3-5
月が不気味なほどに、明るく照らす夜だった。
気が付けば、三日月は満月にまで成長していた。月の周期は何日だったか。私の知っている夜から、少なくとも二週間は経っている。冷えた夜の風がコートの
康介に呼ばれて、こんな夜更けに咲花区にまでやって来た。あれから康介と会うたびに、防犯カメラの話ばかりを聞かされた。見せたいものがあると言って、ついでに酒でも飲もうと呼ばれたのだが、彼は映像の分析に夢中になっているから、いつも私が康介の家にまで出向く必要がある。おかげで踏み入れるのに抵抗のあった咲花区が、今では近所のように感じられる。
それでも、さすがに夜更けに一人で
「悪いな、こんな時間に」
康介の部屋に入ると、暖房が効いていて、生活感のある明るさにホッとした。康介はパソコンを操作しながらテレビ画面を魅入っている。今日は有名なアニメ映画をやっているはずなのに、相変わらず映っているのは監視カメラの映像だけ。片瀬はリビングのテーブルに座って、一人でビールを飲んでいた。
「珍しいな、ワインを買ってくるなんて」
康介は私を一度も見ずに、ビニール袋の中身を当てた。
「私が頼んだの」
片瀬に渡すと、彼女は「ありがとう」と言った。それからテレビを見やって、「聖ちゃん、さっき、映ってた」と言った。
テレビには、十ばかりの、大小さまざまな映像が映し出されている。駅の方面はもちろん、咲花区の山側にまで範囲を広げたらしい。ある映像では、道の片側に電気の点いていない家屋が並んで、反対側には暗い森が続いている。別の映像では駐車場が映って、車が何台も並んでいる。
「また、カメラを増やしたのか?」
私は、康介の右側にビールを置いた。康介は「まあな」とだけ言って、マウスを離してからビールを飲み、すぐに、マウスをガリガリと動かした。
「誰も映っていないな」
「そう思うだろ?」
康介の声は弾んでいた。
「誰もいないように見えて、探せば、いたりするんだよ」
「……本当か?」
私は自分の部屋からここに来るまでに、香守町の北側から南の駅の方へ下って、コンビニに寄って、それから西の咲花区に来るまで誰とも
「今も、四人くらいはいて――」
康介はマウスをカチカチと鳴らした。私は切り替わったテレビの映像を凝視した。駅のバス停が映っていて、ベンチに老人が座っている。
「コンビニに居た客だな」
見覚えがある。両手で杖だけを突いて、他に荷物はない。コンビニで何も買わなかったらしい。
「バスを待っているのか」
「もうバスはない。この老人は夕方からずっと、こうしている。たまにふらっとコンビニに行って、バス停に戻って、それでまた、コンビニに行く」
「だとすれば……まあ……」
私は言葉を
「年寄りだけじゃない」
康介が映像を切り替えた。今度は公園で、小学生くらいの少年がブランコを揺らしている。自分は乗らずに、手で押して、ブラブラと揺れるのを見つめて、じっとしている。他には、誰もいない。友達と遊んでいるわけではない。
「……こんな時間に、子供か」
あまり良い印象を受けない。夜遅くに陽気に遊んでいても困るが、一人遊びをしている陰気さからして、もしかすると虐待でもされているのか。家にいたくないから、逃げてきたのかと勘繰ってしまう。
「通報した方がいいんじゃないか? 子供が一人でいるなんて危ない」
「……イッチは知らんだけで、この時間でも子供がフツーにウロウロしている。向こうの学校の校庭では女の子が二人、まだケンケンパをしている。ちなみにコイツは……母親の迎えを待っている。ほら、いつか幼稚園で手を繋いでいた母親がいたろ」
「ああ……あの時の。でも、前は昼だった。夜に公園に向かえに行くなんて……そういう教育方針なのか?」
「分からん。だから、今日こそ追跡する」
「本当、もう、うんざり」
片瀬が、言葉の通りに嫌気たっぷりに言った。赤ワインをグラスに注いで、もう一つのグラスにも注いで、「ね、聖ちゃん、こっち来て飲も?」と私を誘っている。
「そんなのは後でいいから」
行こうとすると、康介に袖を
「ワインなんて、いつだって飲める」
「あ~の~ね~、今日は映画を観ようって、気分転換しようって言ったでしょ! せっかく聖ちゃんだって来たのに、そんなの眺めてたって楽しくない。だいたい、本来の目的を忘れてない? 警察に頼まれたとか、仕事はどうしたの?」
「別に
康介がムッとした口調で、語気を強めた。
「カメラを設置するように会社から言われている」
「もう、終わってるでしょ」
「分析するのも仕事のうちだ。例の西條って男の件にしたって……この町の連中がどういう行動をしているのか、無関係じゃない。この母親だって、こんな時間まで子供を放っておいて、何考えてるんだか」
康介は画面を二つに割った。
左に公園の子供、右に母親を映されている。やがて二人は合流して、何かを話し合った様子はなく、手を繋いで、二人で歩きだした。
「それで、二人で何処へ行くの?」
片瀬がワインを持ったまま、こちらに来た。文句は言いつつも興味があるらしい。アニメ映画はもう終わるから、諦めて、感情を切り替えたのかもしれない。
「川に向かっているな。前も……そうだったか。この間はカメラがなかった。今度こそ家を突き止める」
母親と子供は、てっきり家に帰ると思っていたが、住宅地から離れていく。川沿いを歩いて、橋を渡って、静まり返ったシャッター街を抜けたら、郷土資料館が映った。
「おい、あの神社に向かってないか?」
母子は鳥居を潜って、石段を上っていく。そこは私が以前に
「まさか、ここにもカメラを? いつ、行った?」
「今週の頭だ。あれだけ話を聞かされて、行かない方が変だろ。妙な場所だったが……いったい誰が管理していて、どういう連中が参拝するのかと、三、四つくらい、樹の上に括り付けてきた」
「罰が当たると思うけど」
片瀬が言う。
「非科学的だ。こういう場所こそ犯罪が起きる。誰が通ったかを記録しておくのは悪いことじゃない」
「そんなこと言って、許可は取ったの?」
「……誰に話を付けるべきか分からなかった。誰かいたような気はしたが……お?」
康介が話を止めて、人差し指で、見ろ、と画面を示した。テレビに視線を戻すと、ちょうどカメラの真下で、母親と子供が石段で立ち止まって、こちらに背を向けていた。夜で、森の中だから、視界がとても暗いが、石段の脇に点々と
「何をしている?」
「……暗くてよく分かんない。何か触っているみたいだけど」
丸い、ごろごろした石の
「ひっ!」
片瀬が悲鳴を上げた。私も一歩、テレビから後ろに下がった。子供に言われて、母親がこっちを見上げている。ハッキリとは分からなかったが、二人と目が合ったような気がした。
「やだ、やだ! もしかして、バレたんじゃないの?」
「まさか」
康介の声は、動揺を隠しきれていなかった。
「夜だぞ。分かるもんか」
「夜だから、カメラがチカチカしていたら分かるんじゃないの?」
「分かったところで……何だってんだ。個人宅にもカメラなんて普通にある。神社にあっても問題ない」
「そうだけど……勝手に見られて、嫌な気になったのかも」
「殺人現場を見られたわけでもあるまいし」
康介はこう言ったが、カメラ越しとはいえ――いや、むしろカメラ越しだからこそ、他人と目が合ったのが気持ち悪い。心臓の鼓動が徐々に高鳴り、片瀬が持っているワインを、微かに震えているから、いつこぼすか分からない。そっと彼女から奪って、テレビ台の上に置いた。
しばらく、私達は、言葉を発さなかった。
視線も逸らさなかった。
黙って見つめて、その間、母子もカメラ越しに、ずっと私達を見上げていた。何かを探っているのか、こちらが覗いているはずなのに、覗かれている気がして、先に視線を逸らしたくなった。
「……もう、行くみたいだ」
母親と子供が、ふっと顔を背けて、視界から去った。同時に、私の肩の力が抜けた。「まあ、そんなもんだよな」と康介は付け足して、テレビ台の上のワインを手に取った。
「あんな所にカメラが、なんて気になっただけだ。見られて困るものでもない」
クルクルとワイングラスを回している。
「な? ドキドキして、楽しかっただろ? だからこそ、辞められない」
などと、病的な発言をする。怖い物見たさ、の心理だろうか。不気味な光景の後に安心が残るから、なるほど、康介はこういう感情の起伏を快楽にしているらしい。
「きゃあ!」
「うわ!」
片瀬が叫んで、それに釣られて、私も声を上げた。落ち着いたばかりだったから、唐突な大声に驚いた。
「何……何なの?」
片瀬が両手で口を押さえている。テレビを見れば、そこには女の顔が、ハッキリと映っていた。さっきとは違って、かなり近くで、画面の左右に髪が流れて、両目が大きく、真ん中に鼻があって、口までは映っていないが、つまり斜め下から、ぐわっと、カメラに顔を近付けている。
「このカメラ、樹の上なんでしょ!?」
「わざわざ登ったのか!?」
康介がワインをこぼした。フローリングの上の白いカーペットに血のようなシミが、じわっと広がった。
ガタガタと画面が揺れる。
自分の頭を拳でガツンと、何度も殴られている錯覚がして、それから地面に叩きつけられた。
視界が、斜め横になった。
石段の上にカメラが落ちたのか、子供の靴が映って、そこから視界が持ち上げられて、今度は子供の顔が映った。子供は口を動かして、何かをしゃべっている。やがて映像が上下左右にグルグルと回り、石段の下に投げられたらしく、視界が乱れて気持ち悪くなった。
横に灰色の線が走った。
ブツっと切れて、何も映らなくなった。
「……くそっ! 壊しやがった!」
康介は、恐怖を感じていたようだが、急に怒りが湧いたのか、拳を振り上げて悔しそうに強く握った。片瀬は私の肩を
私は真っ黒になった画面を見つめたまま、子供が何を言っていたのか、口の動きを思い出して、自分で再現してみた。
パパ、パパ。
こう言っていた気がする。
その後に、これは映ってはいなかったが、母親が「そこに、パパはいませんよ」と、私の耳のすぐ近くで声がした。
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