指結び

狭間夕

プロローグ

プロローグ

  せみうたが沈む頃、彼女の指が郵便受けに届いた。


 ――聖一さん。お早い御返事をお待ちしています。


 整った筆跡からして、動揺どうようはしていなかったらしい。氷水で満たした透明なビンの中にビニール袋が浸かっている。その袋の中に、ガーゼで包まれた薬指が入っていた。


 ひんやりと、冷たい。


 細く、長い薬指の根元は水平に切られて、爪に薄いピンクのマニキュアがってあるのが印象的だった。


 この町では、夫婦の誓いに薬指を交換する風習がある。

 

 ――指むすび。 


 この異様な習わしを叔母おばから聞かされた時は、さすがに冗談に違いないと信じなかった。仮に本当だとしても、そんな愚かな約束事など誰も守りはしないだろうと。


「父や母も、そうしてきましたから」


 だが、彼女は違っていた。


 自分の呪われた未来さえも黙殺するような、無機質な覚悟を瞳に宿していた。彼女のつややかな長い黒髪はとても美しかったが、同時に、とても寂しい生き物のように私には思えた。


 私が加室奈々(かむろ・なな)と知り合ったのは、つい先月のことだ。


 親族の紹介で見合いをしたばかりで、彼女の体に触れたのは左手くらいなもの。私は陰気な男だから、ショッピングやレジャー施設のような気の利いた場所に連れて行くことはなかった。(もっとも、そんな場所はこの町にありはしないが)。近くの公園や、川や湖のほとりで、ただ黙って座って景観をながめるだけ。退屈な男だと思われても仕方ないが、それでも彼女は「自分と似ている」と言ってくれた。そのうちに彼女は本を持ってきて、私の隣で読書をするようになった。


 今となっては、この見合い話に感謝している。私は自分の将来の妻を初めて隣に感じた。だが、それでも自分の指を切る気にはなれなかった。


「聖ちゃん、そんな大したことねぇて。一年も経ったら、生まれた頃からこんな指やったって慣れるもんやわぁ」

「せやせや、い合わてくれる、お医者さんも慣れたもんやし」


 叔母おばと彼女の母親は、気味の悪い歪曲わいきょくした薬指を私に向けながら、黄色く汚れた歯を見せた。私が困って彼女と目を合わせると、彼女は目をらして、自分の左手の薬指をさすっていた。


 つとめて私と彼女はこの話題に触れないようにしてきたが、


「聖一さんが良かったら、私は構いません」


 やがて彼女は笑って、そう言った。


 その日、二人で湖の手前にあるベンチに座って、白いボートが一せきだけ見えたのを覚えている。私は彼女を見つめて、彼女は困ったような笑顔を私に向けて、そうして彼女の左手と私の右手が重なった。


「私と指の長さ、変わりませんね」


 それからすぐに、この指が送られてきた。


 先に彼女に『指を切る』決断をさせてしまったのは申し訳ない。たが、これで私の心は決まった。


 私も指を切らねばなるまい。


 その覚悟は、もうできている。怖くない、と言えば噓になるが、彼女の薬指の入ったビンを眺めていると、不思議と心が落ち着いた。


「加室さんところの奈々さんが、亡くなったって」

 

 だからこそ、この知らせは私の心を打ちのめした。突然の訃報ふほうだった。


「いつも聖ちゃんが行きよる咲花さきはなの湖があるやろ、あそこに、顔、突っ込んどったって。自殺したんとちゃうかって」


 たましいが抜けて、私の背中がゆっくりと曲がり、ひざが前に折れた。咲花さきはな湖は彼女と手を合わせた場所だった。夢うつつの動揺を抱えたまま現場まで走れば、そこには青いビニールシートが広がっていた。


「この辺にな、座ったまま水に浸かっとったや、急いで体を起こしたけども」


 釣り人に発見された時には、もう息絶えていたらしい。彼女は正座をしたまま、両手をどろに強く押し付けて、顔だけを水に沈めていたらしい。彼女の両手と両足がシートからはみ出して、色白の肌が、更に血の気が引いて真っ白になっていた。


 左手の薬指が、根元から無くなっている。


 彼女は確かに、自分の指を私に送ったのだ。


 喪失そうしつ感と、やりきれない怒りが、私の視界をゆがませた。やがて、ちらちらと白い影が浮かんで、一つ、二つと影は増えて、寝ている彼女の上からのぞき込んだ。


 いつもの、連中だ。


 瞳が真っ黒の、体が猿のように白く伸びた不気味な生き物が彼女を取り囲んでいる。


 ああ、彼女は望んで自殺したのではない。


 きっと、自殺せざるを得なかったのだ。

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