一章:モーンガ―タのささやき/02


 葬儀が一通り済み解散になったあと、帰宅途中で両親と別れ、僕は学校に向かった。日曜日だったので正門は閉められていたが、その横の通用門は開いていた。校舎には入らず裏手に回る。二月以来訪れていない、あの林があらわれる。

 木陰の下の、ぬかるんだ道を進む。器用に乾いた部分を見つけて歩くことは、今回もできなかった。靴があっという間に汚れる。とうとう制服のズボンにまで泥がついたところで、開けた空間に出た。日差しが強く照りつける、乾いた地面。教会跡地は変わらずそこにあった。

 最近の、姉さんと過ごした数少ない記憶。思えばここで交わした会話が、今年のなかでは一番長かったかもしれない。家にいても、あれほどまともに話をすることはなかった。姉さんと二人でいるときの自分はいつも不機嫌で、だけどここでの記憶は、そのなかでも、まだ綺麗なほうだった。

 教会跡地の敷地内に入る。原形をほとんどとどめていない、崩れかけた外壁が周囲にを覆う。雑草がおいしげっているが、以前来たときと同様、かすかな獣道が延びている。季節を通して、定期的に何人かがここを訪れている。道の先にはあのときと同様、逆さまになったベルが半分、土に埋まっている。お供えものは片づけられていた。用務員が定期的に回収していくのだと、姉さんが言っていた。

 そのほかには、どんな会話をしていただろう。思い出そうとしたところで、携帯が鳴った。確認すると、クラスメイトの高野からだった。学校内の、唯一ともいっていい友人だ。今日の葬式にも来てくれていた。

「高野。どうした?」

「いや、ごめん。特に用事はないんだけど。葬式で話す機会なかったから」

「こっちこそ、話せなくてごめん。今日はきてくれてありがとう」

「いい葬式だった。すごいたくさん、ひとがいて」

「うん。寂しくはなかったと思う」

 自分が死んで葬式が開かれたら、どんな景色になっていただろうか。姉さんほど交友関係が広いわけでも、誰かと常に関わってきたわけでも、信頼されているわけでもない。僕の存在感は、姉さんの百分の一にも満たないだろう。だから式場の広さも、きっと百分の一。両親のほかに、高野くらいは参列してくれるかもしれない。

「なあ高野」

「どうした」

「あの日、放課後に帰る前さ、高野が言ってくれてたよな。隣町がゲリラ豪雨だって。停電になるかもしれないって」

「……作楽」

「防ぎようがなかったって、励ましてくれるひともいたけどさ。そんなことないよな。予期しようと思えばできた」

「違う。あれは誰だって……」

「何より僕が横断歩道を渡るとき、消えていた信号に気づけていれば」

 先を続けようとしたところで、急にノイズが走った。高野が何か言っているが、砂嵐音で聞き取れなくなってしまう。呼びかけるが返事はない。やがて、ざあああああ、と、完全に砂嵐の音だけになり、最後には切れてしまった。雑木林のなかにいるから電波が悪くなったのかもしれない。高野との会話が途切れ、急にひとりきりでいることを実感し、我に返る。どうしていつまでも、こんなところにいるのだろう。

 教会跡地に背を向けて、歩き出した瞬間だった。

「ごめんね。携帯は嫌いなんだ」

 自分以外、誰もいないはずの空間で声がした。

 振り返ると、瓦礫となっている外壁の一部に、ひとが腰かけていた。

 麻色の生地に、いくつもの色のポケットがつぎはぎされたコート。底の厚い革靴を履き、その足元まで垂れる長い黒髪。

 さっきまでそこにいなかった。近づいてくれば、足音くらいは聞こえるはずだ。外壁の上に腰かけるなんていう、派手なことをすれば、気づいていたはずだ。このひとはどこから現れたのか。どうやってそこに座ったのか。

「今日が葬儀だったみたいだね。おつかれさま。ところで知ってた? 最近は散骨方法が多様化していて、宇宙葬っていうのがあるみたいだよ。人工衛星に骨を乗せて宇宙に放りだすらしい。すごく怖いよね。ちょっとありえない」

 いくつもの日々を過ごした友達みたいな態度だった。そのひとは手元の袋につまった金平糖をつかみ、口に放り込む。袋のなかの金平糖はすでに半分以上も減っていた。

「……あなた、誰ですか」

「名前? モーンガータ」

 モーンガータ。聞き慣れない名前。これまでの人生で、一度も耳を通ってこなかったような響きの単語。姉さんの知り合いか誰かだろうか。わからない。なんだろう、このちぐはぐな感じは。そもそも女性なのか、男性なのか。それすらもはっきりしない。年は三〇代。いや、二〇代。自信がない。断定しようとするたびに、正体があいまいになっていく。ピントが合わない。見ようとすると、常にぼやける。

 気づけば周囲で響いていた蝉の鳴き声が、まったく聞こえなくなっていた。僕たちに気を遣い、息を潜めているように思えた。

「田越作楽。きみと取引にきた」

「取引?」

「そう。姉を失い、自分だけ生き残ったきみへのオファーだ」

 知っている。姉さんの死を知っている。その口調には悲しみのようなものは感じられない。少なくとも、姉さんを慕っていた人物ではない。

「予想外のことが起こるとひとは思考判断が鈍る。後悔先に立たず。たとえばきみがもっと早く、救急車を呼んでいれば結果は違ったかもしれない。向かってくる車に気づけていれば、姉が犠牲になることはなかったかもしれない。停電して消えた信号にもっと早く気づいていれば、目の前で家族が息を引き取る瞬間を見ずに済んだかもしれない。そんな後悔をすべて帳消しにして見せよう。きみには救われる資格がある」

 凛とした声。女性、あるいは、声変わりをする前の小学生男子のような声。

 肩幅は狭く、金平糖を掴むその手は大きい。唇は艶やかだが、鼻筋はよく通り、力強さがある。瞳は大きく眉は凛々しい。世界中の美しい男性や女性のパーツをつめこみ、歪になったような姿。

「あんた、本当に何者だ」

 モーンガータが外壁から飛び降りる。革靴で着地した先に水たまりがあり、ばしゃん、と汚い音が響いた。歩いてこちらに近づくたび、長い髪が揺れる。髪のなかに何かが埋め込まれているのか、たまに天井の明かりを反射するように、髪が光る。

「きみの願いを叶えよう。私にはその力がある」

「願い?」

「ただし対価として、きみからあるものをいただく。寿命だ。いくらいただくかは、望む結果の大きさと、叶えた際の周囲への影響力による」

「宗教の勧誘か。そんな人が校内に入っていいのか。教師に報告するぞ」

「わかるよ、信じられない。私だって金平糖がこんなに自分の口に合うことは最近まで知らなかった。具体的にいえば二月までこの味を知らなかった。きみが、きみたちが、私に教えてくれたんだ」

 二月。金平糖。

 今になって思い出す。去りかけたとき、ベルのなかから消えていた金平糖。そう、ここでは確かにおかしなことが起きていた。教会跡地の神様の噂。ありえない。

 モーンガータは持っていた袋をかたむけ、残った金平糖をすべて口のなかに放り込んでしまう。その小さい口に、残っていた金平糖がすべて入るのは物理的にありえないはずだった。不可能を無視して、もごもごと口を動かし、砕き、咀嚼していく。

「実感し、体感しないと、事実にはならない。だから事実を見せよう。というより、取引を持ちかける際の義務みたいなものだ。注意事項の提示だね」

 モーンガータは空になった袋を地面に放る。その身勝手さを指摘しようとしたが、袋は気付けば消えてしまっていた。いま確かに放ったはずなのに。

 消えた袋に気を取られたそのとき、モーンガータが両手を広げた。抱きつかれるのかと思ったが、そうではなかった。

 わずかなタメをつくり。

 それから、ぱん、と手を叩いて鳴らした。

 瞬きをした一瞬後、

「え?」

 僕はどこかの住宅地に移動していた。

 視界が、体験したことのない速度で、がらりと変わっていた。

 朽ち果てた外壁も、まわりを覆う木々も、足元のぬかるんだ地面や雑草も、どこにもなかった。踏みしめているアスファルトは硬く、遮られることなく日が差してくる。高さの異なる家々。電柱と延びる電線

「……なんだこれ。どこだ、ここ」

「それはいまはどうでもいい」真横でモーンガータが言った。その体から、どこか懐かしさを感じさせる、温かい香りがした。いとこの赤ん坊を抱っこしたとき、これと同じ匂いを嗅いだことがあった。

 モーンガータが道の先を指さす。踏切があり、車が一台、ちょうどこちらに渡ろうとしていた。

「あの車が三秒後に止まる」

 宣言した直後、車が見えない壁にぶつかったみたいに、急に停車した。同時に踏切が鳴り、遮断機が下り始める。浮かんだのは食虫植物のイメージだった。開いた口のなかに止まったハエを、たたんで閉じ込め、捕食する植物。

「車ごと電車に轢かれて運転手は死ぬ」

 運転席の男性が下を向き、必死に何か操作をしている。エンジンをかけようとしているのだとわかった。やがてあきらめ、シートベルトを外す。

 モーンガータは淡々と説明を続ける。

「彼は弟の借金の連帯保証人となり、妻との仲もずっと子宝に恵まれず冷え切り、離婚寸前までいっていた。ああいうのを世間的には、どこにでもいる普通の会社員というのだろうね」

 男性がドアを開けようとする。しかしでてこない。助手席のほうに移動し、ドアをまた開けようとする。そちらのドアも、なぜか開かない。

「彼は借金を帳消しにし、巨額の富を得て子宝にも恵まれた。ナオミだがナオコだとかいう女の子で、来年から小学校にも通う予定だったかな。とにかく、それらはすべて私との取引で手に入れたものだ。彼は今日、残された寿命を使い果たす」

「何言って……」

 よそ見をしかけた瞬間、男がこちらを向いた。僕の横にいるモーンガータに気づき、悟ったように、抵抗をやめた。距離があるはずなのに、男の青ざめた顔がなぜかはっきりと見えた。口を開き、何かつぶやいた。すべて言い終える前に、その姿が電車にかき消された。

 激しい衝突音。圧倒的な力で、巨大な金属の塊を強引にひきずる光景。気づけば息ができなくなっていた。呼吸をする方法を脳が忘れていた。男性の体に意識が乗り移ったみたいで、二度と息ができなくなるのではないかと思った。

 近くで目撃していたのか、女性の甲高い悲鳴が聞こえてくる。それともこれは車輪の音だろうか。

「ああ、悲鳴がやかましい。もういいだろ」

 モーンガータは再び、両手を広げ、ぱん、と叩く。

 一瞬後には、静寂の落ちる教会跡地に戻ってきていた。自分の足に力が入らなくなっていることに気づき、よろめきながら、近くの外壁にもたれかかる。

 何が起きた。僕は何を見た。男性が死んだ。事故で。本当に事故?

 こいつは予言した。ぜんぶ知っていた。僕に見せると言って、それから本当に見せてきた。空間を飛ばし、移動させて。人間には、できないことをして。

「……教会跡地の神様。ここで噂を聞いた。お前が、それなのか」

「なんと呼ぼうが勝手だ。好きに解釈すればいい。死神でも、悪魔でも、天使でも、神様でも、なんとでも」

「本当にぜんぶ、叶えられるのか」

 何を言っているのかと思った。自分の発言が信じられなかった。モーンガータの言葉を鵜呑みにし始めている。止めようとする僕の意志に反して、会話は進む。

「きみがどれだけ寿命を持っているかによる。単純な計算だ。五〇〇円あれば金平糖は買える。でも車は買えない」

「僕はどこまで叶えることができる」

 人間ではない生き物が笑った。ほんの一瞬のしぐさ。でも僕は、その笑顔を見て確信した。それこそが本題だったのだと。

「たとえば、死んだ姉を生き返らせることならできる」

「姉さんを……」

「ただしきみの寿命を限界まで徴収した場合だ。この取引を交わせば、残りの寿命は約四か月になる。四か月後の一一月一六日。そこがきみの命日だ」

 生き返らせる。姉さんを生き返らせる。あの事故を、なかったことにできる。実現できるはずのない願い。だけどこいつなら。空間を好きに移動するような芸当ができる、人間ではないこの生き物になら。

 事故のときの記憶がめぐる。車体と塀に挟まれた姉。僕を落ち着かせようと笑顔を見せ、そのあと泣き出した姉。おびえて、死にたくないと最後に言い残し、懇願してきた姉。誰も知らない姉さんの最後。

「言っておくと、きみに取引を持ちかけるのは一度きりだ。私も暇じゃない」

 誰かに会うたび言われた。きみのせいじゃない。責めてはいけない。だけど知っている。本当は誰もが思っている。口には出さないだけで、願っている。姉さんの方が助かっていればよかったと。死ぬのは僕のほうであるべきだったと。ひとの命には重さがあって、それは平等ではない。姉さんの命は、僕よりもずっと重かった。

 死ぬのが怖くないわけじゃない。だけどこのまま生き続けていくことのほうが、僕にはもう、耐えられない。この命を使える機会が、もしあるのなら。

「僕は姉さんを生き返らせる」

「じゃあ決まり」

 うなずいて、モーンガータが近づいてくる。革靴で地面を踏み、泥を跳ねさせる音が、胸の奥まで響いてくる。僕は願いの対価に自分の寿命を差し出す。最期には無残な死を迎えるかもしれない。電車に轢き殺された、あの運転手のように。それでも決意は揺らがない。この現実を変えられるのなら、いくらでも祈る。

「何をすればいい」

「そこに座ってるだけでいい」

 モーンガータが目の前に立ち、右手をかざしてくる。骨ばった、ごつごつとした大きな手。そっと、頭にその手が乗る。髪の毛がこすれる小さな音が聞こえたかと思うと、頭のなかに潜り込んでくるのがわかった。

 戸惑う僕を、モーンガータは楽しそうに笑う。頭のなかに潜り込んだ手に触れようとしてくるが、手頸から先が額のなかに入っていて、僕はそれにまったく干渉できない。痛みはなく、ただでたらめな違和感に襲われるだけだった。

 突っ込まれた手が引き抜かれる。見ると、何か黒い塊を握っていた。水気を帯びた、妙な物体。一部は丸く、一部は尖っている。あれが僕の魂の一部なのか。

 日差しに反射して、塊が妖しく光る。宇宙を眺めているような奥行きと、色。モーンガータの髪がまさに同じ色をしていることに気づく。

 モーンガータは手に持っているそれをひとしきり眺めて堪能したあと、躊躇せず口に含んでしまった。ごくり、と喉の鳴る音がここまで聞こえてきた。コートの奥、その体が光り、うっすらと透ける。血管に沿うように、光がモーンガータの手に流れ込んでいくのがわかる。やがて、両手を皿の形にすると、体にとどまっていた光が漏れて、皿のなかに何かの物体が生まれた。

「取引は成立。これは、契約書みたいなものだ。首にでもかけておくといい」

 差し出された物体は、ネックレスのような形をしていた。チェーンの先には木彫りの十字架がある。ただしストラップの位置は十字架の先端に取り付けられていて、そのままにすると、十字架は逆さに吊られる形になっている。逆さの十字架。

「契約書は人によっていろいろな形を取るけど、きみのはなんだか、少しベタなものになった。ふ、逆さ十字架って……」

 鼻で笑われた。よくわからないが、バカにされていることだけは理解した。死神は僕の心を笑った。

「じゃ、今日はこれで。また様子を見にくるよ」

 モーンガータが両手を叩く。ぱん、と響いて、姿が消える。教会跡地にひとり、取り残される。

 あまりにもあっけなく終わり、急にいま起きたすべてのことが、嘘に思えてきた。何か壮大な、意図のわからない詐欺にでもあったのではないかと。

 風がひとつ吹いて、すぐにやんだ。そのとき、ポケットの携帯が振動しはじめた。高野かと思い、取り出す。表示された相手を確認したところで、手がしびれ、思わず携帯を落としてしまった。

『田越葉月』。着信は姉さんからだった。

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