第3話~ローズマリー~

 「翼くん、蕾がついてる! 」

 ベランダで西日を背に真里奈が嬉しそうに笑っていた。

 「見よう見まねで育てるのが精一杯で、初めて小さな蕾が出てきた時は嬉しくて涙が出そうになった」

 彼女はそう言いながら愛おしそうに笑う。


 彼女──真里奈が部屋を出てから二ヶ月。


 いつか帰って来るかもしれないと思い、鍵はかけずに暮らしていたけれど、そろそろ忘れなければいけない頃なのだと思いはじめた。


「ローズマリーには落ち込んだ気持ちを高揚させる効果があって、抗うつ作用も確認されているほどなのよ」

 その頃の僕は仕事の忙しさに疲れていて、きっと笑えていなかったのだろうと思う。


 そう言われても、少しクセのあるこのハーブティーを好きになれなかった。


 そんな僕のために、真里奈は紅茶にはちみつを足して、ローズマリーティーを作ってくれた。

 ようやく飲めるようになったけれど、真理奈が出ていったあの日から僕は飲んでいない。





 真里奈と出会ったのは去年の夏の日だった。


 友達の彼女が連れて来たのが真里奈で、僕は会って直ぐに恋に落ちた。


 肩まで伸びた髪は柔らかい栗毛色で、少し茶色がかった瞳の奥は澄んでいた。


 失恋したばかりだという彼女は言葉少ないけれど、みんなの話を聞いて、にこやかに笑っていた。


「翼くんって、いい名前ですね、ご両親がつけてくれたんですか? 」


 僕はそんな彼女の問いに答える。


「父さんがつけてくれたらしくて。その時の流行りだったのか、小学生の頃はクラスに少なくとも二人は同じ名前の同級生がいたんだ、それに、たまには女の子もいたから、僕はこの名前それほど好きじゃないんだ」


 同級生でも、運動神経が良かったり、成績優秀な男子は目立つ。

 そんなモテ系はそのままニックネームが"翼"と呼ばれることがあったけれど。

 成績も普通で、体育祭でもほぼモブキャラの僕は、鈴木という、どこにでもいる苗字で呼ばれることが多かった。




 二人でたまにお茶を飲んだり、食事をすることになり、僕たちはいつしか恋人同士となった。




 真里奈は「翼くん」と僕のことを呼んだ。


 僕は、初めてその名前が好きになった。


 看護師として働いていた真里奈とはすれ違うことも多かった。夜勤明けの疲れた身体を休めるために僕の部屋に来て、僕が仕事から帰ってくる頃にようやく目覚める。そんな、何でもない日々でも愛おしかった。


 あたたかい毛布にくるまった身体を、その毛布ごと抱きしめて、ベッドに潜り込むのが好きだった。

 そんな日々がずっと続けばいいのにと思っていた。



 告白をしたこともなく、自然に始まったこの恋は、フェイドアウトしたように静かに幕を下ろした。


「翼くんの翼は、まだ羽根を広げてないだけなんだと思うよ、ちゃんと大きく広げてみたらいいのに。どこにだっていけるはずだよ」


 ベランダには真里奈の好きだったハーブがたくさん残っている。


 その中で、唯一枯れずに青い花を咲かせたローズマリー。僕は紅茶にはちみつを入れてこのハーブティーを飲むだろう。


 そして、もうしばらくは鍵を開けたままにしようかと思う。



(了)



 ~ローズマリー~


 花言葉

 ・変わらぬ愛

 ・私のことを思って

 ・あなたは私を蘇らせる


 属名Rosmarinusは「海のしずく」を意味する。ヨーロッパでは、教会、死者、生者を悪魔から守る神秘的な力を持つといわれ、また記憶や友情を意味する。


 キリスト教以前のヨーロッパで祝典や結婚式、葬儀に用いられたとされ、「変わらぬ愛」や「貞節」の象徴とされる。その生育はキリストの生涯を象徴し、多くの伝説で聖母マリアと結びついている。

 英名の意味は「聖母マリアのバラ」ということで、女性の名前にも付けられます。聖母マリアがキリストの上着をローズマリーに掛けて干したところ、上着と同じ青い花が咲き、香りも授かったと言われています。


 ✿四月二十四日「ローズマリー」の花言葉に添えて……

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