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 ――サルバメゾン鹿郷かごう、五〇五号室。


 康介は、咲花さきはな区にマンションを借りたらしい。奈々が亡くなって、医者の西條が事件を起こした近くだから、私としてはオススメしない。それでも康介は個人的な調査も含めて、西條が最後に引っ越した(といっても、勝手に無人の部屋に侵入していただけだが)場所に住むのは都合が良かった。


 香守町の空は、広い。


 咲花さきはな区の南側の住宅地は、開放的で、寒々しい虚無を感じる。田んぼや畑ばかりではないのに、なぜだろう。マンションが少ないせいもあるが……きっと、へいが低いせいだと思う。この町の住民はテリトリーを主張する気がないのか、塀のない家が多い。門を通らずとも、そのまま玄関のチャイムを鳴らすことができる。他人を受け入れる懐の深さなのかもしれないが、私はひねくれ者だから、ボランティア活動を強要されているような気がして、妙な一体感の押し付けに息苦しさを感じてしまう。


 康介が借りたマンションは住宅地から少し離れた場所の、広い敷地に建っていた。白と黒の洒落たデザインで、外観からして築十年も経っていない。マンションの正面口はオートロック、全体的に設備が新しい。マンションの近くには工場があるから、何処かの企業が社員用に建てたのかもしれない。今は、工場から稼働している音が聞こえない。生産活動を破棄して、不動産屋が安く買い取ったのだろう。


「いい所を借りたな」


「会社の金だから」


 康介の部屋は、二LDKに、ベランダまである立派な間取りだった。リビングには緑色のソファと、白いカーペット、丸型のダイニングテーブル。大きなテレビの横にはノートパソコンを載せたテーブルがあった。


「わざわざ揃えたのか?」


「まさか。レンタルだよ。トンネルの向こうからトラックで運んでもらった。こういうのも出張の特権で、そうじゃなきゃ、誰も遠い場所には行きたがらない。俺は独身だから気楽だし」


「同棲はしているけどな……あれ、そういえば片瀬は? 出掛けているのか?」


「シャワー、浴びてる。アイツ、昨日に酔っ払って、そのままソファで寝てたから」


「え、あ?」


 リビングの入り口から、声がした。片瀬が立っていて、もうシャワーから上がって、バスタオルで長い茶色の髪を覆っている。上半身は裸で、下半身は黒のショーツだけ。


「来てるなら教えてってば!」


 彼女は慌てて、奥へ引っ込んだ。


「インターホン、鳴らしたけど」


「聞こえなかったんだろ、シャワーで」


 自宅とはいえ、さすがに私の前では下着姿でウロウロできないらしい。久しぶりに見た彼女の裸は――水着姿しか見たことはないが、腰がくびれて、脚がスラリと伸びて、バランスの良い身体だった。康介は、もう見飽きたというように彼女の裸体には無関心だったが、私にとっては新鮮で、性的な色気もそうだが、人懐っこくて大胆な片瀬の気遣いと羞恥しゅうち心を垣間見た気がして、可笑しくなった。


「ね、ね」


 再び、片瀬がリビングの扉を、そっと開けた。胸から下をバスタオルで隠し、罰が悪そうにこちらをのぞいている。


「通るけど気にしないで」


 片瀬はリビングを抜けて、寝室へと入っていく。着替えを洗面所に置いておかなかったらしい。私は気にしないフリをして、コンビニで買ってきたホットコーヒーの缶を開けて、テーブルのイスに座った。康介は、「俺もコーヒー、飲むか」と言って、私がさっきコンビニで見たドリップコーヒーの箱を持ってきた。


 私達は引っ越しの話題を早々に切り上げて、本題へと――西條の事件について話し合った。私が彼と知り合った数ヶ月間のことを、かいつまんで話すと、康介は真剣な表情で聞いていた。


「……要するに、西條はと」


 康介は、コーヒーに口を付けた。もうカップから湯気は上っていない。


「頭脳明晰めいせきで、症状にも正面から向き合ってくれる、いい奴だった。それが急におかしくなった。私と同じように、声が聞こえるようになったと言っていた」


「感応症、だっけ? 他人と意識が共有する……村意識、みたいなやつかな。そのわりには、この町の連中は他人に無関心だけどな」


 康介は早くも、この町の異様さを感じ取っているらしい。


「防犯カメラの設置の件で警察署に行ったが――西條についても尋ねてみた。心中自殺ではなく、本当は殺人だったのではないかと探ってみた。だが、返事はYESでのNOでもなく、『報告の通りです』の繰り返しだ。まるで録音された言葉しか話さないロボットだ」


 想像はつく。この町では警察に限らず、病院や役所でも似たような対応に終始している。


「俺の友人に聞いた話なんだけどな」


 康介が言った。私は少し、前のめりになった。


「そいつは全国の自殺者や行方不明者を集計していて、この町からはいつも、数字の報告が一切、ないらしい。今回の件にしたって、こっちから質問して初めて判明したと。友人は、『事件を隠蔽いんぺいしている』とまでは言及しなかったが、少なくとも、ここの警察は敢えて、面倒事を放置しているんじゃないかって」


「追及されると何らかの不利益があるのか……いや」


 自分で言って、否定した。西條が自殺強要であれ殺人であれ、警察からすればどちらでも良い。単に動くのが面倒くさいだけだと思う。この町の住人は思考が停止しているから、率先して調査なんてしないのだろう。


「例の女看護師と交際してから、変になったと思うか?」


 康介が聞いた。私は、うなづいた。


「西條と最後に会った日、執拗しつように彼女の名前を呼んでいた。彼女は――どことなくネチッこいというか、束縛しそうな女ではあったし、これも主観だが、西條が彼女を思っていた素振りもあった気がする。彼女と婚約して、結婚が目前になって、拒絶したくなったのかも」


「それで、刺したと。だとすれば一方的な殺人だが……イッチの話を聞いていると、女には抵抗する素振りすらなかったと言うから……女は女で、心に闇を抱えていたのかもしれない。接しているうちに、ミイラ取りがミイラになったか」


「精神科医だから、プロなんだけどな」


 私は髪の毛をいた。西條は今までに、数多くの患者と接してきたはずだ。それが易々と、彼女の闇に取り込まれるとは思えない。


「例の風習?」


 康介がつぶやいた。私に何か言いたいことでもあるのか、自分の両手をさすって、眉毛を曇らせている。


「指……なんとか、と言ったか。いくら婚前契約とはいえ薬指を交換するなんて異常だ。正気を失ってもおかしくはない」


「……どうかな」


 私は首をひねった。


「相応の覚悟があってのことだろうし、物理的に……指を取り換えたくらいで脳にまで支障をきたすとは考えにくい。あれは……最後に見た西條の姿は心を病んだとか、そういう程度ではなく――」


 もっと、異常な、まるで、呪いのような。


、探しとんの?」


 康介が、口をパクパクと動かした。私はギョッとした。


「……どうした、急に?」


「そういう信仰があるって聞いたぜ」


「誰に?」


「町の連中さ。警察でも言っていたし、引っ越しの業者だって『ここ、出るらしいんですよ』なんてニタニタしながら言ってた。さっきもコンビニで買い物した時に、マダツネサマを探しているのか、なんて聞かれた。そういうのは、イッチの方が知ってるんじゃないのか?」


「知っているが……」


 あまりこういうオカルト的な信仰を、知人に話す気にはなれない。とはいえ知っているのなら、隠す必要もない。


「守り神としてまつっているらしい。この辺りに神社がある。御利益と言うより、呪われそうな場所だが」


「へえ、そいつは面白そうだ。今度、案内してくれよ」


 康介は軽いノリで――もっとも、数ヶ月前の私も、暇だから行ってみようという感覚だったから否定はできないが、さっきまでの真剣な表情から、いつもの康介の顔に戻っていた。


「それでな、イッチに見せたいものがあるんだ。ほら、もう一つの件で」


 爛々らんらんと目を輝かせて、康介はパソコンへと向かう。こういう時の康介は決まって、例の、覗き見趣味の話をする。


「早速、防犯カメラを設置した。このPCからリアルタイムで見れるようになっていて――今、テレビの画面に映す」


 康介は嬉しそうに、マウスをカチカチと鳴らした。

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