第三章 防犯カメラ

3-1

 いつの間にか、年が明けていた。


 去年の年末をどう過ごしたのか、記憶がない。


 紅葉が散って、十二月になり、そこからどうして、何があったのかをあまり覚えていない。おそらく、何もなかったのだと思う。これは記憶喪失ではなくて、無為な時間の中で、さらに断片的な時間だけを食べて過ごしたせいだ。


 秋に、婚約者の奈々が死んだ。


 それから親族で唯一、私の味方だった伯父が行方不明になった。


 新しく心の支えとなってくれそうな、医者の西條は警察に連行された。


 立て続けに起こった悲劇に、私は情けないことに、ただ悲観して、途方に暮れてばかりいた。無気力になり、体が重たくなり、本当にうつ病になったのかもしれない。ずっと部屋で寝てばかりいたが、その間も、声だけは聞こえていた。


 ひそひそ、がやがやと、私の耳を、いつも不快に突いてくる。


「おせち、用意してたんよ」


 年が明けて、久しぶりに本物の声を聞いた。叔母の文句はもっともで、わざわざ作ってくれたのに年始の挨拶にも行かずに申し訳ない。だが、どうにも叔母に会う気がしなかった。叔母との何気ない会話は――最近の出来事や、社会情勢など、そういった日常の会話は問題ないが、根底のところで、叔母は私にマダツネ信仰を植え付けようとしている気がしてならない。


 この町には、私の味方がいない。


 せめて、母がいてくれたら、どうだったか。


 せめて、母が――


 こう考えて、最近、私は例の写真を眺めるようになった。伯父と、叔母と、母が三人で映っている写真。母の顔は相変わらず隠されているが、どことなく家族としての温かみを感じる。きっと母は、私の味方になってくれたに違いない。


 ――無理して帰ってこんでええよ。


 本来であれば、たまには顔を見せなさいと言うところを、むしろ私を遠ざけていた。これは私を拒否していたのではなくて、この場所が私にとって良くない場所だと母は知っていたから、帰らせないようにしていたのではないか。


 私は一度、この町を捨てた。


 もう一度、捨てても良かったが。


 私は私で、世間から捨てられた存在だから、他に頼る場所がなかった。この町では過疎対策の一環なのか、新参者には生活の援助までしてくれる。そういう優しい配慮があっても、ここは息が詰まる。だからこうして、生けるしかばねとなって、無為な時間をむさぼっている。


 私は奈々を、きっと、愛していた。


 私は伯父が、好きだった。


 西條は年上だが、この町での話相手になってくれそうだった。


 ここで手に入れて、それを奪ったこの町が憎らしい。それを負け犬のように、ただ手をこまねいて不幸を嘆いている。


 ――聖一さんが、良かったら。


 左手の薬指をさすると、彼女の言葉を思い出す。奈々は、こんな奇妙な風習を、指を切る痛みを甘受してまで情けない私を受け入れる覚悟を決めた。私も男だ、彼女の想いに応えなければならない。年が明けて、気持ちが切り替わって、やっと行動を起こす気力が戻ってきた。


「おう、元気か? 最近、どうしてる?」


 もう一つ、復調のキッカケが舞い込んだ。


 電話をくれたのは、和泉康介(わいずみ・こうすけ)だった。大学時代の友人で、社会人になってからは疎遠になっていたが、去年の春に久しぶりに連絡を取り合った際に私が会社を辞めると知って、そのうちに香守町を訪れると言っていた。


「約束したろう、そっちに行くって。数ヶ月くらいは滞在するつもりだ」


「そんなに長く? まさか、お前も仕事を辞めたのか?」


「バカ言え。仕事も関係している」


「ああ……例の、映像の」


 彼は大学時代に、私と同じ映像研究科に所属していた。私は映像とは無縁の仕事を選んだが(元々、映像研に入ったのは康介の強引な誘いだった)、康介はそのまま、映像を分析する仕事に就いたのだとか。


「盗撮でもするつもりか」


「バカ言えよ。って、それもあるけどな」


 康介は笑って言う。これは冗談ではなくて、彼は映像好きがたたって、監視カメラ映像を眺めることを趣味としている変わり者だ。


 もっとも、私も他人の事は言えないが。


「これも貴重なデータ収集さ、趣味だけじゃない。それで、来週末にはそっちに行くから」


「……えらい急だな。部屋はどうするんだ?」


「すぐに入居できるって言うんでな。俺も来月の頭になると思っていたが……どうもそっちでは……いや、これは後で話そうか、長くなりそうだ。で、もう一つ、知らせがあって、今、代わ――」


「やっほ!」


 康介の言葉と入れ替わりに、女の声が飛び込んだ。電話を代わった相手は、もっと久しぶりの相手だった。


「私だよ。って、声だけだと分かんなかったりする?」


「分かるよ、片瀬だろ。そうか、お前ら、まだ付き合ってるのか」


 彼女も――片瀬杏泉(かたせ・あずみ)も同じ映像研で、卒業後に康介と付き合ったと聞いた。それ以来、彼女とは会っていないが、快活な声からしてノーテンキな性格は変わってなさそうだ。


「腐れ縁だけどね~。ねえねえ、私もそっちに行くからね。康ちゃんと一緒に、しばらく滞在するつもり」


「え、仕事は?」


「いいの、いいの。いろいろと面倒くさくなっちゃって。そういうのもろもろ、そっちで話しようよ。だって、お互いに積もる話があるでしょ? ま、私の方は何もないんだけどね~、あれから聖ちゃんさ、彼女いたりしたんでしょ? どういう恋愛したのか、詳しく聞かせてよ」


 止まっていた私の心臓が、ほんの少し、暖かくなった。昔から片瀬のこういうところは私を困らせるが、悪い気はしない。


「彼女もいたけど、実はさ、婚約者が――」


 彼女の陽気に当てられたのか、ここまで言って、ハッとした。本来であれば婚約者の話題は目出度いことだが、私の場合は、そうではない。あの奈々の末路は、その後に起きた数々の悲劇は、決して愉快な話題ではない。


「え、婚約者!? うっそ、ビックリ!」


 案の上、彼女は喰い付いてきた。


「ね、ね、聖ちゃんがさ、結婚するんだって! もう、嘘じゃないってば、本人が言ってるんだから……え~、そっか~、聖ちゃんも結婚か~、マジか~」


「……もって、片瀬も結婚するのか?」


「……ん? まあ、そうね。そういう感じではあるけど……ん~、それはちょっと後でね。で、で、どんな子なの?」


「あ~」


 私は右手で額を抑えた。ここで正直になんて話せば、さらに電話が長くなりそうだ。


「すまん、ちょっと康介に代わってくれ」


「え~、なになに? 男だけのナイショ話? そういうの、私を除けものにするんだから――あ、ちょっと、勝手に」


「おう、どうした?」


「……いや、実はさ。いろいろ話したいことはあるんだけど、とりあえず、こっちに来るのは止めた方がいいと思って」


 自分でも分かる。さっきまでと比べて、私の声のトーンは明らかに沈んでいた。


「……どうした、急に?」


「いや……つまらない場所だから。こんな辺鄙へんぴな所で会うこともない。もうちょっと、都会寄りにしないか?」


「観光って、そういうもんだろ? 人が多いのはこっちで間に合ってる、たまには自然と触れ合うのもいいもんさ。それに、これは仕事でもあるから」


「そっか……仕事か。それなら、仕方ない……か」


「……その様子だと……やっぱり知ってるんだな。ほら、そっちの病院で、精神科の先生に何かあったろ? 西條……といったか」


 私の呼吸が、止まった。まさか、康介の口から西條の名前が出るとは。西條の、最後に笑った顔を思い出して、胃のあたりがキリキリと痛くなる。唐突に崖から落とされた気分になった。


「……どうして知ってる?」


「言ったろ、仕事だって。香守町だって聞いて、お前が言ってた場所と同じなんじゃないかって……それで急いで手配したのもあるし、その件で聞きたいこともあるけど、まあ、そっちは本職じゃない。とりあえず、何かあったのは知ってるし、だから気にするな。不便な場所といっても、コンビニくらいはあるんだろ? 酒でも飲んで、昔話でもしよう」

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