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私が故郷の
この
鮮明に覚えている情景といえば、小学校を卒業してすぐに私だけが都会へ引っ越したことだ。全寮制の中学に入学することになって、見送りには母がいて、何かを小声で私に告げて、両手を握ってくれたのを覚えている。母の手は死人のように冷たく、それから数年後に母が死んだとの手紙が届いた。
以来、私はこの地に一歩も足を踏み入れなかった。
母の死に目にも会わず、生活費を援助してくれた伯父や叔母とも、たまに電話や手紙のやり取りをするだけで一度も会いには帰らなかった。非情で冷たい人間、と評されても致し方ないが、帰らないというよりも、帰ってはいけない気がした。誰もいない海岸の、
だが、都会での暮らしもやがては
それに、この町は私の夢に出てくる。
ほとんど覚えていないはずの故郷が、夢の中ではハッキリと浮かび上がる。
シャッターの閉まった商店街のタバコ屋は、赤い看板の半分が下に落ちたままで放置されている。自販機だけは動いているが、右から三つ目までの商品は切れている。近くの公園のブランコは片方だけ。
私は
これは不思議なことだった。
どうして私は、昔の光景ではなく、今の町の姿を夢に見ているのだろう。
それとも、ずっと前から、この町では時間が停まっているのかもしれない。その可能性を否定できないくらいに、誰もいなかった。
田舎は不便で、あらゆるものが
駅前の小さなロータリーには、古めかしい喫茶店と和菓子屋がある。
そこから踏切を渡って進んだ先にはスーパーがあって、床屋と、個人経営の電気屋が同じ敷地内に
ただ、それでも道には誰も歩いていない。車も、ほとんど通らない。バスだけが
いったいなぜ、ここに町ができたのだろう。
ローカル線を乗り継いで、いくつものトンネルを抜けた
私は、
伯父の助言を真に受けたわけではないが、他にすることがない。もしも奈々が私の
神頼みをするのも、悪くはない。
「兄ちゃんがな、別にええよって、言うたんよ」
声がして、ドキッとした。若い女の声だった。近いようで、遠いような、前方から聞こえたようで、真後ろから聞こえたような。振り返ったが、長いコンクリート道路には薄い白線が伸びているだけだった。
左胸がざわつく。
それもすぐに、静まる。
こういうのは今に始まったことではない。誰かの声が思考の邪魔をするのは、私にはよくあることだ。
数年前に別れた女を思い出した。
寝る前に私の耳元で
「マダツネサマ、探しとんの?」
また、声がした。
今度は頭の中ではなくて、確かに、物理的な感触だった。
右を見れば、少女が立っていた。
七、八歳くらいの長い髪の女の子で、薄ピンク色のワンピースを着ている。頭には
奥に、汚れた家が見える。
閉鎖された内科のような外観で、壁にはツタが伸びて、所々が崩れている。窓にはガラスはなく、真っ黒に開いた向こう側に人が住んでいる気配は感じられない。
「どうして、分かった?」
私は少女に問いかけた。冷静さを装いながら、背筋に寒さを感じていた。
「そうやないと、ここ、歩かへん」
「ああ……なるほど」
聞いてみれば、真相は単純だった。その前に妙な声を聞いていたものだから、怪奇現象の
「あっち」
少女が指をさす。
「川を渡った先の、山の下」
そっちは私が歩いてきた道だった。途中で曲がる必要があったようだが、看板などの案内が何もないから道を間違えてしまった。守り神のはずなのに、
「ありがとう」
私は礼を言いつつ、少女の左手の薬指を見た。さすがに曲がってはいなかった。
「君は……あの家に住んでいるの?」
何となく尋ねてみた。少女は無表情のまま、うなづいた。
「お母さんも?」
今度は、少女は首を横に振った。
「そんなん、おらん。ころりで死んだ」
ころり、とは、まさかコレラなのだろうか。教科書でしか聞いたことがない。未だコレラが日本で流行っているとは思えない。この町の特有の言い回しなのかもしれない。
「そうか……」
自分から尋ねておいて、何とも言いようがなかった。これ以上、
「兄ちゃんも、そういうの、するん?」
少女はまっすぐに私を見つめた。何のことを言っているのかは分からない。
「私と、そういうの、するん?」
急に子供に見えなくなった。
私の胃の中で
「あっち」
急に少女が、指をさした。
「マダツネサマ、探しとんの?」
私は気味が悪くなって、その場から去った。これ以上、関わらない方がいいと思った。
それから道を戻る途中で、やっと人とすれ違った。老婆だった。老婆の薬指は曲がっているから、結婚しているのだろう。こういう人気のない場所ですれ違うと、お互いに関心を抱くものだ。
私は老婆を見た。
向こうは私に一切の関心を示していない。
田舎では他人でも
老婆の行き先が気になったので、私はその場で立ち止まって、視線で行方を追った。すると、少女のいた家へと曲がった。しばらく経って、少女と手を繋いでこちらへ戻ってきた。
両親はいなくとも、保護者はいたらしい。
安心したのと同時に、また、あの子と再会したくはない。
私は急いで、道を曲がることにした。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
微かに呼ぶ声が聞こえたが、私は振り返らなかった。
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