第一章 マダツネサマ

1-1

 その日の香守かがみ町は、いつにも増して静寂の底にいた。


 加室かむろ奈々なな葬式そうしきは、いたって簡素に、事務的に進行した。町役場が管理する古びた建物の、色せたたたみの奥に横長の木箱が置かれて、大きく飾られた生前の写真は私の知っている奈々よりも若かった。突然の自殺だったから、準備が間に合わなかったのだろう。左右に分かれて並ぶ黒服の親族達の丸くなった背中は、本来であれば結婚式でみやびに参列していたかもしれない。私に責任はないとはいえ、申し訳ない気持ちになった。


 みすぼらしい坊主が前に座って、経を読む。


 聴き慣れてはいないはずの低音が、やけに耳に馴染なじむ。おごそかな音色は故人こじんへの哀愁あいしゅうを誘うものだが、私にとっては一月だけの関係だった。もう半年だけでも夫婦関係を築けていたのなら、私はここで泣いていたのだろうか。


 ただ、ここにいる親族は私よりもずっと長い記憶を共有してきたはずだ。


 それなのに、会場では鼻をすする音や、ハンカチでほほぬぐう仕草はいっさい、見られなかった。しかも、あのような奇妙な最期を迎えたのだ。自殺などすれば邪推じゃすいな噂話がひそひそと並べられそうなものなのに、皆は黙って、各々の役割にてっしている。葬式が始まる前の待合室でも、誰も話をしなかった。


 だんだんと、動くろう人形の中にいるような気分になってくる。


 こういうのはむしろ、世間が私に下す評価だった。つまらない奴、とよく言われた。その私からして彼らが人形にしか感じられないのは、相当の違和感だった。


「ほんまに、残念なことで……」


 式が終わって外に出て、やっと叔母おばが口を開いた。加室かむろ奈々ななの母親に頭を下げている。ここでも母親は、泣いてはいなかった。私はどうしても二人の薬指に目がいく。腐ってはいないようだが、干物のように感じられる。


「ええ縁談やと思ったんやけど……奈々さんと無理矢理やったんやろか。強引に進めてもうて、もう少し聖ちゃんが魅力的やったら」


「いいえ、奈々は大人しい娘やったさかい、聖一さんとは気が合うて言うてました」


 間接的に奈々の私に対する評価が聞けて、少し安心した。指を切った覚悟は本物だったとしても、結婚を強要されたのではないかという疑念をずっと抱いていた。


「それに――になるのは、名誉なことやし」


 すじ、と確かに聞こえたが、意味は分からない。他人の嫁になることを、有難いことだと評しているのだろうか。


「うちとこみたいな外れもんは、肩身が狭いんよ」


「そんなん、こっちも変わらんよ。あの人、ほら、あんなんやから、ゆとりがなくってねぇ。聖ちゃんが援助してくれたら助かるわぁって思ってたんやけど、ねえ、聖ちゃん」


 叔母が作ったような笑みで私を見る。息の詰まる想いがふくらんだ。「まあ、そうかな」と、曖昧あいまいな返事だけを残して、私は会場の外壁を回った。煙草たばこを吸いたくなった。


 黒く汚れた灰皿スタンドの前には、三、四ばかりの黒服が立っていた。


 知っているような、知らない顔ばかりだった。彼らと関わりがあったのかもしれないが、小さい頃の記憶が定かではない私にとっては赤の他人だ。それでも向こうからすれば知っている人の子供で、親し気に話し掛けられるのは億劫おっくうだ。私は別の場所で煙草を吸うことにした。


 車の走っていない道路には、人も歩いてはいなかった。遠くまで見通せる真っ直ぐな道が山の下で消えている。山と反対側に目をやると、バス停があって、そこにも人が座っている。伯父おじのようだ。


「聖一や……」


 伯父は一人で帰りのバスを待っていた。叔母は今でも苦手だが、この伯父とはよく気が合う。場所までは定かではないが、二人で釣りをしたのを覚えている。父を早くに亡くした私にとっては、伯父が父親代わりだった。その伯父も年齢のせいか、半分、ボケてしまっている。私が帰郷した時に知った、もっともショックな現実だった。


 だから、久しぶりに名前を呼ばれて嬉しくなった。


「早よ……帰れ」


 こちらを見ることなく、伯父は道路に捨てるかのようにつぶやく。


「もう……帰れ」


「帰るよ。彼女には冷たいかもしれないが、あそこは息が詰まる。改めて独りの時に、彼女に挨拶あいさつするさ」


「そんなんとちゃうわ……前にも言うたやろ。町へ行け。もっと人と関わったらええ」


「都会はさ……疲れるんだよ。ここは人が少なすぎるかもしれないけど、人が多く集まる場所の方が俺には向いてなかった」


「故郷なんてのはな、すがるもんやない。一度捨てた場所はな、違うんや。心がな、ゆっくりと死んでいくんや」


「まあ、それは……そうかもしれないけど」


 とはいえ、都会に行こうが、別の町に引っ越そうが、私をむしばむ心の病は改善されなかった。それならば、原点に戻って見つめ直してみようと。


、や。分かっとるやろ」


「まだつ……なんだっけか」


 聞いたことがある気がする。頭の隅をつまようじで、チクッと刺された感覚がする。ああ、そういえば、そんな地主神がいたっけか。この町でまつっている守り神の名前だったか。


「お祈りしてこいってこと? あんまり信仰とかないけど……手を合わせるくらいなら」


 いつの間にか、バスが近くにまで来ていた。久しぶりの伯父の声に耳を傾けるあまり、エンジンの音に気が付かなかった。伯父がベンチから立ったから、私は煙草を灰皿に捨てて、正面の扉から入った。車内には誰もいない。私は優先席に座って、伯父を待った。


「伯父さん、どこへ?」


 伯父がバスに乗ってこない。むしろバスの進行方向とは反対に歩いている。プシュ―と空気が抜ける音がして、バスの扉が閉まる。座席から立って伯父を視線で追うと、葬式会場に戻るようだ。てっきり家に帰るつもりでバスを待っていたのかと思いきや、私と同じように独りで煙草を吸いたかったのだろうか。


 一人用の椅子に座り直した。


 バスがガタガタと揺れる。


 窓から汚れたコンクリートの町並みを流して、歩道を長らく見つめたが、どこまで進んでも、誰も歩いてはいなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る