3-7
夜の国道を、静かに突き抜けていく。
片瀬が運転して、私は助手席に座って、康介に電話を掛け続けていた。メッセージも送ったが、返信はない。片瀬は「きっと康ちゃんの携帯、調子、悪いんだよ」と言って、私は「そうだね」と答えた。お互いに不安を胸に押し込めて、黙って前だけを見つめていた。
ダッシュボードの時計は、十時を過ぎていた。
雨がフロントガラスに線を引いて、車のライトが道路の手前だけを明るく照らしている。対向車はいない。人も歩いていないが、駅前に近付くと、いくらか人が歩いていた。彼らは帰宅途中なのか、それとも、夜を意味もなく徘徊するつもりなのか。監視されているとの康介の話を聞いたばかりだから、どうにも見られている気がしてならない。
咲花区に入ると、再び、明りが消えた。片瀬は康介のマンションの駐車場で車を停めて、二人でエレベータに乗って、片瀬の合鍵で部屋に入った。
玄関が、真っ暗だ。
廊下も暗い。
康介は電気も点けずに、ずっと映像分析に夢中になっているのだろうか。
「康ちゃん、いるの!」
片瀬は廊下の電気を点けないまま、リビングへと走った。私も遅れてリビングに入ると、パソコンとテレビの光だけが青白く部屋を照らしている。
「……康ちゃん?」
パソコンの前には、誰も座っていない。
「おい、康介!」
リビングの電気を点けて、片瀬は寝室に向かった。私はキッチンを確認してから洗面所、それからトイレを探したが、康介はいない。それほど広い間取りではないから、ものの一分で捜索を終えると、二人でリビングに戻って、スマホをいじって、ほぼ同時に康介に電話を掛けた。
「ただいまお掛けになっている――」
お決まりのメッセージが繰り返されて、ここで初めて、胸中に押しとどめていた不安が現実であると実感した。
「携帯にも繋がらないって……」
片瀬は青ざめた表情で、涙目になって、両手で側頭部の髪を強く握っている。私は、「いったん、落ち着こう」と自分にも言い聞かせるように彼女をなだめて、テーブルに置いてある緑茶のペットボトルを手に取り、無意識に緑茶を飲んだ。
緑茶は半分ほど、残っている。少なくとも私と電話している時は、この部屋に居たのではないか。
「……警察に知らせた方がいいかな?」
異常事態ではあるが、たったの数時間、家にいないだけで捜索願いとは――子供ならまだしも、康介は三十にもなる大人だ。
「相手にされない気がする。それに……」
ここの警察はアテにならない。そればかりか、西條の一件からして信用もできない。
「携帯の電源が切れたまま、買い物に行っているのかもしれない」
あの奇妙な電話の後で
「お店……ほとんど閉まってるのに……駅前のコンビニ? さっき見てくれば良かったね。私、今から行ってくる」
「ちょっと待ってくれ」
私はリビングから出ようとする片瀬を止めた。
「コンビニなら……ここから分かる」
「……あっ」
テレビ画面には、今もリアルタイムに町の様子が映っている。つまりコンビニの映像に切り替えれば、康介がいるかが分かる。
「パスワードは?」
「AZUMI、1002のはず」
私は立ったままキーボードを操作した。デスクトップ画面には開かれたままのアプリの四角い枠があって、その中にたくさんの、小さな正方形が動いている。これら全てが、この町の防犯カメラの映像だ。以前に康介が操作しているのを見ていたから、縦長のボックスに移動させればテレビに映る仕組みだと理解している。
「……誰もいないね」
テレビ画面を見ながら、片瀬が言う。
「店員さんも、いない。康ちゃん、まだ着いていないのかな。それとも今から帰り?」
「他も見てみよう。闇雲に町中を捜索よりも、これで探した方が早い」
「……そうだね」
いくつかカメラを壊されたと聞いたが、それでも現存する映像は百を超えている。これだけの防犯カメラがあれば、康介を発見できそうだ。
康介の悪趣味がここで役に立った。
「康介を映っていたら、教えてくれ」
「分かった」
私がパソコンから映像を選定して、片瀬がチェックする。これが都会だったら人が多過ぎて絞り込めないが、ここは寂しい町だから、ほとんどが静止画のように変化がない。私は少しでも画面の中で動いている気配があれば、片っ端からテレビに映像を投げた。風に飛ばされたビニール袋だったり、野良猫だったり、人ですらないものばかりが続いたが、そのうちに徘徊する人、夜に奇行を繰り返している連中が映ったらしく、
「お爺さんが、ぐるぐる回って……」
「あの女の子、いつも何の絵を描いているんだろう」
などと、片瀬は心底、気味が悪そうにしながらも、それが康介でないかを必死に確認していた。
「ねぇ……ちょっと聖ちゃん!」
今までの沈んだトーンから、興奮気味に私を呼ぶ。
「あの母親がいる。ほら、子供と一緒に」
肩を叩かれてテレビを見ると、女と子供が手を繋いで歩いている。顔まではハッキリと見えないが、雰囲気と歩き方からして、あの時の女に間違いない。今日は白いコートを着ているせいか、薄暗い映像の中で女だけが浮き上がって見える。子供はブカブカのジャケットを羽織っている。雨が降っているはずだが、二人とも、傘を差してはいなかった。
「やだ……また、こっちを見てる」
母親と子供はカメラの真下で立ち止まって、こちらを見上げていた。あの晩のように女と子供と目が合って、気持ち悪くなってきた。
「カメラを壊す気か?」
「もしかして康ちゃん、この人を見て出て行ったとか?」
有り得る。仕事と趣味の邪魔をされてはたまらないと、憤って飛び出したのかもしれない。康介は夜だろうが、相手が変な奴だろうが、意に介さない。そういう勇気を持ち合わせている男だ。
「この女を追ってみよう。他にアテがないし」
「え〜、康ちゃんみたいなこと言って……でも、しょうがないか」
幸いなことに、女はカメラを壊すことなく、また、平然と歩きだした。このまま例の神社に行くようなら追跡をやめればいいし、もしも康介が女の前に現れたなら、彼の居場所が分かる。
女は坂を登って、明かりのない住宅街を抜けて、十字路を曲がった。十字路の真ん中にボールが一つだけ転がっていた。どこかの子供が持って帰るのを忘れて、そのうちにボールは車に跳ねられるだろうが、交通量が皆無だから、未だにそこに留まっている。
そこから銭湯を通り過ぎて、消防署の前を通った。
「……ねえ、これってさ」
片瀬の声は、微かに震えている。
「この近くを歩いてない?」
女は子供と手を繋いだまま、今にも崩れ落ちそうな木造アパートの前を過ぎた。確かに……このアパートには見覚えがあった。このマンションの前の道を曲がった、すぐ先だ。
「なんか……こっちに来てない?」
「……まさか」
否定しつつ、寒気がした。女は――何故か斜め上を見ながら歩いている。カメラを見ているのではなくて、進行方向の、その先を見上げている。
バタバタと片瀬が走り回った。リビングの電気を消して、他の部屋の電気も全て消して、それから窓際に立ってカーテンを閉めて、隙間から外を覗いた。
私はテレビを凝視した。
女が、角を曲がった。
そこで見えなくなったので、パソコンから別の映像を――マンションの前の、まっすぐに左右に突き抜ける道路に画面を切り替えた。やはりそこには女が映っていて、足を止めて、首をぐるぐると回している。
「やだ、やだ、こっちに来てるって!」
窓からも女が見えるらしい。今まではカメラ越しに、離れた場所での出来事だったが――それが今はすぐ近くの、直接、自分達の目で確認できるところにまで迫っている。
「前を通るだけかもしれない」
こう言いつつも、私は恐怖を感じていた。唇が震えているのが自分でも分かる。女はカメラの存在に気付いていて、カメラを壊して回っていて、急に康介がいなくなって、女の通る道が偶然、マンションの前だとは考えにくい。例の神社は、こっちとは真逆の方向だ。目的地は、やはりこのマンションではないか。
私はカメラの映像を切ろうか迷った。これ以上、相手を刺激するべきではないと考えた。だが、事の
しばらく無音が続いて、
「康ちゃん!?」
「康介!」
私と片瀬が、同時に声を上げた。斜め上からの映像で後ろ姿しか映っていないが、一人の男が女に向かって走っていく。
「康ちゃんが!」
黒板を引っ掻いたような金切り声で叫んだ。私はカーテンを大きく開けて窓の外を見た。階下に伸びる道の先では、康介がうつ伏せに倒れている。私は声にならない
子供が鋭利な、包丁のような刃物を持っている。
子供に後ろから不意打ちで刺されたのか、康介の倒れている場所に、じわじわと黒い水溜りが広がっていく。
「行こう!」
「ちょっと……待って! ……足……が!」
片瀬の両脚が震えて、まともに立てないらしい。彼女は前屈みに崩れ落ちて、再び立ち上ろうとするも、また、倒れてしまった。ここで片瀬を待っている
外に出ると、雨は、激しくなっていた。
道に
闇を振り切って、交差点の手前に着くと、そこに赤い湖ができていた。
康介も、女も、いない。
血の水溜りは無造作に広がって、一本の血の線が長く伸びていた。血の跡を辿ったが、雨で流れてしまったのか、途中で切れていた。
「あれから、どうなった!?」
片瀬に電話を掛けた。
彼女は泣いているようだった。
「……康ちゃんを……引きずって……」
「何処へ?」
「……アパートの敷地……そこから先は……分かんない。映って……なかった」
片瀬が言っているのは、私の右手に見える木造アパートだろう。災害に見舞われたかのように、アパートの原型をかろうじて留めている代物で、もはや廃屋と化している。
「康介を探してくる」
電話を切って、意を決してアパートの敷地に入った。
「康介! 何処にいる!」
呼びかけながら、康介を探した。ふいに女が、子供が襲ってはこないかと恐怖で震える足を、太ももを両手で叩きながら、崩れた家屋の中を探し回った。
だが、見つからない。
呼びかけにも応じない。
屋根に叩きつける激しい雨音が太鼓のように響いて、私の声をかき消そうとする。
――しずむ夕日は 沼地の底へ
何処からか、歌が聞こえる。雨の音に混ざって、ハッキリと耳に届く。女の声で、出どころを探ったが、そのうちに暗い空き地に出た。
――でんぐりがえり、でんぐりがえり
歌は、まだ聞こえる。
康介は、いない。
これは幻想なのか、現実なのか、分からなくなってくる。ポツンと私だけが立って、そこから意識が
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