3-2

 成人式の三連休に、本当に康介達は香守町までやって来た。


 風の冷たい日で、朝から雪がちらついていた。駅の待合室は木造のガラス戸に囲まれて、壁沿いの長イスには糸が破れた青紫色の座布団が敷いてある。部屋の真ん中に灯油ストーブが置いてあるが、駅員がいないから私が操作しない限りは、火が点かない。何処に置いてあるかも分からない灯油を探すよりも、静かに稼働している自動販売機を頼りにした方が確実だった。


 暖かい『おしるこ』を半分ほど飲んだあたりで、


「勝手に入りますよ~!」


 改札から馴染みのある男の声がした。待合室を出て改札に向かうと、案の上、立っていたのは康介だった。黒いリュックサックを背負って、駅員室にちらちらとICカードを振っている。


「おう、イッチ、元気か? ちょっとほほふくれた?」


「運動不足と、寒さのせいかな」


 康介は私を『イッチ』と呼ぶ。聖一から取ったあだ名で、本人は意図していないらしいがネット掲示板のような呼び方にも聞こえる。初めは違和感があったが、今は慣れたから気にならない。康介は群青色のパーカーに、白のワイシャツにネクタイを締めている。パーカーには『SECURITY』と書かれている。警備員のコスプレのように見えるが、あれが仕事着なのかもしれない。


「リュックだけで来たのか?」


「郵送ってのがあるんだよ。明後日には届く。それまではこれで十分」


 康介は思ったよりも寒かったのか、濃い眉を寄せながらほほを引き締めていた。整えたこめかみに、後ろは首元まで髪が伸びている。馬面で、さわやかな外見だが、野生動物のような鋭さを秘めている。背が高くてせているから、お笑い芸人のツッコミ側にいそうだと昔から思う。


「私が運んでんのよ。こっちに入れてるんだから」


 後ろで、グリーンのスーツケースを転がしてるのは片瀬だった。黒のロングコートに黒のブーツ、肩から白いバックをかけて、こっちは如何にも都会の女性という服装だった。


「あ~、本当に懐かしいね! 聖ちゃんと会うのって、卒業旅行以来かな?」


 片瀬は茶色のポニーテルを揺らしながら私に近寄って、手袋を付けたまま、私の肩を横からポンポンと叩いた。それから、「こうして近くで見ると、いい感じになったね」と笑って言った。童顔で、猫目の彼女は、同じ年のはずなのに随分と年下のように思える。それでいて男を、私を軽くあしらってみせるのが、色恋沙汰では敵わないと私に感じさせた。


 康介もそうだが、片瀬は、


 本当に変わっていない。


 相変わらず紅い口紅が良く似合っている。髪を束ねているから白い、細い首筋に色気を感じる。ただ、彼女の左手の薬指には――指輪がめられていた。小さなダイヤがついて、康介に貰ったのだろうか、彼女は康介と付き合っているはずなのに、それを感じさせないように接してくる。そういうところに多少の嫌悪感を覚えつつも、どうしても彼女を嫌いにはなれない。むしろ、小悪魔的な要素に振り回されて、彼女にかれてしまう自分がいた。


「……駅前なのに、何にもないな」


「だから言ったろ」


 殺風景な駅のロータリーは、ちらつく雪で、よけいに寒く感じた。バス停があって、タクシー乗り場があって、決して田舎の駅ではないのだが、誰もいないせいで、まるで滅亡した世界に迷い込んだような気分にさせる。駅前の店はどれもシャッターが閉まって、空いているのは喫茶店と和菓子屋くらいだった。


 バスまでの待ち時間を、喫茶店で談笑して過ごすことにした。喫茶店には黒と茶色のシックな内装に、五、六人が囲んで座れる長テーブルとイスが四セットばかり。とても落ち着く雰囲気だから駅の方に用事があった際は、よく利用している。ただ、やっぱりここにも誰もいないので、


「無人なのか?」


「セルフサービスなんだよ」


 レンガ造りのカウンターには料金箱と、誰が用意しているのか分からないコーヒーと紅茶のポットに、清潔なカップが布の上に並んでいる。あくまで良心に任せた経営方針だ。康介はコーヒーと紅茶を一つずつ持っていった。コーヒーフレッシュも二つ、持っていった。ブラックは今でも飲まないらしい。昔は砂糖も入れていたはずだが、甘さは必要なくなったらしい。


「この店、タバコ、吸っていいかな」


「止めてよ、吸うなら外にして」


 片瀬が拒否している。私も吸うつもりだったから――カウンターの灰皿に伸ばしていた手を引っ込めた。そういえば片瀬は煙草が嫌いだったか。それでは康介との同棲は大変だろう。康介は冬でもベランダで吸っているのだろうか。


 この店は無人で、食べ物は売ってないから、私は事前にコンビニで買ったパンをレンジで温めた。バンズにホットチキンを挟む形式で、これがあれば駅前にバーガー屋がなくても困らない。


「これ、イケるな」


 康介は試したことがなかったらしい。これからは彼にとっても必須となるだろう。


 私達はしばらく昔話をして、それから互いの近況について報告し合った。私が体験した悲劇についても簡単に話をして、その間、二人は神妙な面持ちで聞いていたが、重たい空気を変えようとしたのか、康介が婚約指輪をプレゼントしたことを告げると、片瀬は微妙に渋い顔をした。


「考え中なの。だって、嫌じゃない? 和泉だから、結婚したら『和泉わいずみ杏泉あずみ』だなんて」


「コイツさ、しょーもない理由で悩んでるんだよ。せっかくプロポーズしたのに酷いもんさ」


「でも、何だかんだで結婚する気なんだろ?」


 片瀬は、私と同じように仕事を辞めたらしい。一時的とはいえ同棲している康介が引っ越すから、彼女も香守町まで付いてきたと。


「まあ、そうなんだけどね……プロポーズの台詞だってねぇ? 『永久就職させてやるから』って、そういう感性が古いっていうか。苗字だってさ、男はいいよね、馴染みのある名前を捨てることはないんだから」


「俺が逆の立場だったら気にしないけどな」


「こんなこと言うくせに、婿むこ養子は社会的な立場が〜とか言ってやらないんだから。あ、でも、聖ちゃんなら私の気持ち分かってくれるよね? だって、聖ちゃんも苗字変わってたし」


「ん?」


 私はコーヒーカップを置いた。何のことか、分からなかった。


「イッチの前の苗字って、なんだっけ? 今は長谷川で、その前は?」


「私、覚えてるよ。織戸おりどって言ってたよ。私ね~、携帯の番号登録、織戸聖一にしているんだ。だって、なんかカッコ良かったから」


織戸おりど……? あれ、そうだったか……」


 言われてみれば、そんな気がしてきた。旧姓は織戸で、今は長谷川。


「どうして変わったんだっけか?」


 自分の苗字なのに、経緯を思い出せない。


「お父さんが長谷川なんじゃない?」


 それなら、産まれた頃から長谷川になるべきだろう。伯父が長谷川だから、そっちの苗字になったのか。


「戸籍上は伯父の家に引き取られた形式になっているのかな。あんまりその辺、詳しく聞いてない」


「ほら、そんなもんさ、苗字なんて。だからお前も気にするな」


「それだけじゃないんだけどね。例の変態趣味、どーにかしてくれないと」


 変態趣味とは、康介の映像趣味のことを言っている。好きが高じて映像分析の仕事に就いているのだから、私としては、むしろうらやましい。好きなことを仕事にしてはならない、とよく言うが、好きで仕事している奴には勝てないと思う。


「警察にも分析結果を提供しているんだっけ?」


 以前に、康介がそんなことを言っていた。


「今回も、警察絡みでここに?」


「半分はそう。だから引っ越しの費用は回り回って、税金だな」


 康介は電話で、西條のことを話していた。警察関連ということは、おそらく……というより間違いなく、西條の事件が関与している。


「どうして、康介が西條のことを知っている?」


「たまたま聞いた。俺の仕事の一つに防犯カメラの映像分析があるんだが……映像が決め手となって逮捕に至ることはよくあって、その犯罪者が人里離れた場所に――例えば、こういう町に逃亡した際に、潜伏先を突き止めたりするのに利用されたりもする。でも、田舎になればなるほど防犯カメラが少ない。中には、全く設置されていない場所もある。この町は……そんなに山奥でもないのに、設置数がワーストに入っている」


「なるほど、設置数を増やそうとしているのか」


 人があまりいない町だから、監視の意味が薄いと思われたのかもしれない。


「リストを渡された時に、『ここで最近、心中事件があったそうですよ』と教えてくれた。どういう経緯の自殺だったのか、精神鑑定になりそうで、その調査依頼も兼ねている。西條がどういう男だったのか、ついでに聞いて欲しいとさ。さっき、西條とはよく散歩していたと言ってたが、後で詳しく教えてくれよ」


「……なんだって?」


 私の心が曇った。


「何て言った?」


「ん? 西條のことを教えてくれと」


「違う、その前だ」


「精神鑑定のくだりか? 女と自殺とはいえ、生き残った方は罪が問われるからな」


「西條が……自殺?」


 私は、確かに西條が美恵を刺したのを見た。それなのに、康介が聞いた話とは食い違っている。私はあの後……西條の自首に付き合って、警察で幾つか質問をされて、形式的な問答に終始していたが、西條が刺した、という証言は、私は途中から頭を抱えてうずくまっていたから、多分そうだと、曖昧あいまいに答えたのが影響したのだろうか。それとも、もしかすると、私が続きを見ていなかっただけで、


「指紋があったらしいぞ。女の指紋が柄に付いていたと」


 美恵が、自分でも刺していた?


 いや、柄に付いた指紋は彼女の薬指だろう。西條は美恵と指結びをしていたから、それで彼女の指紋が付いた。こんなこと、この町の風習を知らなくても西條の指を見ればすぐに分かる。それなのに、警察が気付かないはずがない。


 ――やがて私達も、同調させようとしている。


 西條の言葉を思い出した。


 理由は分からないが、もしかすると、この町の警察は、この町の住民は、全員で、私を奇怪な陰謀へと引き込もうとしているのかもしれない。


「あれ、あの人、まだいた」


 片瀬が窓の外を見ながら言った。ぞっとする考え事をしていたから、私の肩がビクッと反応した。


「誰かを待っているのかな。ほら、あそこに女の人がいるでしょ? 何かね、この寒いのに、ずっとあそこにいるんだよね」


 片瀬は私の正面に座っている。隣の康介は、「よく見えないな」と首を伸ばしている。私の後ろ側で見えないから、振り返って窓の外を見た。


「あ、目が合っちゃった。気まずっ」


 私が見つけるよりも先に、片瀬が「ごめん、見るの止めといて」と私の肩を叩いた。


「あんなに遠くから目が合うもんだね」


「お前、遠いのに、よく目が合ったって分かったな。和服なんて寒いし、店に入ればいいのに……俺が呼んでこようか?」


 康介が立ち上がった。


「止めてよ。余計なおせっかいでしょ」


「どんな女だった?」


「和服の、多分、美人さんで……なんかね、う~ん」


 片瀬は頬に手を当てて、考えていた。しばらく考えて、「分かんない」と言った。私は気持ちを落ち着けようと、コーヒーのおかわりを入れるために席を立った。カウンターのポットからコーヒーを注いで、そのついでに、もう一度、入り口の窓から外を探したが、女を見つけることはできなかった。


 ちらつく雪は、しばらく止みそうにない。


 私は無意識にコーヒーフレッシュを一つ、左手に持っていた。

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