一章:モーンガ―タのささやき/04
生き返った姉さんの様子に異変があらわれたのは、それからすぐのことだった。
最初はうまくいっていた。何もかもが元通りになったと思った。朝食時には全員が食卓につき、何気ない会話でリビングが満たされていった。日常がそこにあった。
父さんは早々と食事を終えて出勤していく。見たいテレビの録画予約を母さんに頼み、家を出ていくのが習慣だ。登校まで時間のある僕と姉さんは母さんの雑談を聞きながらトーストをかじる。フラワーアレンジメントの講師をしている母は、授業で使いきれず余った花を持って帰ってくると報告してくる。
そして登校の準備のために一度部屋に戻る。制服に着替えて、階段を下り、玄関に向かう。靴を履いていると姉さんが追い付いてくる。そのはずだった。
いつまで待っても、姉さんは下りてこなかった。そのころ、少しでも姿が見えなくなると、僕は不安を抱くようになっていた。
靴を脱ぎ、階段を上がって姉さんの部屋をノックする。ドアを開けると、姉さんはベッドで眠っていた。毛布にくるまり、半開きの目で遠くを見つめている。
「姉さん、学校は?」
「なんか今日、体調がよくなくて」
「大丈夫? 学校の誰かに連絡は?」
「うん。もうした」
あとでわかったことだが、姉さんは誰にも休む連絡をしていなかった。
「風邪かもしれないし、うつしちゃ悪いから。作楽は行って」
「……わかった。じゃあ、ゆっくり休んでて」
姉さんは学校を休み続けた。
事故のショックによるPTSDが原因でしょう、と医者は言った。あの日の事故で、僕と姉は車に追突され、軽傷を負ったことになっていた。僕の頬は傷ついておらず、姉さんは車体と塀に挟まることなく、ほんの一メートルほど跳ね飛ばされたというのが、この世界に生まれた新しい事実だった。
「生きている実感がうまくわかないんです。夢のなかにいるみたいで」
診察を受けていた姉さんは、そう言った。僕は横でつきそい、医者と姉さんの反応を交互に見ていた。医者はやわらかい声色で応える。
「事故に遭ったあとそう感じるのは、めずらしいことじゃない。自分だけの不安や悩みだと思って、抱え込む必要はないよ」
念のため、体にも異常がないか検査をした。僕も受けさせてもらった。問題はなく、その日のうちに退院を許された。帰宅すると同時、姉さんはまっすぐ自分の部屋に向かい、また閉じこもってしまった。
自室に戻ると窓が開いていた。細い窓枠に器用に腰かけて、例の死神が座っていた。本棚から漫画を取り出し、勝手に読んでいる。雑貨店で買った、アメコミの『バットマン』シリーズの一冊。表紙にはバットマンのほかに、もうひとりヒーローが描かれている。弟分のロビンだ。バットマンのそばにいてサポートをするキャラクター。
「サービスに満足してもらえたかと思って、様子を見にきたんだ」
僕に気づき、モーンガータが漫画を放る。漫画は床に落ちることなく、吸い寄せられるように、もとあった本棚に戻っていった。重力を一回でも無視してみせないと、こいつは気が済まないのだろうか。
「姉さんの様子がおかしい」
「PTSDなんだろ。それが何かは知らないけど」
「お前が何かしたんだ」
「まいったな、感謝されると思ってきたのに。きみのお姉さんみたいに人助けをして、気持ち良くなってみたかったのに。まさか責め立てられるなんて想像もしていなかった。がっかりだ。これだから人間は」
モーンガータは失望し、うんざりするように首を左右に振る。しかし、その口元が笑みを隠し切れていない。こいつは僕の様子を楽しみにきたのだ。
「きみの姉さんは正義感が強い。自分の主義を持ち、その心に従って行動している。助けを求めてくるひとがいたら話を聞くし、求められていなくても手を差し伸べる。個人的にそういうやつは大嫌いだけど、とにかく、それだけ生真面目な人間が、本来の運命に逆らって生き返ったら、どんな反応を見せるだろうね」
「姉さんは、自分が生き返ったことを知っているのか。だから動揺している?」
「いいや知られることはない。だけど無意識のうちに違和感を抱いている。そういうことなら、ありえなくはない」
生きていることに、違和感を覚えている。それがいまの姉さん。
「なんとかしろ。約束が違う。あれは、あんなのは、いつもの姉さんじゃない」
「おかしなこと言うなよ。そんな約束した覚えないね。どうしてもいまの結果が気に入らないなら、契約書を破棄すればいい。いまも肌身離さず、持ってるんだろ?」
首にかけていたネックレスをはずす。シャツの下に隠していた、逆さ十字架があらわになる。モーンガータが契約書といって、あのとき渡してきたものだ。
「この契約は破棄できるのか」
「きみが望めばね。ただし契約によって実現した結果もなかったことになる。隣の部屋にいるはずの姉の葉月は、骨壺のなかに戻る」
モーンガータは続ける。
「彼女が生き返った仕組みは簡単だ。きみの残りの寿命を彼女に移植している。契約を破棄すれば彼女は消えて、きみの寿命も丸ごと元通りになる。すべてリセット。徴収した手数料分は戻らないが、この先もきみの人生は続いていく。四か月といわず、何十年でも」
「契約は、破棄しない」
「いちいち言わなくていいよ。きみの自由だ」
手元の逆さ十字架を眺める。いまさら壊せるわけがない。それは、姉を殺すのと同じことだ。姉がこれから、たくさんのひとを助ける機会を奪う行為だ。僕ひとりの命の重さが、それと釣り合うわけがない。
「姉さんの命は、僕よりずっと重い」
「命の重さには差がある。その意見には同意だ。命の重さは誰もが平等、なんていうやつの言葉を聞くと吐き気がする。人間はいつも、誰かと誰かを比べるくせにね。性別とか年齢とか、貧富とか地位とか、尽きないネタを並べて比較する。そして好きか嫌いか、価値があるかないか判断する」
モーンガータはさらにこう添える。
「面白いのは、命が重いほうの人間が、必ずしも長く生きるとは限らないってことだ。きみもよく知っている通り」
口角を上げないかわりに、目元が不気味に笑っていた。いまの考えを聞いてわかった。こいつは決して人間を軽んじているわけではない。見下しているわけではない。ただしそれと同じくらい、尊重もしていない。
「ところで、あの教会跡地は居心地の好い住処のひとつでね。あそこにいれば悩みや苦しみを抱えた人間が勝手にやってくる。祈りを捧げてくる。助けてくれ、願いを叶えてくれって。そして有望なビジネスパートナーを見つける」
「お前はどれだけの人間に、こういうことをしているんだ」
「数に興味なんてない。最初のころは記録してたけど、五〇〇年経ったところで数えるのはやめた」
こいつは想像もつかない歳月を生きている。
そしてその食糧は、ひとから差し出される、かけがえのないもの。魂。寿命。目には見えなくても、確かにそこにあるもの。ある日突然、理不尽に、不条理に奪われることがある代物。
教会跡地の神様の正体は、ひとの命を食らう化け物だった。
第27回電撃小説大賞《選考委員奨励賞》受賞作/『ぼくらが死神に祈る日』 メディアワークス文庫 @mwbunko
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