2-2

 最初は、たわいのない質問ばかりだった。


 ――食欲はありますか。

 ――体重に急激な変化はありますか。

 ――よく眠れていますか。

 ――疲れやすいと感じますか。

 

 こういう機械的な確認はどこの精神科でもセオリーで、二回目以降の診察でも、毎回、確認されたりする。それだけで終わることもあって、拍子抜けすることもある。この医者は丁寧ていねいな診察を心掛けているタイプらしく、だんだんと症状の根を掘るような、深層心理の奥を探るような質問へと移行していった。話を引き出すのが上手い男で、私は今までの転職歴や恋愛事情までしゃべっていた。


「私の経験則では――長谷川さんは統合失調症ではないと思いますよ」


 三十分以上にも及ぶ談笑の後に告げられたのは、意外な結論だった。私は以前の診断を否定されて、大袈裟に騒いでいると人格まで否定された気がして、ムッとした。


「まさか、ただの気のせいだと?」


 私は嘘を言っていない。


「症状を否定しているわけではありません。もっと別の症例ではないかと」


「じゃあ……うつ病ですか」


 待合室で読んでいた本を思い出した。耳鳴りや頭痛も、症状の一つだと書いてあった。


うつ病は――営業の仕事をされていた頃は、もしかするとうつ病を患っていたのかもしれません。幻覚や幻聴の症状と相まって、統合失調症と診断された可能性はあります。ですが、今は改善されているようです。もしもうつ状態にあれば、最初に尋ねた基本的な症状が……眠れない、食欲がない、などの日常生活に支障をきたすような身体への症状が現れるのが一般的です。長谷川さんは健康的な生活を送られていますね。例えば、仕事を辞めた今でも決まった時間に起きているとか」


「自然と八時には目が覚めるので」


「それから散歩ですよね?」


「できるだけ太陽の光を浴びようと思って。声が聞こえるのは嫌ですが、それは部屋にいても変わらないですし」


「食事は、自炊なさっていると」


「簡単なものですけど」


「読書と釣りと、サイクリングも」


「時間を持て余していますから、町を散策するついでに」


「極端にふさぎこんだり、自分に価値がない、死にたいなどのマイナス思考もされていませんね」


「生きたい、と強く願っているわけでもないですが……まあ、率先して死のうとは思いません」


 自分で答えていて、なるほど、私は健康らしい。つまらない男だと自負しているが、他人から指摘されると腹が立つし、ポジティブ思考ではないが、マイナスな思考に陥らないように一定のラインで物事を切り捨てるように努めている。つまり、私はうつ病ではないと。


 では、いったい何の病気なのだろう。


「幻聴だけでなく、幻覚も見るんです。そういうのは、統合失調症とは考えられませんか?」


 以前の診断で、幻覚や幻聴などの妄想は、統合失調症の特徴の一つと言われたのを覚えている。


「白い影のような、猿のような……でしたか。幻覚症状もいろいろありまして、白昼夢を見るのと、妄想癖があるのとでは違います。統合失調症の場合は被害妄想に囚われる傾向にありまして、他人から監視されている、誰かが悪口を言っている、謎の組織が監視している、などの脅迫観念に駆られるのです」


「恐怖は……」


 十分に感じていると思う。監視だって、されている気がする。


「長谷川さんには陰性症状があまり見られません。それでいて、……」


 すじ、という言葉が引っ掛かった。この町の住人が、たまに口にしている。


「すじ……って?」


「話に一貫性がある、ということです。さらに妙なのが……『幻覚を見る』、『幻聴を聞く』とおっしゃっていましたが、統合失調症の患者であるならば、だと信じて疑わないものです。それとも長谷川さんは、彼らが実在していると信じていますか?」


「そりゃあ……」


 あんな連中、いるはずがない。ヒソヒソ話も、周りに誰もいないのだから、私の脳が勝手にささやいているのだろう。


「していないでしょうね。私以外にも見えていたりすれば、パニックですよ」


「なるほど、やはり明瞭めいりょうに、理論的に話をしていらっしゃいます。しかも、自分こそが間違っていると自覚もされています」


 否定されているのか、肯定されているのか、分からなくなってきた。あなたはまともです、と言われるのは安心できるが、では問題ないのでサヨウナラ、と診断を打ち切られても困る。実際に私は、ずっと悩んでいるのだ。


「よく分からなくなってきました。じゃあ、私が正常だとして、病気でもないとして、私が見ているのはいったい何なのですか?」


「……それは」


 医者が言葉を止めた。


「……本当に存在している……かもしれませんけれど」


 遠い目をして、ボソッとつぶやいた。口角が少し上がっているように見える。不穏な気配だった。


「まさか……幽霊だと?」


「……冗談ですよ。いえ、あながち冗談でもないのですが、人間の脳というのは、そんな単純ではないのです。例えば、これは――」


 医者はテーブルの下から、丸い物体を取り出した。ゴトッとテーブルの上に置いて、ぽっかりと穴の開いた物体のツルツルした側面を優しくでた。


 頭蓋骨ずがいこつだった。


「珍しい脳の病気を患っていた患者の頭部ですが、このように、前頭葉ぜんとうように該当する部分の骨が異常に後退しているのが分かりますか? 日常的に圧迫されることで、物理的な衝撃が前頭葉に加わっていた可能性を示唆しさしています。もちろん、シナプスの伝達速度が人よりも早かったり、右脳左脳の相互作用に障害があるなど、骨だけでは測れない原因の方が多いですが……骨で、分かることもあるんですよ。ちなみに長谷川さんは、珍しい頭部をお持ちのようです」


 ドキッとした。


 人は見た目によらないものだ。こんな誠実そうな医者が、人生に何の不自由もなさそうな男前が、まさか頭蓋骨ずがいこつに興味があるとは思ってもみなかった。


 ……いや、他人の精神に興味がある男だ。本質は陰気なのかもしれない。それに、医者に限らず、何かをとことんまで突き詰めようとする人間は、それこそが異常な行為なのかもしれない。


「冗談ですよ。それこそ、冗談」


 医者は初めて、分かりやすい笑顔を私に見せた。


「こういった研究もしていましてね。考古学や民俗学をやっていて、その延長上での精神科医でもあるんです。この町に来たのも、非常に独特な――」


「先生ぇ~」


 茶髪の女看護師が甘ったるい声で話し掛けた。そればかりか、医者の後ろか両手を首に回して、抱き着くように体を預けている。


「そろそろ、お時間です~。まだ患者さん、いますし」


「……おや、そうか。つい話し込んでしまった……では、長谷川さん。今日の診察はここまでにしましょう」


 確かに、私一人で四十分以上も時間を費やしている。私が待たされていたように、他の誰かも待っているだろう。


「分かりました。では、次は」


「来週に、もう一度、来てください。今の状態で経過観察したいので」

 

「今の状態? もしかして、薬はもらえないのですか?」


「はい、統合失調症ではありませんので」


 これには、まいった。四十分の会話だけで解決すれば、十年以上も苦しんでいない。私には特効薬が、風邪には風邪薬が、頭痛には頭痛薬、幻聴には脳を鎮静化する薬が必要なのだ。


「しかし、今までは処方されていましたが」


「処方されていたのは……ドーパミンを抑制する薬ですね。妄想のような陽性症状を抑える効果がありますが、それはドーパミンが過剰反応している前提です。長谷川さんの場合、ドーパミンの異常だとは断定できません。今まで処方された薬を飲み続けて、症状が一向に改善されていないのですから。逆に悪化させている可能性もあります。ここは思い切って、過去を断ち切ってみましょう。この町で出会ったのも何かのご縁です。リセットする気持ちで、やっていきましょう」


 そう言われると……否定する気は起きない。この医者は真剣に私の症状に向き合ってくれている。どうしてそこまで親身になってくれるのかは――仕事だから当たり前なのだが、それ以上に彼には人を信頼させる魅力がある。


 それとも、彼もこの町で会話に困っているのかもしれない。何せ、人形のような住民ばかりで、ろくに会話が成立しない。閉鎖的な場所では、余所者同士のホットラインが築かれるものだ。


「それに……ここでは、長谷川さんのように特殊な症例の方が多い気がします。では、また来週に。火曜と木曜なら、午前から居ますよ」


 診察はこれで終わった。最後の意味深な言葉が気にはなったが、初診としては満足いく結果だった。


 診察室から廊下へ出ると、一本の長い通路だけが伸びていた。


 どうしてだか、廊下の壁に沿って置かれた黒の長イスに誰も座っていない。障害物がないから待合室までが見通せる。嫌な予感がした。


 待合室まで戻っても、誰もいなかった。


 ついさっきまで、あれだけの人がいたのに、イスを埋め尽くさんばかりに大勢の患者がいて、それが冬に放置されたはちの巣のように空になって、生き物の匂いがしない無機質で寒々しい空間に変わっていた。しかも患者だけでなく、受付にすら誰もいない。あの忙しそうに走り回っていた看護師達は、いったい何処へ行ったのか。


 私はゆっくりと、遺跡を巡るような想いで待合室を歩いた。すると、受付に、シルバーの呼び鈴が置いてあるのに気が付いた。


 チン、と鳴らす。


 誰も来ない。


 もう一度、チンと鳴らす。


 奥から、一人の看護師がバタバタと現れた。


「はい、どうしました?」


 自分から呼んでおいて、動揺した。誰もいないことに驚いて、今度は、看護師がいることに驚いた。


「……いえ。診察が終わった後、どうすればいいのかなと」


「あちらの機械にカードを入れてください。今日の診察は完了になります。もし処方箋しょほうせんがある場合は、紙が出てきますので、こちらにお渡しください」


 言われた通りに、機械にカードを入れた。それは知っていたが『急に誰もいなくなって寂しくなったから呼び鈴を押した』などと恥ずかしくて真相を言えるはずがない。


 処方箋しょほうせんは、もちろん、出てこない。代わりに次回の予約日時を記載したレシートがぬっと出てきた。


「お大事にどうぞ」


「あの……急に人がいなくなったようですけど……何かあったのですか?」


 とはいえ、聞かずにはいられない。


「午前の診察時間が終わったからです。午後の診察は、二時からになります」


「あ……そういう」


 私は苦笑した。ただの勘違いだった。女の看護師は不思議そうな顔をしていたが、私が照れているのが分かると、クスッと笑った。


 考えすぎだ。


 医者は明瞭めいりょうな思考を持っていると言ってくれたが、余計な心配事を勝手に自分から増やしている。これは被害妄想なのだろうか。私も陰謀論を吹聴しないように、気を付けなければいけない。


 そうして、受付から振り返った時――


 今度こそ、唐突に、あまりに驚いて、心臓が止まるかと思った。「ひゅ!」っと、叫ぶでも、うめくでもない鼓動こどうが口から飛び出して、自分の両目が大きく上下に開かれる感覚がした。


 待合室に、ぽつんと、一人だけ座っている。


 伯父だった。


「……伯父さん? こんなところで、いったい何を――」


 病院なのだから、診察を受けに来た以外には考えられないが、私を動揺させたのは、伯父が私の知っている伯父ではなかったせいだ。焦点を失った瞳の半分が白くなって、首を曲げて、両腕を垂らして、ネジが切れた人形のようになっていた。


 伯父は確かに、ボケていた。


 それでも、これ程ではなかった。少し前に会った時から、五年も、十年も老け込んでいて、まるで生気を感じない。


「午前の診察は、終わったらしいよ」


 努めて冷静に振舞って、伯父の近くに寄って、肩に触れて、伯父の意識を呼び起こそうと揺すった。


 だが、伯父は何も答えなかった。


 もしかして、私が見えていないのだろうか。言葉すらも、聞こえていないのだろうか。


 ここで、急に、


 ポーン、と音が鳴った。


 電光掲示板を見る。


 十三、が示されている。


「……」


 伯父が無言で立ち上がった。私にぶつかりそうになって、のろのろと歩きだした。


「……ツネか……なあ、もうワシ、ツネか……あや……」


 伯父はボヤきながら、廊下の奥へと歩いていく。途中で転びそうになったせいで、受付にいた看護師が慌てて伯父の肩を支えながら、廊下の奥へと消えていく。


 私は呆然ぼうぜんと立ち尽くしたまま、伯父の背中を見送った。


 その日から――


 伯父は、行方不明になった。

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