2-3

「良かったわぁ、聖ちゃんが手伝いに来てくれて。私だけやと大きいのは動かされへんから」


 叔母の家に手伝いに呼ばれた。


 まだ秋だというのに大掃除をしたいらしい。ついでに部屋の模様替えもするようで、これは気分転換のつもりなのだろうが、立て続けにが起きている状況なのだから、いったいどういう神経をしているのか。どうも昔から叔母の行動が理解できない。


 あれから、一ヶ月が過ぎた。


 伯父とは、未だに連絡が取れていない。


 伯父の携帯に連絡しても(持ち歩いているのかは知らないが)応答がない。例の病院を訪ねても「その日のうちに帰宅されました」の一点張りで、肝心の叔母は他人事のように伯父の行方には関心がない。警察に捜査協力をお願いしたが、「では、ここに名前と住所を」などと、それほど広い町ではないから捜索も容易だろうに事務的な対応に終始している。結局、警察からも連絡はなかった。


「もうこれも、いらへんわ」


 叔母は和室の衣装ダンスから、服を取り出して畳の上に並べている。よれたシャツに茶色のセーター、まだ十分に着れそうな上下のスーツをハンガーから外して無造作に置いていく。


「まさか、捨てる気? 帰ってくるかもしれないのに」


「どうやろ。だって、あの人はもう……ねぇ?」


 、という言い方も気に入らない。


 叔母の薬指は相も変わらず曲がって、ついには黒く枯れはじめているが、『指結び』とは永遠の愛の誓いではなかったのか。もう夫婦関係は冷え切っていたらしく、これではわざわざ指を切断して、異様な風習を必死に守ったところで、当人同士が努力を継続しなければ意味がない。人の心変わりというのは指を犠牲にしたところで保証できるものではないのだ。


「ボケるには、まだ早かった気がするけどな」


 伯父はまだ、六十にもなっていなかった。


「頑固やからねぇ。我を通していると、頭が機能しなくなるんも早いんやわ」


 無茶苦茶な理論だ。だとすれば、私も危ういのではないか。


「てっきり、もうちょっと仲良くやっているのかと思ってたけど」


「……」


 叔母は無言で正座している。


 苦い思い出をみしめるかのように、額に深いしわを寄せている。


 私の知っている伯父は、他人とは相容れない、孤独を愛する人だった。奈々の葬式そうしきでもそうだったが、親戚の集まりに参加しても談笑の輪から離れて、ポツンと独りでタバコを吸っていた。趣味は釣りで、休日に家にいるのは朝と夜だけ。独身の頃は車で海釣りに出掛けていたらしい。そういう偏屈へんくつな伯父だから、私とは波長があった。二人で黙って釣り糸を垂らしているだけで、会話はいらなかった。


 しかし、妻の目線からすれば理想的な夫ではなかったのかもしれない。付き合いの悪い伯父への悪口をかばう立場から、いつしか、一緒になって悪口を言うようになったのかもしれない。私は中学を卒業してすぐに香守町を出たから、そこまで二人の夫婦生活を知っているわけではないが、「あれ、ちゃんとやったんか」「言わんでも分かっとるがな」「そんなんやから、肩身が狭いんよ」「関係あるか、ワシは、ワシや」のような、短い会話で言い争いをしていた記憶しかない。


 なあ、聖一。


 記憶の中の叔父が、私に告げた。


 からは、離れとけ。なんか、関係あらへんぞ。


「……せやから、になるんよ」


 最後の叔母の声は、現実だった。ツネになる、と確かに言った。


「……何になるって?」


「あの人な、昔っからそうやったんよ。お祈りもせえへんし、お祭りかって参加せえへんもの。あんたのとこの旦那さん、あんな態度とってたらツネになるわって言われ続けて、肩身が狭かったわぁ。あの人の分まで、私が一生懸命やったわ」


「……ツネって、マダツネ、のこと?」


「……聖ちゃん。きちんと、サマを付けぇな。失礼やんか。そういうとこ、あの人の真似したらアカンよ」


「分かった、気を付ける……けど」


 どうも息苦しい。


「で、ツネになるって、何のこと?」


たたりよ、たたり。ツネき言うてな、私らを守ってくださってるんに感謝せんかったら、そら報いを受けるやんか」


 狭い田舎にありそうな話だ。昔から信仰している神様がいて、守ってもらう代わりにお供え物をするとか、もしくは、荒ぶる土地神を沈めるために願掛けをするとか、神様とは随分と肝っ玉が小さいものだと思いはするものの、敢えて罰当たりな行動をしようとは、さすがの私でも思わない。まつられているものを見下す思想は失礼にあたるし、たとえ心の底から信じていなくても最低限の敬意は必要だ。ただ、たたりとやらまで話が飛躍ひやくするのは、それはそれで眉唾まゆつばと言わざるを得ないが――


 あの叔父の、最後に見せた、魂の抜けたネジ巻き人形のような表情を思い出すと、さすがの私も寒気がした。


「分家のも、あったんやろうねぇ」


 今日の叔母は、よくしゃべる。伯父がいなくなって饒舌じょうぜつになっている。


「伯父さんが……分家?」


「そうやんか。こういう話、何度かしてへんかったかいね」


 叔母は立ち上がって、棚の引き出しから写真を持ってきた。


 三人の若い男女が映っている。


 中央に、若い頃の叔父と叔母が。そこから少し離れて、二人を見守るように若い女性が立っている。


 若い頃の叔父と叔母は手を繋いでいるが、まだ薬指が曲がっていないから結婚の直前に撮ったのかもしれない。叔母は微笑んでいるが、一方の伯父は、これは当人の性格のせいだろうが、昭和の男といわんばかりの真顔で映っている。


「こっちは……誰?」


「誰って……あやちゃんやないの」


「あや……ちゃん?」


「お母さんやないの、聖ちゃんの」


 ああ……。


 そうだったか。


 自分の母親の顔を知らない、などと、本来は有り得ないことだが、私の記憶の中の母は、いつも顔に白いモヤがかかってた。それに、この写真の母は私の知っている母よりも随分と若いから、遠い記憶の中にあって、さらに遠い場所にいる。母は着物姿で、長い黒髪を肩から流して、漆黒しっこくの瞳がとても美しい。


 なるほど、母は美人だったらしい。


 たが、病的な美しさと言うべきか、薄幸はっこうの令嬢と例えるべきか、肌が異様に白くて、存在がおぼろで、まるで人形のように生気が感じられない。写真越しに見ているせいかもしれないが、隣に映っている伯父と叔母と比べても、母の周りだけがひんやりと、冷たく感じる。


「……あれ?」


 私は額を抑えた。何かが呼び起こされるような感覚がした。それが何なのかは、全く自覚はないが、私の思考が正解に辿り着くよりも早く、私の脳の記憶領域がささやいた。


 この女、見たことがあるぞ、と。


「この人、どっかで見た気がする」


「この人って……えらい冷たい言い方」


 確かに。これでは叔母のことも言えまい。


「母親なんやから、見たことあるに決まってるやないの」


「母さんというか……母さんとそっくりな女性を見た気がする」


「そりゃあ、聖ちゃんの――」


 私は写真の母をじっと見つめながら、叔母の言葉の続きを待った。だが、一向に言葉が返ってこない。振り返ると、叔母は立ち上がって、押し入れのふすまを開けていた。


 ガサガサと荷物を漁って、伯父の釣り竿を畳みに放り投げた。


「俺の……何だって?」


「ん? 何の話よ?」


「母さんと似ている人が、俺の何とかって」


「ああ……聖ちゃんと血が繋がってるんやから、似た人って自分とちゃうの」


「いや……女性なんだけど」


「そんなん言われてもねぇ……やったら、お婆ちゃんやないの? きっと、まだ小さかった頃に見たのを覚えてるんよ」


「……そうかな。婆ちゃんの若い頃なんて、それこそ見たことないけど」


「まあ、忘れてることなんて、無理に思い出さんほうがええわ。頭が痛くなるだけやわ」


 叔母は、いつもの台詞を言う。


 彼らは、私が幼少期の記憶を失っていることを当然、知っている。私が過去を尋ねようとすると、決まってこの台詞を放って話を打ち切ってしまう。それは伯父も同じで、この時だけは夫婦で意見が一致する。


 母に尋ねても、やはり同じように、はぐらかしていた。


 このモードに入ってしまったら、もう話の進展は見込めない。続きは諦めて、とりあえずの戦利品として、この写真はもらっておくことにした。


 写真をズボンのポケットに突っ込んだところで、


「聖ちゃん、ちょっと、この絵を飾って」


 叔母は押入れの奥から段ボールを出して、ベリッとふたをめくって中から取り出した額縁を私に突き出した。


「なんだい? これ」


 紅い枠の、ちょうが無数に掘られた額縁がくぶちに飾られている絵は、真っ黒な背景に、真っ白な蜘蛛くもの糸だけが描かれている。


「二つか三つ、壁に下げてくれたらええわ」


 次々と、同じ絵ばかりが出てくる。壁紙の模様替え、のつもりだろうか? こんな絵を、しかも同じ絵ばかりを並べたら余計に陰鬱いんうつな気分になりそうだ。


「悪趣味、過ぎない?」


「そういうもんなんよ。あの人が嫌がったから、しまってただけ」


 どうやら、これも信仰の対象らしい。他人の趣味と信仰を否定する気はないし、ここは私の家ではないから、拒否をする権利はない。叔母が飾って欲しいと言うなら、そうするだけのこと。この町に戻った時、叔母にこの家に住むようにと提案されたが、一人暮らしを選んでおいて正解だった。


「どの辺に飾る?」


仏壇ぶつだんの上がええかね」


「……書画があるけど」


 力強い筆で、合縁あいえん奇縁きえん、と書いてある。


「そんなん仏壇ぶつだんの上に飾るもんと違うし、外してええよ」


 それはそうだが、蜘蛛の糸の絵画も同レベルだとは思う。私はイスを持ってきて、長方形の額縁に飾られた書画を外した。ガタっと留め具から持ち上げた際に、ひらりと、額縁の裏から一枚の白い封筒が落ちた。


 イスから降りて、封筒を拾う。封筒の口は開いていて、中には黄色にせた写真が入っていた。


 ……家族写真だった。


 父親と母親と、息子と娘の四人家族だが、どれも顔だけが丸く切り取られている。ただ、この母親のシルエットは――先程見たばかりの、私の母とぴったり重なって見えた。


 そうなると、この少年は私だろうか。


 少年は釣り竿を持っている。見覚えがある。私が使っていた釣り竿に間違いなさそうだ。


 ならば、この隣にいる少女は……


「……あかんでぇ」


 畳の上にかがんで写真を覗き込んでいた私の、斜め上から声が被さった。唐突だったせいでもあるが、低い、男の、しゃがれた声に、私の心臓の鼓動が早まった。


 叔母が、立っていた。


「……聖一、もう帰れ……早よ、帰れ」


 叔母の口が開いているが、どう考えても叔母の声ではなかった。そうして叔母は、私の手から写真を強引に奪い取ると、


「絵……飾ってくれたら……ええんやわ……外し、それ……で、ツネ、なるわ」


 首を左右に小刻みに振りながら、写真を細かく破いて、ゴミ箱に捨ててしまった。

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