3-6

 あの奇妙な夜から、わずが数日後のことだった。


 インターホンの音で、目が覚めた。


 真っ暗な部屋で、電気を点けて、時計を見たら夜の八時。どうやら夕方に寝落ちしてしまったようで、こんな時間に誰が――というほどに遅い時間でもないが、私の家まで訪問する人物は今まで皆無だったから、この時に初めて家のインターホンの音を知った。ブーと、雑音混じりの、動物の鳴き声のような鈍い音だった。ドアの向こうをのぞくと、外は雨らしく、髪を濡らした女が玄関戸の向こうに立っている。


「携帯に連絡したけど、出ないんだもん」


 立っているのは、片瀬だった。彼女からの着信に気が付かなかった。マナーモードにしたまま布団の中に埋もれているのだろう。ドアを開けると、片瀬は玄関に入ってきて、長い髪を片手でかき上げた。


「ちょっと、濡れちゃった」


「傘、持ってこなかったの?」


「車で来たから。これ、買ってきた。ね、昨日のドラマ、見た?」


 そう言って、コンビニの袋に入ったビールとスナック菓子を私に見せる。私はリビングのテーブルに彼女の土産を置いて、それから寝起きで息の匂いが気になったから歯を磨いた。片瀬は、「これから食べるのに、変なの」と笑っていた。


 片瀬とテーブルを挟んで座り、一時間ばかり、昨日のドラマの話で盛り上がった。悩み事でもあるのか、彼女は時折、黙っては、たわいのない話を繰り返した。酒がなくなって、つまみもなくなって、私が用意したコーンスープを飲んだら、やっと、


「今日も、喧嘩けんかしたの」


 寂しそうな横顔で理由を話し始めた。窓の外では暗い雨が続いてる。今夜は止みそうにない。


「最近ね、康ちゃん、変なの。私にちっとも構わないし……ううん、それは昔からだけど……あの部屋にいるのが怖くなっちゃって。康ちゃん、一日中、画面を消さないし、むしろ夜に躍起やっきになって監視して……夜中にトイレに起きると画面だけが光っていて、康ちゃんがブツブツ言っていて、なんか、怖いから」


「でも……今更……」


 康介の趣味は、片瀬だって前から知っているはず。夜中こそ監視が楽しいと、康介は昔から言っている。


「康ちゃんが一方的に覗き見しているだけなら……それはそれで呆れているけどさ。町の人が、学校帰りの子供も、おじいちゃんも、みんな、こっちを見ていて……カメラ越しに目が合うのがすごく気持ち悪い。そういうのが毎日続いて、ずっと監視されている気になってきて、もう耐えられない。気が変になりそう」


「なるほど……それで」


 私も実際に体験したから、片瀬の不安な気持ちはよく分かる。もっと遠い場所の、例えば外国でカメラ越しに目があっても何とも思わないが、同じ町の、近くに住んでいる見知らぬ他人と目が合うのは不気味だ。それが毎日のこととなれば、ノイローゼになってもおかしくはない。


 しかし、この町の住人は死人のような目をして、他人に無関心な人形のように振舞っているのに、


「どうして……カメラをそんなに気にするのかな」


「……康ちゃんが来たばっかりだって、みんな、知っているからじゃない? そんな人が防犯カメラを設置して回っていたら嫌な気になるだろうし……それで、ほら、例の女の人、いたじゃない?」


「例のって……あの神社の?」


 私の脳裏に、にらみ付ける女の形相が浮かんだ。


「……実はね、あの人、あれからも嫌がらせをしていて……康ちゃんが設置したカメラを壊して回っていて」


「……まさか……いや」


 あの女の異常さからして、十分に考えられる。わざわざ樹に登ってまでカメラを投げ捨てていた。さらにエスカレートして、神経質になって、町でカメラを見つけてははちの巣のように叩き落していてもおかしくはない。だが、康介の仕事は公共の依頼のはずで、つまりは警察に通報すれば、立場が悪くなるのは女のはずだ。


「どうして通報しない?」


「だって康ちゃん……明らかに許可されていない場所にまで設置しているから、あれじゃあ盗撮犯だって逆に逮捕されるかもだし……しかもね、ムキになって壊されたカメラを修理して、また、同じ場所に設置しているの。いつかあの女をとっちめてやるって、急に部屋から走って出て行ったりもするし」


 康介の悪癖がたたったようだ。康介が最初にカメラで監視した理由、実家の前にゴミを捨てられる話を思い出した。あの時は犯人を、母親の妹を捕まえるのに成功したようだが、いつも安全に事が運ぶとは限らない。


 片瀬を気の毒に思うのと同時に、康介も心配になってきた。


「私ね……こういう場所に来れば、のんびりできると思ってた。実際に、引っ越したばかりの頃は快適だったし、田舎だとお金はあんまりかからないから、スーパーとかでパートなんかして、それで若い人が来たって歓迎されるかなって」


「歓迎……されてはいると思うよ。女の人は、特に」


「だといいんだけど……康ちゃんがあんなことをしていたら、みんなに嫌われて追い出されちゃうかも。そうしたら引っ越せばいいけど……康ちゃん自身が変わってくれないと、私の悩みは何処へ行っても、ずっと解消されない。私ね、安定した収入もそうだけど、それよりも、静かに暮らしたくなって……今まで、いろいろあったから、その反動なのかな? 男の人ってガツガツしているだけじゃなくて、癒しが必要っていうか、こっちの話を聞いてくれる人がいいのかもって思ってきてさ。最近になって、本当にそう思うから……ねえ、聖ちゃん。聖ちゃんはさ、例の婚約した人が……不幸になったって言っていたけど……その人と、どれくらい、愛し合っていた?」


 片瀬は両手をテーブルの上に伸ばして、あごを手の甲の上に乗せている。防犯カメラの悩みから、恋愛相談になって、しかも私の話になって、すぐに返答が出てこなかった。


「まだ、その人を好きだったりする?」


「う~ん……付き合いは長くはなかった……でもやっぱり、引きずってはいるかな。しばらく、忘れられそうにない」


「……そうだよね。聖ちゃんって昔から、そういうところあるよね……ロマンチストっていうか……だけど、たまには積極的な行動って、必要だと思うけど」


「もっとガツガツしろってこと? それって……さっきの話を矛盾しているような」


「ずっと、じゃくなくて、たまに、でいいの。たまに、でいいから……さ……あ、ちなみに今日、泊まるつもりなんだけど」


「ここに? それは……まずいんじゃないの?」


「どうして?」


「どうしてって……康介と付き合ってるんだから」


「聖ちゃんとは友達だから問題ないと思うけど。それとも、そういうの、期待してるの?」


 片瀬は悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべて、シャツの胸元を、引っ張ってみせた。


「いやいや……康介が怒るぞ」


「怒ると思う? じゃあさ、もし、別れてたとしたら、どうする?」


「……そんな仮定の話をされても。今は友人の彼女で、だからこそ康介に配慮する必要がある」


「ふ~ん、そっか。配慮する、か。変わらないよね、そういうところ」


 片瀬は空っぽになったマグカップを私に見せた。「おかわり」と言っている。


 私はカップを受け取って、席を立つ。


 湯を沸かして、スープの素を入れて、片瀬が小声で、「つまんないんだから」と言っているのが聞こえた。


「どのみち、今は帰りたくない。だって、怖いし、気持ち悪いし。それともさっきの話を聞いても、私を追い出す?」


「そう言われると……まいったな」


 私は頭を抱えた。片瀬を泊めては康介に悪いが、片瀬をここで帰したら、片瀬が可哀そうだ。それこそ本当に彼女はノイローゼになってしまうかもしれない。


 ここは、康介とも話をする必要がありそうだ。


「……何か、声が聞こえなかったか?」


 リビングの隣の、和室のさらに奥から、人の声が聞こえた気がした。これはいつもの現象で気のせいだと思うが、人と会話している時は幻聴が聞こえにくいのが私の症状の特徴だった。


「スマホの動画じゃないの? 私、点けてるし」


「なんか違うような……それに、音が鳴ってなかった?」


「着信があったから。康ちゃんだけどね、さっきから無視してる」


「おいおい、無視はよくない……あ、こっちに掛かってきた」


 テーブルの上に置いてある私の携帯が、ガタガタと震えた。テーブルに振動が響くので、すぐに手に取った。


 予想通り、康介からの着信だ。


「いいよ、出なくて」


「どうせ康介とも話をしようと思ってた――ああ、康介か。実はな、片瀬がこっちに来ていて――」


「それは知ってる。アイツ、全然、出ないから」


「なんだ、ここに来るって知ってたのか。それなら話は早い」


「映ってたからな」


「……映ってた?」


 妙なことを言う。


「何が?」


「イッチの部屋の前だよ。アパートの廊下にカメラが付いてたろ。壊れていたが、それも修理しといた」


「……いつの間に。しかも、そっちで見れるようにしているのか」


「イッチが俺の部屋に来ても、自分のアパートを監視できるんだから便利だろ?」


 そのような必要性を感じないが、康介の感性では親切心らしい。


「そんなことより急ぎの用事がある。杏泉あずみを連れて、すぐにコッチに来い」


「今から? どうした?」


「監視されてる。前から気付いてはいたが、いい加減にしろって、我慢の限界さ。連中に見張られてる」


「まさか……例の、あの女が嫌がらせを? 放っておけばいいって」


「今は、俺じゃない、お前の方だぞ」


 話がよく、分からない。


「前に、声が聞こえると言っていたろ。幻聴もあるだろうが、おそらくその中に本物が混ざってる」


「……ねぇ、どういうこと?」


 携帯から声が漏れているから、片瀬にも聞こえている。彼女は眉間みけんしわを寄せていた。


杏泉あずみ、イッチを車に乗せて、いったん帰ってこい」


「なんで? 私、今日は帰らないって言ったよね」


「そういう問題じゃない。さっきから、お前らの隣にいるぞ」


「……誰が?」


「隣の部屋だって。四十くらいの男が、隣の部屋に入った。昨日は、婆さんだ。その前は、子供だった。なあ、イッチ、お前の隣の部屋、誰か住んでるのか?」


「いや……誰も借りていないと不動産屋が言っていた」


「そうだろう。なのに、入れ替わり、立ち替わり、人が入っているぞ。お前の部屋の隣に、い、い、とにかく早――」


 胸がざわついた。もしかすると、さっき聞こえた声は。


「……こっち……な、……あ? こい……お」


 電話の声が、康介の声が途切れた。電波が――よくないのだろうか。ざらざらと、雑音が混じっている。


「また……いい加減……もっと、抱いて……よ」


「……誰の声? 女がいるの?」


 片瀬の強めの口調で言う。確かに女の声に聞こえた。康介の声に混ざって、別の声が聞こえる。何を言っているのかは、分からないが。


「で、……ん……ぐ………り、イッチ、でん、ぐり」


「ちょっと!? 康ちゃん? 康ちゃん!」


 プッと、音声が切れて、


 ツー、ツー、と鳴っている。


 康介の身に起きたのだろうか。私と片瀬は顔を見合わせて――すぐに家を出る支度をした。

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