2-4
十一月が、深けた。
木々の葉が
カエデの葉が道路のそこかしこに積もっている。誰も掃除をしないから、もっぱら風に任せて、積もった落ち葉が渦を巻いて空に散っては、また、別の場所で山になる。
私は週に一度は、病院を訪れる。診察を繰り返すうちに医者の西條と親しくなり、最近では二人で町を散策するようになった。彼と話をしていると、誰かの声、が紛れる安心があったし、彼は彼で、一人で散策するよりも話し相手がいた方が楽しめると言っていた。彼とは相性が良い。西條は表向きは医者という成功者で、他人ともすぐに
「廃旅館、なんて言葉の響きだけで興奮しますね」
――湯の花・くぐもり
――旅館・香仙
――
もうどれも、やっていないらしい。玄関前の草で荒れた庭が物語っている。放置された車の周りにも草が伸びて、旅館の窓は開けたままで、伸びた木の枝が二階の壁に刺さっている。誰かが暮らしていれば、こうはならない。
「昔は繁盛していたのでしょう。どういう歴史があったのかな?」
西條は腰に手を当てて、古びた日本家屋の、和風の旅館を見上げていた。それから引き戸をカラカラと横に動かして、中へ入った。
西條が看護師から仕入れた情報によると、この辺は昔は温泉街だったらしい。私が以前に予想したように、こんな
「まだ生活感が残っているなぁ」
西條が言うように、あの酷い外観に比べたら、旅館の内装は何十年も放置されているようには感じなかった。
靴を横に十足ほど並べれば埋まるほどの玄関口に、生地の禿げた水色のカーペットが敷いてあって、
それでも、さすがに手入れは行き届いていないから、窓から差し込む光に
「すいませーん」
西條が、今更ながらに
「お邪魔しますよー」
宣言したから入っても構わない、と主張するように西條はスリッパをはいて、受付の奥へと歩いていく。
「結構、広そうだ」
西條の声だけが、曲がった角の向こうから聞こえた。彼の後を追ってもよかったが、受付からすぐに二階への階段があったので、上ってみることにした。
二階は、かなり荒れていた。
一階は良い意味で想像を裏切ってくれたが、二階は別の意味で、外観よりもさらに酷かった。
真っ直ぐに伸びる木造の廊下には、ドアが右側に並んで、二つか三つくらいの部屋はドアが倒れたままになっていた。どの部屋も鍵はかかっていなかったから、手前の部屋から順番に見て回ったが、テーブルの足が折れていたり、イスが部屋の隅で死んだ虫のようにひっくり返っていたり、テレビも台から落ちて画面は割れて、天井の蛍光灯は破片を畳に散らしていた。そういう部屋にあっても、なぜか、男女の着物は
茶色の浴衣に、朱色の浴衣。
ここでも紅葉らしい。
浴衣同士の袖が絡んで、それが指を絡ませているように見えて、また、私は自分の薬指をさすった。
二階のあまりに荒廃した様子は、人の立ち入りを拒む嫌な空気を感じた。何者かが廊下の奥から
西條は、まだ戻っていない。
西條が向かった玄関の奥とは別の、右側へ抜ける通路を歩いてみた。一階は客室も整っていた。一番手前の和室では、背の低い長テーブルに紫色の座椅子が四つばかり綺麗に並んで、押し入れには布団まであって、テレビも台に乗っていた。
――四月三十日。
バラのお花が、かれた。水をやりすぎだって、パパが言ってた。お水はたくさんあげればいいってきいたのに、まっ赤なお花がさくと思ったから、お花屋さんで、また新しいお花を買ってもらった。でも、つぼみがとじていた。どうしてとじているのかって、これはチューリップだからって言われた。だから、手で開いた。お花がちぎれて、また、かれた。
女の子が書いたらしい。家族で宿泊して、おそらくは十年以上も前のことだろう。もう、花を枯らさない大人の女性になっているのだろうか。
――五月五日。
昭和と書いてあるから、老人だろう。白にしか見えない、のフレーズが他人事には思えなくて、気の毒だと同情しつつ、私の身の毛も寒くなった。この老人は白い世界を見たままで、あの世へ行ったのだろうか。
――七月七日。
七夕に見合い話をされました。母は、いい縁談だと乗り気です。私は……この町の風習を知っているから、指を切るのは、どうしても
……明らかに女性の筆跡だ。やはり、私と同じように指を切る風習には悩むらしい。それは以前から町で暮らしている人でも、例外ではなさそうだ。この町の住民は、皆が人形のように思考が閉じていると感じていたが、そうでもないのかもしれない。だけど、結局は受け入れている。周囲の人間が異常だと、人は感化されるのだろうか。
次のページをめくった。
また、同じ筆跡だった。
――九月二十五日。
聖一さん。覚えていますか、あの日、私と指結びの約束をしたことを。私は、指を切ろうと思います。聖一さんは、私のために、指を切ってくださいますか? 聖一さんが私と同じ気持ちでしたら、どうか、私と、薬指を交換していただけませんか? 待っています。そして、愛しています。
私はイスから立ち上がった。
あまりの勢いに、イスが倒れて、奥の棚の上の花瓶が割れた。
水がしたたって、床を流れて、靴下の
私の息が荒くなった。
これは、どう考えても、奈々が書いたのではないか? 奈々がここを訪れた。こんな寂れた場所に、どうして、……、いや、それよりも、なぜ、奈々が自殺した後の日付になっている? 彼女が死んだのは、この日付より前のことだ。まさか、死んでから、幽霊となって……、いや、そんなはずはない。これは誰かの
忘れていた罪悪感が押し寄せて、体が重くなった。
背中を曲げて、テーブルに額がついて、汗が噴き出て、息が、だんだんと苦しくなる。海で
ノートに、手が当たった。
……うっすらと視界に入る文字は、ぐねぐねと線が曲がっている。これもまた、子供が書いたようだ。
――十月とみっつ。
お兄ちゃんが、マダツネサマをさがしとった。どこにいくのか分からへんから、教えてあげた。そうしたら、おばあがむかえにきた。あの人のとこ、いきぃな言うたから、お兄ちゃんをよんだ。でも、むしされた。ちょっとくやしいから、こんどは、走っておいかけようとおもった。
「どうですか、湯に入りませんか?」
はあっと息が入って、意識がもどって、畳に倒れていた私は、顔を上げた。部屋のドアの前に立っていたのは、西條だった。
「……どうしたんです? まさか、また例の発作が?」
「……いえ、大丈夫です。助かりました。ありがとう」
本当に助かった。彼が部屋まで来てくれなかったら、私はここで永遠に意識を失っていたかもしれない。
「もう、大丈夫。平気です」
心配して、私の体を支えようとする西條の手を断った。額の汗をぬぐって、それから、息を二、三回、小刻みに吐いた。
「……湯って、何でしたっけ?」
「え? ああ、まだお湯は生きているみたいで……温泉が流れているんですよ。冒険心と言いますか、ちょっと、楽しいかなって思いましたが――その様子では」
「まあ……そうですね」
さっきまでの私なら、好奇心が勝って風呂にも入ったかもしれないが、今は早くここを去りたい気持ちが勝った。ここを出るとして、あのノートは、どうしようか。何かの手掛かりに、持って帰るべきだろうか。
「長谷川さん、外の空気を吸いましょう。楽になるかもしれない」
考えている最中で、西條に促されて、私は部屋を出た。振り返って、あのノートを見れば、テーブルの上に乗かって、窓からの風にふかれて、カーテンと一緒にパラパラとページがめくれていた。そうして、テーブルの上から、カタンとボールペンが落ちた。
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