第四章 指結び

4-1

 窓の外は、白くかすんでいた。


 雪の静けさで、目が覚めた。


 すっかり葉の落ちた樹の枝に白い綿が絡んで、電線にスズメが三羽、止まっている。寒さで体を丸くふくらませて、じっと、こちらを見ている。私はスズメにえさをあげたことはない。私は布団から起き上がって、布団を畳んで、暖房のスイッチを入れた。ブーンと回る室外機の音がして、やっとスズメは飛び立った。


 あの悲劇の夜から、一週間が過ぎていた。


 スマホに片瀬からのメッセージが入っている。「買い出しに行ってくる」と書かれている。ここのところ体調を崩して、ずっと寝たきりで、彼女に看病をしてもらっていた。今日は、とても調子が良い。体が軽い。おそらく熱が下がっている。


 私はコーヒーを入れるために、お湯を沸かした。


 待っている間、体温計を脇に挟んだ。ピピっと鳴って、三十六度と表示された。やっと熱は引いたが――スズメに怯えているようでは、未だ健全とは言い難い。


「あ、起きてたの」


 玄関から冷たい風が吹き込んで、片瀬が入ってきた。茶色の髪と黒いコートに雪を乗せて、四つばかりのビニール袋と紙袋を両手にぶらさげている。その中の一つは、薬局の袋だった。


「これで籠城ろうじょうできるよ」


 片瀬はテーブルに袋を置くと、コートを脱いで、キッチンで手を洗った。


「熱は?」


「やっと下がった」


「本当!?」


 片瀬は振り返って、目を輝かせた。それから「あ~」と言って、薬局の袋に視線を落としている。


「無駄には、ならないか。食欲はある?」


「だいぶ、減ってる」


「じゃあ、すぐにお昼、用意するね。おかゆは卒業だから……親子丼でいい?」


 片瀬は私が答えるよりも先に、鶏もも肉と卵を袋から出していた。私は彼女が買い出した物を――牛肉、豚肉、野菜は冷蔵庫へ、洗剤は洗面所に、それから紙袋には……シャツやらスカートやらズボンやら、下着も入っていて、何処に置くか分からなかったから、とりあえず寝室に置いた。


 私はテーブルに座ってコーヒーを飲みながら、台所に立っている、彼女の背中を見つめていた。束ねた髪に、雪のような白い首筋が色っぽい。彼女の家庭的な背中を、いったい何人の男が見てきたのだろう。それが今は、私の目の前にある。社会的な栄誉と、どこか官能的な快楽に、世間の男達に優越感を覚えつつも、私の心境は複雑だった。


 数々の悲劇が、幸福への没頭を許さない。


 砂漠を彷徨さまよって、偶然にオアシスを見つけたが、外に出れば、また、無限に砂漠が広がっている。私のオアシスは、いつ、枯れるか分からない。


 私は、あの夜に――康介が血だまりに倒れて、彼を探し回った夜に、どしゃぶりの雨の中で気を失っていたらしい。目を覚ましたら病院のベッドに寝かされていた。丸二日、高熱でうなされていたと医者は言った。腕に点滴が刺さっていた。まだ熱は完全に下がってはいなかったが、ただの風邪でしょうと、目覚めたその日に退院となった。片瀬が車で迎えに来て、熱で頭がクラクラする中、警察に話をしに行った。


和泉わいずみ康介こうすけさん……住民台帳に登録はないようですが……カメラの設置を? ああ、そういう話はありましたが、業者の方ですかね。設置が終わって、もう引き上げたのでしょう。会社に連絡されてはどうですか?」


 西條の時よりも更に他人事で、相手にされなかった。食い下がろうとしたが、体調がよくなかったから思考が回らず、ここで家に帰ることにした。


「ごめんね、勝手に使ってる。あそこは独りじゃ……怖くて」


 私の財布から鍵を借りて、部屋を使っていたらしい。私を病院に連れて行ってから、康介の部屋に戻っていないと片瀬は言っていた。


 醤油しょうゆの甘い匂いがする。


 どんぶりがなかったから、パスタ用の皿に親子丼を入れて、片瀬が私の正面に座った。食欲をそそるキツネ色に、私はすぐに箸を伸ばした。「美味しい?」と片瀬が聞いて、私は口を抑えながら「美味しい」と返した。親子丼を食べ終わるまでは、私も、片瀬も、難しいことは話さなかった。


「寒いね……」


 私が洗い物をしている間に、もう体が冷えたのか、彼女はテーブルに座って毛布を被っている。私はコーンスープを用意して、彼女は窓の外を見ながら飲んだ。


 今日こそ、これからのことを話し合わなければならない。


 私はこの町を――本音ではここから去りたいが、康介を探して、奈々を、伯父を、西條のことを解明しなければならない。しかし片瀬を、こんな物騒な所に置いておくわけにはいかない。今までは私の風邪を言い訳にしてきた。彼女だけでも、この町から離れるべきだ。


「……服の替え……買ってきたから」


 さっきの紙袋を思い出した。私がさとすよりも先に、彼女は答えを用意していた。


「片瀬までここにいたら危ない。また、事件に巻き込まれるかもしれない」


「それは聖ちゃんも一緒じゃない?」


「そうだけど……康介を探さないとだし、他にもやることがある」


「私だって康ちゃんを……あんなことになって、罪悪感が」


「片瀬のせいじゃない。康介のことは任せてくれればいい。何か分かったら連絡する。だから明日か、明後日には家に帰れって」


「……そんなこと、言われても」


 片瀬は視線を落とした。


「聖ちゃんが、連れて行ってくれるの?」


「連れて行くって……何処に?」


 こんな町でも、ここが私の故郷だ。都会暮らしを捨てて帰ってきた場所だから、行くアテが他にない。片瀬は片瀬で、ここに来る前に仕事を辞めたと言っていた。仕事が見つかるまで、彼女だけで一人暮らしは厳しいのかもしれない。


「実家は?」


「親と……仲悪いから。もう連絡してない」


「友達は?」


「友達って……この歳で女同士で同棲なんてできないよ。結婚もしてるし」


「まいったな。貯金は……多少なら貸せるけど」


「お金は、私も少しはあるよ。でもね、そういう問題じゃなくて……」


 片瀬が私を見つめる。寂しそうな上目遣いにドキッとしたが、彼女の意図が理解できなくて、戸惑った。


「康ちゃんのことを……聖ちゃんだけに押し付けて、それで私だけがここを離れるのは……」


 片瀬としても、康介の安否が気になるのだろう。恋人だから当然だが、康介から気が離れているようなことを言っていたから、今回の件を、最終的にどう考えているのかは分からなかった。それが、まだ諦めてないとの彼女の言葉を聞いて安心した。


「それに……私……聖ちゃんが思っているような……」


 片瀬の肩が沈む。何か言いたそうにしているが、「ううん……いいの」と自分から続きを切った。


「とにかく、私はしばらく、ここにいるから。ねえ、いいでしょう?」


 こう彼女に言われると、断ることはできない。断る理由もない。本音では、まだ片瀬と居たい。そういう自分が下劣であるように思えてくる。


「とりあえず、どうしよっか? これから一緒に探るとして、何から手を付ける?」


「そうだな……」


 雰囲気が探偵話に切り替わって、自責の念が消えた。風邪で停滞していた脳を回して、頭の中で今までの流れを整理して、


「あの映像を警察に見せれば、さすがに無視できないかも」


「……ああ! 防犯カメラの」


 片瀬は声を張り上げたが、例の場面を思い出したのか、表情が曇った。


「あれから、康介の部屋には?」


「いってない。だって、怖いから」


「パソコンに保存されているかもしれない」


「聖ちゃんが連れて行ってくれるなら……私も行くよ」


 さすがに雪道での運転は危ないから、バスで康介のマンションまで向かった。香守町は雪国らしく、こんな日でも平然と、時間通りにバスが来る。咲花区で降りて、しばらく二人で歩いて、片瀬はブーツを履いていたが、靴裏の滑り止めが少ないから、転びそうになっていた。私は彼女の手を取って、手袋越しではあるものの、やけに緊張した。手袋の中で、手汗をかいている感覚がした。この時、初めて私と片瀬は手を繋いだ。


「ねえ、あれって……」


 康介のマンションの駐車場で、片瀬が見上げている。


「カーテン、閉めていたと思うけど」


 リビングのカーテンは緑色だったのを覚えている。カーテンが見当たらない。開いているというより、窓にカーテンがないように見えた。


「思い違いだろう」


 あの日、片瀬は怖がってカーテンを閉めていたように思う。妙な胸騒ぎを覚えながら、エレベータに乗って、五階で降りた。廊下は冷えていて、薄暗い。雪で外が暗いせいもあるが、電灯の一部が消えている。


「何……だ、これは」


 康介の部屋の前で、まさかと、自分の目を疑った。


 玄関ドアが、ひしゃげている。


 ドアノブが外れて、扉は大きくへこみ、ハンマーで叩かれたように変形している。ドアは少し開いているから、鍵は掛かっていない。誰かが強引に侵入したのは明白だった。


「どうしよう……」


 合鍵を持つ片瀬の手が震えている。私も、彼女も、まさかこんな異常事態が起きているとは予想していなかった。彼女にここに居るように言って、私は曲がっている扉をそっと開いた。


「……私も……行く」


 片瀬は屈んで、私の背中に両手を付けている。侵入者が今もいれば彼女の身に危険が迫るかもしれないが、彼女の勇気を無下にはできない。一緒に中に入ると、玄関の靴が乱れて、靴箱からも靴が外に投げ出されていた。廊下にはトイレットペーパーや洗剤が飛び散って、電灯が床に落ちて割れている。


「……誰かいるのか!」


 リビングに入って、敢えて、大きな声を出した。こっそり入っても既に足音で気付かれているだろうし、もし誰かがいれば、反応した音で居場所が分かると考えた。


 だが、音はしない。


 リビングのソファは横になって、テーブルは倒れて、キッチンの皿が割られている。カーペットは破られ、カーテンが窓から落ちて、まるで猛獣が暴れたかのように酷い有様だ。


「なに……これ……」


 片瀬がノートパソコンを手に持った。画面が割られて、キーボード―に穴が開いて内部構造がむき出しになっている。線がちぎられて、ハードディスクが割られている。その隣で、台からテレビが床に落ちていた。


「どういうこと!? いったい、誰が!」


「分からない……もしかして……あの女なのか」


 これが物盗りの仕業とは考えにくい。盗らずに壊してしまっては、意味がない。例の映像の恨みだとすれば、それで侵入したとすれば、合点がいくのではないか。


 私は、今日。


 ここに来るまで、風邪の熱が引いて、親子丼を食べて、片瀬としばらく暮らすことになって、どこか、浮かれていたように思う。決して、一連の不幸を忘れていたわけではないし、だからこそ、ここに来たのだが、これが私達が直面している現実であると、悲劇は続いているのだと、とにかく落ち着こうとして、部屋の中にも関わらず煙草に火を点けた。


「こんなの……飾ってたかな。私、こんな絵、知らないけど」


 片瀬がリビングの壁を見ている。目線の先に、額縁が並んでいる。これだけ物が散らかった部屋で、そこだけが不自然に整っている。下ばかりを見ていたから、気が付かなかった。手の届く位置にあったから、一つ、絵を壁から外した。額縁の裏には釘が何本も壁に刺さっていて、無秩序な打ち付け方に狂気を感じた。


蜘蛛くもの糸のような」


 真っ黒い背景に、真っ白な糸。


 この絵に、見覚えがある。


 そうだ、確か掃除の……叔母の家に手伝いに行った日に、頼まれて飾った絵に違いない。

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