1-3

 午後から、やけに日差しが強くなった。


 スマホの予報を調べれば、今日は三十度近くにまで気温が上がるらしい。夏はとうに過ぎたというのに、こめかみから落ちる汗が首元のシャツに溶けてゆく。それなのに、日陰の少ないアスファルトには逃げ場がない。せめて自販機でも見つかればいいが、それすらもない。昨今の温暖化がとても恨めしくなった。


 十月のせみを思い出した。


 高校生の修学旅行で紅葉を見に行った時、季節外れのせみの声を聞いた。随分ずいぶんと遅れて目覚めたのか、ミンミンと、一匹だけで懸命けんめいに鳴いていた。あの声に反応するメスのせみはいるのだろうか。まさか仲間が既に死んでいる世界に生まれたとは思いもしないだろう。そうして、誰とも出会わずに生涯しょうがいを終えるのだろう。今の私も、そういう気持ちになった。


 川沿いの道に出たら、少しばかり涼しくなった。


 川幅は広く、朱色の橋の向こうに商店が真横に並んでいるのが見える。そのすぐ奥は山の緑で、川のせせらぎと青くんだ空が心地いい。ここだけを見れば観光地だったが、食堂や土産屋のほとんどが灰色のシャッターで閉じていた。郷土資料館も見つけたが、残念ながら、今はやっていないらしい。歴史を後世に伝える文化が途絶えてしまっては、町の死を意味するのではないか。


 目的の神社は、商店街を抜けた先にあった。鳥居の下から、石造りの長い階段が山の中に吸い込まれている。川を渡った橋の先に参道を造ればいいものを、わざわざ回り道させるのは参拝さんぱいして欲しいのか、して欲しくないのか。あまりにも静かすぎて、あの世への入り口のように思えてくる。


 意を決して階段を上った。何処までも続いているかのように思えた。


 深緑のこけに覆われた石段は、真っ直ぐに伸びた杉の群れに囲まれている。深い森は晴れた空を隠して、ここだけ雨が降っているかのように薄暗い。温暖化とも無縁らしく、涼しいというよりも、鳥肌が浮き出る肌寒さを感じる。階段の両脇には灯篭とうろうが並んでいるが、私が今まで見てきたものとは形が違う。普通は四角の箱にかさを被せたような形をしているが、ここのは丸い石からたくさんの石の棒が突き出ている。どれも微妙に形が違っていて、縦に棒が刺さっていたり、斜めになっていたり、棒の本数も丸い石の大小も不規則だった。


 一つ、一つ、石段を上るにつれて、徐々に思考が閉ざされていく気がしてきた。視界までボヤけて、それはいつものことだが、あの白い影が木々の隙間すきまからのぞいている気配がする。同時に、記憶が呼び起こされるような感覚に襲われた。


 私は香守かがみ町の夢をよく見るが、この神社は一度も出てこなかった。それでも、私はここを確かに知っていた。石段を上るたびに、それが確信へと変わっていく。故郷なのだから知っていて当然なのだが、それならば、一度くらいは夢に出てきてもいいはず。もしかすると、あまりここへは来なかったのかもしれない。陰欝いんうつな場所だから、また来たいと思わないのが普通かもしれない。幼少期ならば、殊更ことさらに嫌がるだろう。


 そんなことを考えていたら、上りきった記憶がないままに、私はやしろの前に立っていた。


 社はどこぞの観光地で有名な〇×神社のように華麗かれい荘厳そうごんな造りではなく、あれだけ長い階段を歩かせたわりには、ポツンと、古びた社が一つ建っているだけ。いったい何がまつられているのか。社の格子こうしの奥は真っ暗で何も見えない。賽銭さいせん箱も、鈴も見当たらない。思い出したように振り返ってみれば、手水舎ちょうずやすらも設置されていない。


 とりあえず、手を合わせておく。


 ――頭痛が治りますように。


 ――それから、奈々が安らかに眠れますように。


 これで早々と用事は済んだが、せっかくここまで来たのだ。社の後ろにも参道は続いているようなので、裏側へ回ってみることにした。


 社の裏では、石がゴロゴロと転がっていた。


 どうやら石牌せきはいらしく、どれもこれもが横に倒されて、消えかかっている文字は読めそうにない。さらに奥には石の像がいくつも積まれて、手前に木の看板が立っていた。神社の由来を説明してくれるのかと期待したが、詩、が書いてあった。


 《荷を包んで実をつばみ 土手の坂道ほろりほろり

  とうの昔に色落ちた かつての音を空に聞く

  笑みをこぼせぬ花かざり

  れんげの牡丹の狐色

  泣いても泣いても いたみは消えぬ

  しずむ夕日は 沼地の底へ

  でんぐりがえり、でんぐりがえり》


 わらべ歌らしい。

 

 守り神の社にしては、あまり良い印象を受けない。ただ、わらべ歌というのは得てして、こういうものかもしれない。子供にとっては楽しくて、大人になると不気味に感じる。『かごめかごめ』など、その代表例ではないだろうか。だからメロディに乗せてしまえば、この歌も楽しめるのかもしれない。だが、私には肝心のメロディが分からなかった。


音痴おんちやなぁ。つばみ~、で下げるんやんか」


 風に乗って、声がした。


「あやちゃん、きちんと教えたりぃな」

「なんべん言うたって、無駄やもん」


「そういう年頃なんやろうねぇ」

「血は争えんとか、言わんといてよ」


「どうして来いひんくなったん?」

「あの人、ころりで死んだから」


 頭が痛い。私は目頭を抑えた。聞こえる声は、一つだけじゃない。何人もの声が重なって、頭に響いて、そのうちに、私自身がしゃべっているような気になる。


 私、なんて気にしてませんから。


 水中でおぼれているような、とても息が苦しくなって、吐くばかりで息を吸い込めなくて、視界まですっかりモヤで閉ざされていたが、奈々の声が聞こえたので、はあっと大きく息を吸い込んだ。


 我に返ると、いつの間にか、私はまた、


 やしろの前に立っていた。


 枯れた木の葉が屋根からハラハラと舞い落ちてくる。葉っぱが土に触れて、真っ赤に染まり、やがては黒ずんで、静かに土に溶けてゆく。


 木々がざわざわと風に揺れた。


 ポツポツと、雨まで降りだした。


 あれだけ晴れていたから、当然、かさは持っていない。雨をしのげそうな場所もここには見当たらない。これ以上、雨が強くなる前にどこかに避難しなければならない。早く下に降りて商店通りの軒下のきしたに逃れようと思った。


 急ぎ、社を後にして。


 石段をいくつか、駆け下りてから。


 何となく誰かがいる気配がしたので、振り返ってみた。


 ……


 和服の女が立っていた。


 見間違いかと思い、一度、目を閉じてから再び目を開いたが、確かに女が立っている。背筋を伸ばして、立っている。石段の上から、私をじっと見下している。真っ黒な髪の、真っ白い肌で、腹に紅い帯をしめて、無地むじあさ色の小紋こもんを着ている。とても美しい女性のようだが――


 ピクリとも動かない。


 あれはマネキン、なのか?


 女と目が合った。真っ黒な瞳だった。


 どうにも気味が悪い。ここから逃げ出したくなったが、女の正体を確かめたい好奇心もいてきた。彼女は参拝さんぱい客なのかもしれない。あの奥にはまだ道が続いているのだから、折り返して降りてきたのかもしれない。雨が降ってきたので私と同じように帰ろうとしたところ、ばったり出会ってしまったのかもしれない。だとすれば、彼女も驚いているのではないだろうか。こんな誰もいない薄暗い場所で、一人っきりの女性が男と遭遇そうぐうしたら――


 怖いのはむしろ、あっちな気がする。ここは私から静かに去るべきだろう。


 私は彼女を安心させようとして、軽く頭を下げた。


 それから石段の上を見たら――


 もう、そこに女はいなかった。

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