第二章 ツネ憑き

2-1

 奈々がいなくなってから、一月が過ぎた。


 十月も終わりに近付き、急激に気温が下がって、ますます私の頭痛が酷くなる。


「昨日、ソファで横になっていたせいか頭が痛い」

「急に寒くなってきたから」

「ショッピングモールに長くいると、頭が痛くて」


 社会には様々な頭痛が蔓延まんえんしている。血行不良だったり、眼精疲労だったり、群発性頭痛や、二日酔いにカフェイン中毒。頭痛が起きるたびに何が原因だろうと考えて、そこでいさぎよく寝てしまえば改善されるものの、そうはいかない事情が大人にはあるから、結局は頭痛薬に頼る羽目になる。


 私も、そういった社会の副産物としての頭痛に悩まされてきた。だが、都会暮らしから離れたことで幾分いくぶんは改善された。仕事で四六時中、パソコンを使うことはなくなり、人ゴミに埋もれるストレスでイライラすることもない。代わって、私の心をむしばんでいるのが――


 幻聴による、脳の振動。


 どこからともなく聞こえる誰かの声が、無音の中で、やたらと頭に響くようになった。『声』だけが目立つから、頭痛の頻度ひんどが増している。


 私の家の周りには『生活の音』がない。


 二カ月前に越したばかりのアパートの間取りは、台所と洋室と、それから和室。陽当たりが良いので、昼間は十分に明るい。ただ、築年数が五十年を超えているせいか、物理的な明るさよりも薄暗く感じる。和室の砂壁は黄色にざらついて、畳の所々は黒く染みて、びた鉄に木の匂いが混ざっている。時折、カビの匂いもするから、晴れた日には窓を開けている。


 窓の外からは、交差点が見える。


 それなりに広い道なのだが、当り前のように、ここでも車は通らない。交差点の斜め向こうには商店が並んで、『スナック栄』だの、『中村デイリーストア』だの、『総菜そうざいのハルカ』だの、どれもシャッターが閉まっている。三十年前には人通りがあったのだろう。このアパートの住人も利用していたかもしれない。それが今は、私を除いては誰も住んでいない。私の部屋は二階の一番手前だが、他は空室になっているらしい。ここに入居する際に不動産屋が「なんでしたら、もう二つか三つ、部屋を借りますか?」と言っていた。冗談かと思った。


 私は、自分だけしか住んでいないアパートを借りている。


 それなのに、なぜか、他人の声がヒソヒソと聞こえてくる。


 大人だったり、子供だったり、窓の外から聞こえることもあれば、壁の向こうから聞こえたりもする。昼だろうと、夜だろうと、時間は問わない。ずっと声が流れているのではなくて、ふとした時に、風のようにやってくる。これは今に始まった現象ではないが、都会暮らしではが混ざっていたから、真実と嘘がほどよく紛れていた。


 私は霊的なたぐいは信じていない。


 つまり、これは幻聴であって、のは私の方なのだ。


 さすがに神頼みを本気でアテにしていたわけではなかったが、今のところは効果がない。やはりここは科学的な英知にすがるべきだろう。ちょうど薬も切れている。私は総合病院に行くことにした。


 アパートを出て、バス停まで人気のない道をひたすら歩き、しばらく待った。


 このバス停にも人はいないが、それでも赤い横線が入った四角いバスが顔を見せてくれた。私は、ほっとした。あのバスは、この町に残された最後の良心なのだ。


 一度、バスは駅にまで向かって、出来得る限りの乗客を拾ってから病院へと進路を変えた。病院に近付くにつれて、三人、五人、十人と乗客が増えてゆき、その全てが『香守かがみ総合病院前』で降りていく。バスに乗っている間、乗客は死人のように一言も発さなかった。


 病院の待合室は、想像以上に混んでいた。


 あのような過疎っぷりだから、もっと空いているのかと思っていたが、待合室のソファが人で埋まっている。これでは待ち時間が長くはなる。でも、今の私にとっては、この人の多さがとても心強い。あの世に迷い込んだ不安をずっと抱えていたから、砂漠でオアシスを見つけたように救われた想いがした。しかも老人の群れに混ざって、子供や学生までいる。当たり前の光景が目の前にはあった。


「次回からは、ネットから予約されると便利ですよ」


 受付の人の、まっとうな助言さえも新鮮に感じられる。あまりに寂しい町だから、文化レベルを一方的に見下げていたのかもしれない。そもそもこの町では、生活するのには困らない程度の利便性が担保されている。インターネットは使えるし、スマホの電波もそこそこに通じている。駅前まで行けばスーパーや電気店もある。コンビニだって一つか、二つくらいはある。


 整理券の番号は、十二番。


 それほど後ろの番号ではないが、私が受診するのは精神科(心療内科も同じ先生らしい)だから、診察が長引くこともあるだろう。


「新しい先生になったばかりなんですよ」


 若い女の看護師が、嬉しそうに言う。なんとなく、新しく入ったのは若い男の医師なのだろうと思った。私は棚から『うつ病の七つの特徴と、八つの改善』というタイトルの本を手に取って、長イスに腰掛けて、番号が呼ばれるのを気長に待つことにした。本からは古いホコリの匂いがした。


 電光掲示板に番号が映し出されて、奥の廊下に人が吸い込まれていく。


 杖を突いた老人がおぼつかない足取りで歩きだし、看護師に支えられながら、リウマチがどうのこうのと言っている。せきをしている子供は母親に背中をさすられて、耳鼻科の病棟へと歩いていく。ここだけを見れば珍しくもない光景だが、目に付いたのは――受付でサインをしている若い男女だった。


 二人は、互いの薬指を絡ませ合っていた。


 私はハッとした。


 息苦しい閉塞へいそく空間に酸素を見つけて、また、海底に落とされた気分になった。あの男女は、これから結婚するのではないか。それで薬指を切るための同意書を書いているのではないか。あんなに嬉しそうに、幸せそうに指を絡め合っている二人の指は、そのうちに干からびて、黒ずんだ指へと代わってゆく。それでも構わないと、二人の笑顔が語っている。


 私は、自分の薬指を見た。


 今もキレイなままの、肌色を保っている。


「私と指の長さ、変わりませんね」


 奈々の笑顔が映った。


 あのカップルが、だんだんとうらやましくなってきた。


 ここで、ポーンと、音が鳴った。


 モニターに『十二』が表示されている。


 私は立ち上がって、入れ替わりに、さっきの男女がイスに座った。受付を通り過ぎる際に、ちらっと横目を流せば、看護師がプレートを外科の枠に置いていた。


 精神科の診察室は廊下の突き当りにあるらしい。


 奥に進むにつれて、廊下のイスに座っている患者の表情と共に、どんよりと、空気までもが重たくなる。病院で幸せをみしめているさっきのカップルの方がオカシイのだが、あまり陰欝いんうつさを前面に出されるとこっちまでもが億劫おっくるになる。もっとも、好きで沈んでいるのではないだろうが。


「長谷川聖一さぁん、どうぞお入りください」


 間延びした女看護師の声と共に、診察室の真っ白い戸が横に開いた。茶髪で、ピンク色の口紅をしている若い看護師のそばを通る際に香水の匂いがして、バラにオレンジを混ぜたような甘い匂いは嫌いではなかったが、鼻の奥が刺激されてムズムズする。


「問診表を確認させていただきました」


 男の医者が問診表と、パソコンの画面を交互に見ながら言った。診察室の床にはベージュのカーペットが敷かれ、壁は白ではなく、薄茶色の木目だった。スペースは十分に広く、棚が一つあるくらいで、如何にも医務室らしいゴチャゴチャした器具などは置かれていない。白いテーブルが部屋の真ん中にあって、イスは対面に置かれ、居酒屋で友人と向かい合うような配置になっている。


「長年、通院されてきたようですね」


 医者が顔をこちらに向けた。俳優のような凛々りりしい目鼻に、丸い眼鏡を乗せている。髪は黒のクセ毛だが、不快感を与えないように耳の上で整えられている。もっと若い医者かと思っていたが、目尻が寄って、おそらくは四十手前くらい。若造ではなく、老いを感じさせるでもなく、それでいてイケメンだから、なるほど、看護師からはさぞかし人気だろう。


「統合失調症の診断歴あり、となっていますね」


「はい。前の病院で、そういうことに」


 医者は私の目の奥の心まで見通すように、じっと見つめた。それから、二度ほど小さくうなずいて、順番に確認していきましょうと穏やかに言った。

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