1-2

 私が故郷の香守かがみ町に戻ったのは、実に十数年ぶりのことだった。


 このさびれた町での想い出は少ない。私の記憶が曖昧あいまいなせいで、幼少期のアルバムのように一年間に三、四枚ほどの断片的な記憶しか残っていない。伯父がいて、叔母がいて、おそらく両親もいたはずだが、父の姿はどこにもなく、母の顔にはいつも白いモヤが被さっている。


 鮮明に覚えている情景といえば、小学校を卒業してすぐに私だけが都会へ引っ越したことだ。全寮制の中学に入学することになって、見送りには母がいて、何かを小声で私に告げて、両手を握ってくれたのを覚えている。母の手は死人のように冷たく、それから数年後に母が死んだとの手紙が届いた。


 以来、私はこの地に一歩も足を踏み入れなかった。


 母の死に目にも会わず、生活費を援助してくれた伯父や叔母とも、たまに電話や手紙のやり取りをするだけで一度も会いには帰らなかった。非情で冷たい人間、と評されても致し方ないが、帰らないというよりも、帰ってはいけない気がした。誰もいない海岸の、がけの下に降りていくような感覚だった。空は晴れていて、海は穏やかなのに、体ごと波にさらわれてしまう、真っ白い死の匂い。遠くの厄災におびえて都会に身をひそめる私に、母は「無理して帰ってこんでええよ」と言ってくれた。


 だが、都会での暮らしもやがては窮屈きゅうくつになった。多くの他人と関わるのが億劫おっくうになって、仕事をいくつか変えて、三十になって故郷へ帰ろうと考えた。


 それに、この町は私の夢に出てくる。


 ほとんど覚えていないはずの故郷が、夢の中ではハッキリと浮かび上がる。


 シャッターの閉まった商店街のタバコ屋は、赤い看板の半分が下に落ちたままで放置されている。自販機だけは動いているが、右から三つ目までの商品は切れている。近くの公園のブランコは片方だけ。雲梯うんていはいつも使用禁止のまま。川沿いの道には古びたトタン屋根の家屋が並んで、雨漏りの下で赤や紫のパンジーが咲いている。


 私は香守かがみ町に帰ると、夢の答え合わせをしようと、一つ一つをめぐってみた。そのことごとくが、一致した。


 これは不思議なことだった。


 どうして私は、昔の光景ではなく、今の町の姿を夢に見ているのだろう。


 それとも、ずっと前から、この町では時間が停まっているのかもしれない。その可能性を否定できないくらいに、誰もいなかった。


 香守かがみ町を歩いていると、田舎と過疎かそは違うと実感する。


 田舎は不便で、あらゆるものがそろってはいないが、人はいる。学生が田んぼの脇道を歩いて、彼らは退屈しないのだろうか、などと考える。しかし過疎かそというのは、あるべき物がそろってはいるのに、誰も見当たらない。町に並ぶ家の数と、すれ違う人の数が一致しない。老人ばかりで、若者がいない。


 駅前の小さなロータリーには、古めかしい喫茶店と和菓子屋がある。


 そこから踏切を渡って進んだ先にはスーパーがあって、床屋と、個人経営の電気屋が同じ敷地内に併設へいせつされている。


 ただ、それでも道には誰も歩いていない。車も、ほとんど通らない。バスだけが徘徊はいかいして、学生を一人も見かけない。雑貨屋や花屋があるが、店は開いているようで、閉まっているのかもしれない。日本の人口密度は非常に高いという話は、ここでは幻なのかもしれない。


 いったいなぜ、ここに町ができたのだろう。


 ローカル線を乗り継いで、いくつものトンネルを抜けた僻地へきちに建物が密集しているのには、それなりの理由があったはず。かつて炭鉱だった町が今ではゴーストタウンになっているとニュースで聞いたことがある。バブル時代の観光地も廃墟となったホテルで埋もれていたりするらしい。ここもそういったたぐいなのだろうか。昔は温泉でも湧いていたのだろうか。


 私は、香守かがみ町の守り神とやらに会おうと思った。


 伯父の助言を真に受けたわけではないが、他にすることがない。もしも奈々が私のそばにいてくれたのなら、平凡で扁平へんぺいな時間すらも楽しめただろうに、彼女はもういない。木箱の中で安らかに眠って、灰になってしまった。何か目的を見つけないと、いたたまれない。ここは故郷だ、今更ながらに町の由来を探ってみるのもいいかもしれない。いや、むしろ知っておくべきだろう。それに、私の頭痛はますます酷くなっているのだから――


 神頼みをするのも、悪くはない。


「兄ちゃんがな、別にええよって、言うたんよ」


 声がして、ドキッとした。若い女の声だった。近いようで、遠いような、前方から聞こえたようで、真後ろから聞こえたような。振り返ったが、長いコンクリート道路には薄い白線が伸びているだけだった。


 左胸がざわつく。


 それもすぐに、静まる。


 こういうのは今に始まったことではない。誰かの声が思考の邪魔をするのは、私にはよくあることだ。


 数年前に別れた女を思い出した。


 寝る前に私の耳元でささやく女だった。甘ったるい、淫猥いんわいで、それでいて心地のよい声。朝になって家を出てからも彼女の声が聞こえたりして、それが別れてからも続いた。町の何処かでいつも彼女が私を待っているような気がした。実際に、彼女の幻をよく見た。これは未練みれんなのだろうか。別れを引きずっているつもりはないが、深層心理にこびりついているのかもしれない。そうして声はだんだんと白い影になって、ちらちらと視界に揺れる。


「マダツネサマ、探しとんの?」


 また、声がした。


 今度は頭の中ではなくて、確かに、物理的な感触だった。


 右を見れば、少女が立っていた。


 七、八歳くらいの長い髪の女の子で、薄ピンク色のワンピースを着ている。頭にはんだ花を輪にした飾りをかぶっているが、おそらく野菊だろう、薄茶色に枯れている。空き地なのか、少女が立っている場所は雑草で荒れて、少女のひざまで緑色の草で隠れていた。


 奥に、汚れた家が見える。


 閉鎖された内科のような外観で、壁にはツタが伸びて、所々が崩れている。窓にはガラスはなく、真っ黒に開いた向こう側に人が住んでいる気配は感じられない。


「どうして、分かった?」


 私は少女に問いかけた。冷静さを装いながら、背筋に寒さを感じていた。


「そうやないと、ここ、歩かへん」


「ああ……なるほど」


 聞いてみれば、真相は単純だった。その前に妙な声を聞いていたものだから、怪奇現象の片鱗へんりんにでも触れたのかと、疑ってしまった。


「あっち」


 少女が指をさす。


「川を渡った先の、山の下」


 そっちは私が歩いてきた道だった。途中で曲がる必要があったようだが、看板などの案内が何もないから道を間違えてしまった。守り神のはずなのに、随分ずいぶん杜撰ずさんな管理と信仰だ。


「ありがとう」


 私は礼を言いつつ、少女の左手の薬指を見た。さすがに曲がってはいなかった。


「君は……あの家に住んでいるの?」


 何となく尋ねてみた。少女は無表情のまま、うなづいた。


「お母さんも?」


 今度は、少女は首を横に振った。


「そんなん、おらん。ころりで死んだ」


 ころり、とは、まさかコレラなのだろうか。教科書でしか聞いたことがない。未だコレラが日本で流行っているとは思えない。この町の特有の言い回しなのかもしれない。


「そうか……」


 自分から尋ねておいて、何とも言いようがなかった。これ以上、詮索せんさくするのは野暮な気はしたが、こんな場所の、あんな家で、子供が独りでいるのはとても気掛かりだった。ただでさえ若者が少ない町だから、この子は貴重な町の後継者ではないだろうか。


「兄ちゃんも、そういうの、するん?」


 少女はまっすぐに私を見つめた。何のことを言っているのかは分からない。


「私と、そういうの、するん?」


 急に子供に見えなくなった。

 

 私の胃の中でへびがとぐろを巻く。少女に白い影が重なって、だんだんとあの女の姿に変わってきた。どことなく声まで似ている気がする。


「あっち」


 急に少女が、指をさした。


「マダツネサマ、探しとんの?」


 私は気味が悪くなって、その場から去った。これ以上、関わらない方がいいと思った。


 それから道を戻る途中で、やっと人とすれ違った。老婆だった。老婆の薬指は曲がっているから、結婚しているのだろう。こういう人気のない場所ですれ違うと、お互いに関心を抱くものだ。


 私は老婆を見た。


 向こうは私に一切の関心を示していない。


 田舎では他人でも挨拶あいさつくらい交わしそうなものなのに、まるでこの世の全てに無関心であるかのように、まっすぐに前だけを見て歩いている。この町には、こういう人が多い。奈々の葬式の時もそうだった。


 老婆の行き先が気になったので、私はその場で立ち止まって、視線で行方を追った。すると、少女のいた家へと曲がった。しばらく経って、少女と手を繋いでこちらへ戻ってきた。


 両親はいなくとも、保護者はいたらしい。


 安心したのと同時に、また、あの子と再会したくはない。


 私は急いで、道を曲がることにした。


「兄ちゃん、兄ちゃん」


 微かに呼ぶ声が聞こえたが、私は振り返らなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る