2-5

 旅館から出て、坂を下ると、だんだんと呼吸が楽になってきた。西條は旅館での出来事を、あまり深くは聞いてこなかった。思い出させては、また、症状が再発すると考えたのだろう。いつにも増して動悸どうきが激しくて苦しかったから、彼の配慮が有難い。


 坂の下は路地なっていて、ぎりぎり二人が通れるくらいの幅の道の両脇を、古めかしい家屋が埋めていた。長年、煙でいぶされたかのようにすすけた木造家屋の二階にはすだれが掛かり、玄関には『ひな菊』や『ゆめ花』などと墨で書かれた木札が垂れ下がっている。ここは茶屋だったのだろう。いくら廃業したとはいえ名札を取り外さずに家を捨てるのは、よほどのことだと思う。


「色街だったのかも」


 西條が言う。そんなことを患者の一人から聞いた、と付け足した。


「温泉街の裏で、そういうのを斡旋あっせんするのは珍しくない」


「確かに」


 私はうなづく。


「それも今では高齢化、ですか」


「ここも犠牲になったんですよ、日本全体の景気と人口の衰退で、景気が悪いから地方まで金回りが悪くなって、こういう場所への需要が無くなるから仕事がなくて若者が去ってしまう。若者がいなければ、子供は増えない。そういう中でも、私や、長谷川さんのように都会から移り住む人が増えれば問題ないですが……そんな都合よくはいかないので、いっそのこと、人さらいでもして――」


「……え?」


 私の反応に、


「冗談ですよ」


 西條は笑った。彼は医者なのに、ブラックなジョークを平気で言う。


「私達のような健全な男性にとっては、こういう息抜きだって必要ですからねぇ。なのに、もうやっていないのは、とても残念」


 西條は玄関口をのぞいて、それから茶屋の名札をひっくり返した。モテる男は四十手前でも盛んなのだろう。そういえば、性に積極的な男がうつ病になっている印象があまりない。私はうつ病ではないようだが、さっきのように急に取り乱すのは精神的な疾患なのだから、私も性欲に積極的になるべきか。


「長谷川さんはどうしてこの町に戻ったんですか? 以前はここへ帰ろうとは考えなかったと言っていましたが、まだ、戻った理由を聞いていなかったので」


「……それが、私にもよく分からなくて。ずっと帰りたくないと、この町には近寄ってはならないと避けていたのが……数年くらい前だったか、母が亡くなったと聞かされたのをキッカケに、徐々に拒否反応が薄れたんです」


 路地を抜けると、広い道に出た。ガードレールのない道路が、ただひたすらに続いていた。私と西條は、どうせ車が来ないのを知っているから、道の真ん中を歩いた。


「それでも、ほら、こんな場所だから……抵抗がなくなったとはいえ、わざわざ帰ろうとはしなかったんですが、なぜか気持ちが反転して……今度は無性に帰りたくなってきたんですよ。もしかすると、ずっとこの町を夢に見ているせいなのかも」


「長年、拒絶してきた場所を夢に見るのは不思議です。そうなると……長谷川さんは、長谷川さんの脳は、本当は帰りたい、と訴えているのかも」


 脳、と言われて、西條の頭蓋骨ずがいこつの趣味を思い出した。自分の頭蓋骨に興味を持たれてはたまらないと、脳から話題を遠ざけようと思った。


「三十になったせいかもしれない。それに、同僚が田舎で楽しそうにやっていると聞いたから」


 今年の春に、私と同じ時期に転職した同僚が田舎に帰ってしまった。実家の近くに空いている家があるらしく、実家の畑を耕しながら結婚相手をのんびり探すと言っていた。数ヶ月後に連絡を取った時は、「き物が落ちたように、今は晴れ晴れとしている」と言っていた。陽気な声からして、嘘ではなさそうだった。


 私の場合は故郷に帰って、き物が落ちたどころか、一層にかれている気がする。ツネき、と言ったか。叔母の見解では、伯父はツネきになったらしい。そんな場所に長居すれば、私の精神が摩耗まもうするのも無理はない。なのに、それでも――


「決してここが良い場所だとは思わないんですけどね。それなのに、なぜが、私は、今もここにいる」


「……長谷川さんの症例ですけどね」


 雑談から私の病状へと話題が移って、私は西條の言葉に反応して彼の横顔を見た。西條は顔を前に向けたままで、どうやら道の先に止まっている黒い乗用車を見ているらしかった。


「感応症、というのを聞いたことがありますか?」


「感応症?」


 私はそのまま聞き返した。知らない、という返答にもなっている。


「他人と、感覚や思考を共有する症状です。双子、で想像すれば分かりやすいと思いますが、似た遺伝子を持ち、同じ環境で成長すれば、同じ思考を持っていても不自然ではないと」


 なるほど、双子なら、そうことがあるかもしれないと思いつつ、


「でも、遺伝子や環境なら、ただの兄弟でも同じなのでは?」


「兄弟で性格が似る、というのはあるでしょうが……感応症の場合は互いの妄想までもが一致するという、特異な症例なんです。例えば、これは海外の話ですが、双子の姉が高速道路で事故に合って、その直後に、妹が車の前に飛び出したケースがあります。これは姉妹で同じ妄想を共有した結果だと言われていて、こういうのは……あまり兄弟間では見られません。もちろん、一般的な双子でも見られませんが、私が言いたいのは、そういう症例がある、ということです」


「それが……私の症状?」


 私の質問に、西條はすぐには答えずに、黒の乗用車を通り過ぎるついでにチラッと見た。私もつられて車を見ると、運転席に老人の男が一人、スーツを着たままで座っている。煙草を吸うでもなく、本を読むでもなく、運転席から真っすぐに前だけを見て、座っている。


「……感応症を引き起こす特徴の一つに、外界から遮断しゃだんされている条件が考えられます。閉鎖空間にいると、ああいう風に思考が限定されるんですね」


「う~ん、どうも要点が分からない」


「……よく言われる話ですが、田舎は、都会に比べると閉鎖的だと感じませんか?」


「そりゃあ、まあ」


 そういうものだろう、と思う。理由まで考えたことはなかったが。


「都会では他人に無関心なのに、田舎ではすぐに噂話が共有されます。私があの病院に赴任したのを、この町の人のほとんどが知っています。これは動物の群れでも同じですが、狭いコミュニティにおいては、自分達の生活空間に他人が立ち入ると、それが敵であるかを見定めようとする傾向にあります。だから長谷川さんがここへ戻った時も、すぐに周りに知れ渡ったのではないですか?」


「あ~そうかもしれない。わりとすぐに、縁談が持ち掛けられました」


 都会だったら個人情報を流したのは不動産屋だと疑うところだが、私の場合は叔母だった。叔母を経由して、町の人に伝わったと。


「結婚適齢期の男性が来た、と思われたのでしょう。ちなみに私も、患者さんから孫娘との縁談を何度か持ち掛けられたりしています。つまり、私が言いたいのは、妄想とまでは言いませんが、この町の閉鎖的な環境が一種の感応症を引き起こしている、とは考えられませんか? 隔離された場所での風俗や風習、町の文化や価値観が共有されて、やがて私達も、同調させようとしている、と」


 背筋が、ぞっとした。


 この町で私が感じていた違和感を、彼が言い当てた。ずっと、あの白い影に監視されている気がしていたが、それは妄想世界だけではなくて、本当に監視されているのではないかと。


「いや……しかし……こういうのはここに限らない気が。だって田舎であれば……もっと人が少ない村とかに比べれば、一応、町ですから、まだマシなのでは」


「ごもっとも。ですが、ここは広いわりに人は少ない。私は以前からそういう研究をして……都会暮らし、田舎暮らしでは精神疾患の種類が違っていて、田舎特有の現象に興味を持って調べています。それで、いろんな場所を回って診察しているのです」


「なるほど。それで、この町の医者に」


「ここの患者と接していると、他とは違う傾向を感じています。それが何か、とまでは名言できませんが、例の風習が関係しているのではないかと……実は、最近、私も」


 ずっと前を向いて歩いていた西條が足を止めて、私を見た。


「声が、聞こえるんです。長谷川さんと同じように」


「……それって、他人の?」


「そうです。長谷川さんほど頻繁ではないですが。なんとなく、そんな気がするんです」


「先生ぇ〜!」


 女の声がして、ハッとした。私と西條が同時に振り返ると、手を振りながら、女が駆け寄って来る。


「やだもぉ、先生ったら。忘れてるんだから」


 よく見る顔だ。精神科の看護師で、いつも西條と一緒にいる。


「あ? ああ……美恵みえ君か」


 美恵と呼ばれた看護師は、隣にいる私を気にする様子もなく、西條の腕に自分の豊満ほうまんな胸をくっ付けた。この女はいつも、西條に対してこういう態度を取る。平然と人前で、しかも診察中ですら患者の前でイチャつく感性が私は苦手だ。今も私を非常に苛立たせているが、本来の私であれば所詮は他人事だからと、ここまで気にしなかったのに。


 なぜなのか、原因を考えてみると。


 私が男だから、そう感じているのだと自身への反省に繋がった。


 要するに、色っぽい女性が私を全く相手にせずに、もう一人の男にだけ関心を示していることに嫉妬して、また、せっかく彼との診察を、貴重な雑談の時間を奪われることに対して彼女を邪魔に感じているのだと。


「先生ぇ、私とのデートの時間なのに、すっぽかして」


「あれ、そうだったか……でも、昨日も一緒にいたろう」


「昨日は、昨日。今日は、今日。同姓だからって、邪魔するの、認めない~」


 どうやら、邪魔だと思っているのは彼女も一緒のようだ。とはいえ、デートと言われれば譲るべきだろう。ここは私が去るとして、それは構わない。構わないが――


 何かが、妙だ。


 西條も同じように感じているのか、彼女が走ってきた道路の向こうを黙って見つめていた。


 コンクリートの道は、ただ真っすぐに伸びている。私達はこの通りに出てから、一度も曲がらずに歩いてきた。


 ……この女、いつから後ろに付いてきた?


「じゃ、行きましょ? 先生っ」


 彼女は西條の腕をぐいぐいを引っ張って、元来た道へと引き返していく。


 私は西條に、右手で別れを告げた。


 少しずつ遠ざかる二人の背中を見送っていたら、二人は手を繋いだ。互いの薬指が蛇のように、ぐるぐると絡み合っている。


 この日を境に西條は少しずつ、やつれていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る