第4話

────住宅地


謎の水使いの少女から一目散に逃げ出した私は河川敷の近くにある住宅地に逃げ込んだ。

コンクリートの塀に囲まれた道はまるで迷路のようで、逃げるならうってつけだった。

とにかく人が他にいそうな場所に逃げ込んだだけだけど、今日の私はついていた。


「はぁ、はぁ……! あの子一体何者なの!? 私を殺すって、聖女って何なの!?」


文句を垂れながらも後ろから飛んでくる水のビーム的なものを寸前のことろでかわしていく。

逃げ足だけは一丁前な自分に乾いた笑いが出てしまう。

岩田たちから逃げる日々はこの日のための試練だったのかもしれない。

そう思わないと、やってられない!


「お姉ちゃんよく回避するねぇ〜? それがお姉ちゃんの聖書の力?」

「い、意味がわからないよ! 聖書なんて私は持ってないの!」

「嘘はダメだよ、お姉ちゃん! 嘘をつくのはダメなんだよ! だって、聖書に書いてあるでしょう!?」


未だに水に乗って後ろをつけてくる葉山と名乗った少女はきゃははと笑った。

狂っている……なんて人間に因縁をつけられてしまったんだ。

ちらりと後ろを見ると、彼女の乗っている水が河川敷にいた時より細くなっていることに気づいた。

きっと、川から離れたから水を操る力が弱まっているんだ。

このまま逃げていれば、もしかすれば……


勝機を感じ取ったその一瞬が命とりだった。


「あっ、隙みっけ!」


少女の嬉しそうな声と共に、私は右腕に強烈な痛みが走る。


「……っ! あっ……ああああ!」


痛みの元を視認する。

右腕……もっとその先、右手を見ると先ほどまであったはずの私の小指がなくなっていた。

痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い!

頭の中にそればかり浮かんでくる。それしか考えられない!

でもダメ! それじゃ私は死んじゃう!

これまで沢山痛いことをされてきた。

私は人より少し痛みに強いはずだ!

そう思うと少しはマシに頭が働いた。


私は右手を鞄の中に入れて血が垂れないようにして、そのまま逃げた。

少女の殺意が引く。どういうわけか少女はその場で立ち止まっていた。


「へぇ、結構しぶといんだ。1発当てたら大人しくなってくれると思ったのに……ごほっ! ごほっ!」


よくわからないけどきっと力を使いすぎたとかなんだろう。

追っ手の休憩を良いことに、私は今日1番の全力疾走でコンクリートの道を走った。





「はぁ……はぁ……ここまで逃げれば……大丈夫!」


住宅地をぐるりと周り、私は例の河川敷にまで戻って、橋の下で隠れていた。

あの少女は川から逃げるのは慣れてるとか言っていた。

たぶん、彼女の能力は川の近くだと強くなる。そう考えるのが普通だと思う。

だからこそ、私は裏をついて河川敷に逃げてきた。

まさか自分の有利な場所に逃げてくるとは思うまい。


「……っ!」


安心したところで、私は手の痛みを思い出してしまう。

鞄から恐る恐る手を抜いてみる。


「私の指……指が……どうしてこんなことに……これじゃヤクザものだよ……」


昔ドラマでヤクザが組を抜けるときに小指を落とすシーンを見た。

そんな団体に所属したつもりはないのに、寧ろ暴力少女に追いかけ回されただけなのに……

これからの生活が不便になるのを思うと、自然と涙が流れてきた。

パソコンとかも打てなくなっちゃう……エンターキー小指で打ってたのに……


絶望しながら、ふと鞄の中を見てみると、教科書の他に例の分厚い本が入っていることに気がついた。


「そういえば……昨日この本に祈ったら伊藤くんの怪我が治ったんだっけ……本当にこの本のおかげなのか分からないけど……」


左手で分厚い古書を取り出す。

よく分からない言語で書かれたそれを私はマジマジと見る。

やっぱり変だ。

私はこの言語を知らないのに、この本に書いてあることがわかる……


「と、とにかく今は祈ってみよう。そうするしかない。神頼みしか……もうできることがない」


私は胸の前で手を組んで神に祈った。

お願いです神様……どうか私の指を治してください。

お願いします……


ぎゅっと目を瞑って祈っていると、途端に左手のじんじんとした痛みが引いていった。

目を開けてみると、私の小指はいつの間にかそこにあった。


「やっ……やった! 本当に治っちゃった! すごい! この本なんなの!? この本があれば病院いらず……」


そこまで考えて、私はあることに気がついてしまった。

水使いの少女、葉山結衣の言っていたことは……たぶん本当だ。


「これ……この本がもしかして……聖書ってやつなんじゃ……」


見れば見るほど、その厳かな本は聖書に見えてきた。

仮に聖書じゃないとしても、この本は普通じゃない。

人の指を治せる本なんて……絶対普通じゃない。


「……後のことは家でじっくり考えよう。パソコンで調べて……出てくるのかなこれ……」


こっそり家まで帰ろうと、橋の下から顔を出すと、橋の上の黒い影と目があった。

……終わった。


「はぁ……はぁ……お姉ちゃんやっと見つけた! 川に戻るなんて、お姉ちゃんわざわざ私に殺されにきてくれたのぉ? ありがとぉ!」

「そ、そんなわけな……!」


否定しようとしたところで、私は横から飛んできた水に飛ばされて橋の反対側の壁に叩きつけられた。

肺の中の空気が押し出され息ができない。

そして、ぶつかった衝撃で肋骨が完全にイカれてしまった。


「かっ……神様……助けて……」


どうにか一命を取り留めた私は再び神に祈る。

古書は私の願いを聞き届け、身体を治してくれた。

ダメージが残った身体で何とか立ち上がると、川を挟んで向こう側の少女が肩で息をしながら笑った。

空はすでに、半分暗くなりかけていた。


「ギリギリ……セーフだよ。お姉ちゃんごめんね。お願いだから私に殺されて」

「……ど、どうして私を狙うの! それだけは教えて!」

「はぁ……はぁ……最初に言ったよねぇ? 私が生きるためだって。どうせお姉ちゃんすぐに死んじゃうだろうし、その命私に預けてよ」


私がすぐに死ぬ……?

今まさに殺されかけてるわけだけど、彼女の言っているのはきっとそう言う意味じゃない。

彼女の他に私を殺そうとしている人がいるってこと?


「もう時間がない。……さようならお姉ちゃん。私が代わりに長生きしてあげるから!!!!」


疲れ果てた様子の彼女は、手を横に振ると川の水を大きな龍に変化させた。

今度は小指一本じゃ済まない。

全身……持ってかれる……!


「アーメンって言ってみて」

「えっ、アーメン?」


絶体絶命の境地に置かれた私の耳に不意に誰かが話しかける。

少ししゃがれたハスキーめな声だった。

見回しても、声の主は見つからない。


「あ、あなたは誰!」

「助かりたかったら言う通りにしたほうがいよ」

「そ、そんな……」

「行けっ! 私のとっておき……ウォータードラゴン!」


あたふたしている私をよそに、葉山と名乗った少女は作り上げた水の龍に私を襲わせる。

地を抉りながら射出されるその攻撃に、私は逃げることができなかった。


「ああ、もう! どうにでもなれ!」


逃げれない! だったらもういっそのこと、どこかの誰かに賭けるしかない!

私はヤケクソになって、大声で叫ぶ。


「アーメン!!!!!」


瞬間、胸に抱えた古書が光を放つ。

眩しい、あまりに眩しかった。


「な、なにっ!?」


光に目が眩むが、私が頑張って目を開いて起きることをしっかりと見た。

古書は一度丸い光の球体になったあと、その形を粘土でもこねるかのように変化させる。

羽をあしらった輝く外套、そして木製で先端に宝石がついた杖。

光の粘土が変化したそれらは、気づけば私の身体を纏い、手に握られていた。


「いやああああああ!!!!」


選択肢のなかった私は、迫り来る龍に木製の杖を振り下ろした。

少女の水龍と私の杖の力は拮抗していた。


「うううう……でも……押される……!!!!」


拮抗していた力が段々と傾き始める。

水龍の牙が、すでに私の頬をかすめようとしていた。


「ダメっ……ここで諦めたら……ダメっ! 大丈夫……絶対大丈夫だから! 頑張って私……!」


杖に再び力を込める。

手の皮が剥けるくらいぎゅっと握ると、龍の牙は徐々に私から遠のいていった。


「いけ……いけえええええええ!!」


全身全霊で、持てる力を振り絞る。

そしてついに、古書が変化してできたその杖は少女の作り出した水の龍を打ち破った。


先ほどまで龍の形だった水はちりじりになって、雨を降らせた。

ずぶ濡れになった私は、いまだに川の向こうの少女を警戒していた。


しかし私はすぐに少女への警戒を解いた。

少女はすでに……


水の龍を作り出した葉山結衣は膝を着き、その場で吐血した。


「がはっ……! はぁ……お姉ちゃんの勝ちだよ……残念だけど……時間切れ……」

「な、何をいって……それに時間切れって……」

「言葉の通りだよ。私はもう……先に行くね」


葉山結衣は首に下げたロザリオを千切ると、それを元の形──本に変形させた。

そして、彼女は古書をこちらに投げ渡す。

本の表紙には『ゼカリヤ』と書かれているのが理解できた。


「これはお姉ちゃんにあげる。さっきのでわかったよ……ごほっ…………お姉ちゃんは選ばれし者──ペンタチュークだ。……きっとお姉ちゃんは……ごほっ……私みたいな子達を絶望から救って……くれるって……信じてるから」


少女は最後に笑みを浮かべると、その場で倒れ込んだ。

近くに寄って確認するまでもない。

葉山結衣は……死んだ。


「なんなの……一体なんなの……!」


外套と杖が古書へと戻る。

私の手の中には、2冊の古書が抱えられていた。

一切納得のいかない状況に、私は河川敷の下で泣き叫んだ。

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