交わそう。僕と姉さんが笑顔になっているような、そういう思い出を増やそう。そしてもちろん、買い物も率先して代わる。僕の人生でようやく、正しいことができる気がする。

 四か月だ。と、そのとき声が聞こえた。四か月だ。お前の命は残り四か月だ。それは自分自身の声だった。わかっている。ちゃんとわかっている。でも、いまだけは、この瞬間をかみしめさせてほしい。

 腕をまわし、僕は戻ってきた姉さんを抱きしめ返す。頭のなかでは、まだ声が強く響き渡っていた。

 四か月だ。四か月だ。四か月だ。

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