2-6

「ごめんなさいねぇ。先生、今日も休みなの」

「そうですか……」


 ここのところ、西條の欠勤が続いている。個人経営の医者は総合病院に吸収されているから、この町の精神科医は彼だけ。西條がいなくては診察が成り立たない。過疎地域の弱点が露呈された。


 彼は休日になると、私を散歩に誘ってくれた。最初は診察後の昼食で、近くのレストランでたわいのない会話に終始したが、彼は町の地理を、歴史を調べたいと、二人で空白の地図を埋めるように町を散策した。郷土資料館はいつも通りに閉まっていたから、図書館へ行って、小学校の資料室にも立ち入って、例の温泉地や茶屋町、それから工場跡や、移転後に放置されたままになっている市民館など。


「例の神社、よかったですよ、雰囲気がいい感じに不気味で。え、和服の女性? 見たような、見なかったような」


 最後に西條と会った時、あの神社を訪れたと言っていた。それからだろうか、彼が病院に顔を見せなくなったのは。一番、彼の安否を気にするべき立場にある病院の連中は相変わらずの他人事で、奈々の葬式にしても、伯父の行方にしても、この町の住人は他人を監視するくせに、他人の命に興味がない。


 いよいよ、私は彼を探すことにした。


 普通に考えれば、家にいる可能性が高い。以前に、彼が住んでいるマンションまで行ったことがある。場所は分かるが……部屋は何番だったか。彼に電話を掛けたが、やはり、出てくれなかった。ダメ元でメッセージを送ってみた。


 ――長谷川です。最近、病院に来ないようですが、どこにいますか? ただの体調不良ならいいのですが。


 午後になってから、返信があった。


 ――香守町・咲花さきはな区・御郷みごうの四七。八号練、三の階。九。


 暗号のようにして、居場所を伝えてきた。私が知っている彼の家とは住所が違っている。引っ越しでもしたのだろうか。ただ、咲花さきはな区というのは――


 例のまつっている神社がある地区で、また、奈々が自殺した咲花さきはなの湖がある。あそこは、どうも苦手だ。できれば立ち寄りたくはないが、私の憂鬱ゆううつよりも、今は彼の安否確認を優先すべきだ。


 私は急ぎ、咲花さきはな区を目指した。


 バスを降りて、ガードレールのないコンクリート道路を独りで歩いた。彼が指定した場所に着くと、そこは団地で、灰色に曇った空の下に寒々しい白い壁が高く、ひっそりと並んでいた。


 黄色の野きくや、白いシロツメクサが咲いている。


 風が吹いて、野花が揺れて、目線の上でパタパタと、何かが視界に入った。


 茶色の浴衣だった。


 マンションの真ん中あたりの階の窓に、浴衣がぶら下がっている。あの浴衣は――例の廃旅館で見た気がする。隣の部屋の朱色の浴衣にも見覚えがある。下から数えて、ちょうど三階。マンションの壁にうっすらと『八』と書いてあるから、あそこが西條の部屋だろう。


 八号練のマンションに入った。


 団地のマンションの階段は、灰色のコンクリートに黒い炭のような液体が垂れて、それが人の顔のように思えた。緑色ががれた玄関扉も、ひどく歪んでいたり、開いたままだったり、どの部屋も人が住んでいないらしい。なぜ西條は、こんな汚れたマンションに引っ越したのだろうか。私は部屋番号の九を探して、そこの玄関扉も大きなハンマーで殴られたかのように、ぐにゃりと曲がっているのには驚いた。


「……美恵君か」


 西條は和室の、部屋の隅に座っていた。壁の方を向いて、私に背を向けている。壁の隅に顔を向けているのは、明らかに常軌じょうきいっしていた。


「いや、長谷川ですよ。さっきメールした」


「ああ……長谷川さん」


 西條が座ったまま振り返って、弱々しく、微笑んだ。彼の顔は――私が知っているあの快活で、頭脳明晰めいせきで、二枚目の、頼れる男ではなかった。ほほがこけて、目の下がくぼんで、くせ毛の髪も無造作に荒れて、それなのに医者の白衣だけはしっかりと着ている。部屋で白衣を着ているのは、むしろ異常だ。


「症状は、どうですか? 先週からお変わりありませんか?」


「先週から?」


 どうやら診察だと、勘違いしているらしい。


「先週どころか、もう二週間も連絡がないじゃないですか。いったいどうしたんです? 体調が悪そうですが」


「なるほど。陰性症状の現れですね、薬を出しましょう」


 西條は立ち上がって、鞄をまさぐっている。


「どうぞ」


 フラフラと近寄って、私に差し出したのは。


 ボールペンだった。


 ――湯の花、くぐもり


「これは、あの旅館の?」


「……これ、欲しいのかなと……」


 西條の口が、パクパクと動いている。まるで腹話術の人形のようだ。


「先生、しっかりしてくださいよ!」


 胃酸が逆流してくる感覚を抑えて、彼を正気に戻そうと体を揺すった。西條の首が上下に振り子のように揺れて、白衣のえりが乱れた。


「いや、失礼」


 やっとまともな声が聞けて、今度は私の力が抜けた。この冷静なトーンは、いつもの彼の声だ。


「どうも……頭に響いて……ほら、例の」


「声ですか? まさか、感応症?」


「そうそう……いえ、感応症とは違いますが、声が脳の中でボールのように木霊こだまして……それで、美恵君はどうして、毎日、ここに――」


「だから美恵じゃないですって、長谷川ですよ」


「ああ、長谷川さんでしたか……それで、あれから症状は、どうですか? 先週からお変わりありませんか?」


 私の両腕に、鳥肌が立った。


 彼をこの部屋に居させてはならないと、肩に手を回して、ズルズルと二人で外へ出た。


 一階まで降りて、マンションの外に出ると、西條の顔色が少しだけ、良くなったように見えた。


「いやぁ、まいってしまって……」


「分かりますよ」


 二人で外の空気を吸うと、少しずつ、会話が成立するようになってきた。


「長谷川さんが言っていたように、声が……何処へ行っても付いてくるから」


「逃げようとして、引っ越ししたんですか?」


「ええ、寝る部屋を変えて。昨日は五階。その前は、六号練にいました」


「……私も昔は、そうでした」


 これでは、どちらが医者か分からない。私の症状を緩和してもらうはずが、今では西條の方が酷くなっている。それも、急激に変化している。いったい何があったのだろうか。まさか、あの神社が関連しているのだろうか。そんな馬鹿げた迷信は……私は信じていない。それとも、本当に、きとやらが。


 ――子供は眠れ。


 歌が聞こえた。


 西條ではない。


 ゆったりとした若い女性の歌声で、風に乗って遠くから聞こえた気がしたが、首を回せば、存外に近くで歌っていた。


 団地のマンションとマンションの間、ジャングルジムなどの遊具が置いてある広場に、二人の女学生が立っている。黒髪の、制服姿の女学生がお互いの両手を繋いで、手を上下に揺らしながらクルクルと回って、歌っている。


 羽音は聞こえず 綿は濡れる

 知るは百経、知らぬは千人

 達者で暮らせ 野山の紫雨

 お祈り申せば 輪廻の巡り

 子供は眠れ

 子供は眠れ


 この町で、久しぶりに出会った若い人だと喜ぶ気持ちよりも、どうしてこんな所で歌って、それに彼女達の声が、やけにハッキリと耳に響いて、あれは邪魔をしてはならない、触れてはならない存在のように感じた。


 彼女達は同じ歌を繰り返しながら、ぐるぐると周り続けている。私達に気付いていないのかと思いきや、急にピタッと足を止めて、こちらに駆け寄ってきた。


「先生ぇ!」


 二人の女学生が声をそろえる。


「先生ぇ、こんな所にいた!」


「あの……君達は?」


 私の質問を無視して、二人は西條の腕に、それぞれ左右からしがみついた。


「昼間は、ちっとも相手にしてくれないんだもの」

「だけど、夜になったら、ね?」


「これは……どういう」


 訳が分からない。もしかして、西條は女好きだから性欲を持て余して、未成年と関係を?


 いや、それにしては、西條の彼女達に対する反応が異様だった。西條は私を振りほどいて、髪をきむしって、うめいている。


「先生ぇったら、本当に、エッチ」

「こういうの、好きなんだから」


 でもね。


 それでも、


 愛している。


 愛しているから。


「あの、女、は……いつ、も! からみついて、え!」


 西條が叫んで、マンションの階段を駆け上った。


「先生、どうしたんですか!」


 私は自分の心臓が、左胸が鼓動で痛くなるのをこらえて、西條を追いかけた。西條はもの凄い速さで階段を飛ばしながら上って、さっき西條を連れ出した部屋にまで戻っていく。


 私が息を切らしながら扉の前に立てば……いや、ここはさっきの部屋ではなかった。隣の部屋に入ったようだ。


「美恵君か、やっぱり!」


 私が遅れて部屋に入ると、興奮して息を荒げている西條と、部屋の真ん中で横たわっている女がいた。仰向けに倒れている女は、茶色の髪を畳に色っぽく流して、肩から胸までを露わにして、ひざの下までピンクの下着が脱がされて、まるで衣服を着たまま行為をした直後のような、あまりに病的なエロスを思わせる外見に最初は分からなかったが、確かにあの精神科の看護師に違いなかった。


「先生……ぇ……来て……くれた」


 美恵は自分の左手の指を口に入れて、舌でめ回している。私は――どうして気が付かなかったのだろう! 美恵の指は曲がっていて、それは西條も同じで、二人は既に、薬指を切断してい合わせていた。


「嬉しい……先生ぇ」


「私もだ、美恵君」


 西條は美恵に近付いて、上から人形を抱きかかえるようにして、首の後ろに左腕を回した。それに応えるように美恵も西條の首に両手を回したが、その瞬間に――


 ずぶりと、鈍い、服の破れる音がして、


 血が吹いた。


 西條は右手に包丁を持って、美恵の胸に突き刺していた。


「先生ぇったら……いやらしい……こういうの……好きなんだから……それでも」


 愛している。


 愛しているわ。


 私の頭にまで、女の声が響く。


 私はひどい眩暈めまいがして、ぐるぐると脳を揺らす渦に耐え切れなくなって、その場で屈んで頭を抱えた。その間も、ずっと、西條は何度も、美恵を刺していることだけは不快な音から伝わった。


 先生……


 ぇ……


 やがて、脳に響いていた女の声が止んだ。


 私は汗だくになっていて、シャツは既に冷えていた。顔を上げると、白衣を血に染めた西條が背筋を伸ばして立っている。まるでき物が取れたかのように、長年の病魔から解放されたように、清々しくて、爽やかな表情をしていた。


 美恵の胸には、包丁が突き刺さったまま。


「長谷川さん」


 血にれた笑顔で、西條が言う。


「思い切って薬をやめてみましょう――過去を断ち切りましょう」

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