アイスクリームが溶けるころに

Aiinegruth

第1話 帰路

 こ、このアイスクリーム、溶けたら、帰る。


 いつかの屋台を思い出していた。令和もまだ始まったばかりの高校時代、そのころの八月はまだ暖かくて、氷菓を買えばほんの数分でなくなってしまうような夏があった。街といえるものが市街地中心部にしかない大分おおいたも、たまには盛り上がる祭りの季節だった。駅ビルのある中央通りから山車が通り過ぎるのを見ながら、私たち二人は路地裏でアイスクリームを買った。

 昔から恋愛には縁遠かった私が異性の同級生と二人で祭りに参加したのには理由があって、今年は三人で祭りに繰り出そうと私を誘った同性の友達に、ありもしない頭痛で約束をすっぽかされたからだった。あとから聞けば、その不心得者は恋のキューピットのつもりだったらしく、どう? どうだった? とちらちら尋ねてくるのを学用カバンで引っ叩いて、良かったけど、と返した。

 そう、良かった。何はともあれ私はその日、人類が大人になる過程で挑んだり避けたりするところの恋愛という項目の第一歩を踏み出した。全く意図せずデートのような形になり、私の緊張による震えが佐賀よりちょっとだけ都会なつもりの大分市街をわずかに温めていたとき、彼は不意に私の手を取って先へ進んだ。

 こんなことになって、ごめんね、もう帰ろうか。彼は路地裏の露店の前で私にそう提案した。こ、このアイスクリーム、溶けたら、帰る。私は目を合わせず噛みながらそう返した。食べたら帰るの間違いだったが、あえなく間違いではなくなった。心拍を落ち着けるのに必死になっていた私は、次第に形を崩していく氷菓に間に合わず、思いっ切り手をべとべとにして、私より数段高かった彼の女子力を頼る羽目になった。ハンカチで手を拭き終わると、花火が始まった。大分合同新聞納涼花火大会という簡素な漢字の羅列に似合わない音楽と光の綺麗な共演は、私に隣の異性を意識させ、彼もまた同じようだった。

 来年も、一緒にこれると良いね。彼はそう言った。その顔に暖かい優しさを感じ、私も声音をしっかり保って、そうだね、と頷いた。

 結局のところ、来年も、その来年も、都会福岡に進学してからも私たちの関係は続き、しっかりとした足取りで進んだ。ただ、結婚して二人で戻った故郷で、祭りは行われなくなった。

 暴風雪。二○二八年、八月三日。大分市中心街の最高気温は氷点下一六度を記録した。遠いテレビの向こうの政府がいうことには、未曽有の環境変異によって世界は急速に寒冷化しているらしかった。二人で見ていたドラマやお笑い番組は次第に避難情報や計画に変わっていき、北の方から多くの人々が逃げてきて、大分は瞬く間に本物の都会になった。

 数年経ったある朝のことを覚えている。彼は九州地方の避難計画の責任者の一人になっていた。非常用の食料と必要なものを取ってくるための外出。シェルターに戻るため、私は支給されている携帯用の耐寒防護服を着込んで、密封された旧宅の玄関を開けた。その瞬間、服に装備されている特殊な機器から通信が走った。仕事で気象台にいるはずの彼の声だった。

 

 外に出るな! たったいま駅ビル通りが氷結域ひょうけついきになった!


 氷結域。急激な局所的寒波であらゆるものが凍り付く異常気象。その言葉を思い出すより先に、身体が動かなくなった。――動かなくなって、もう二日経っている。

 おととい氷になった私は、たびたびこうやって過去のことを思い返す。そうすれば、もうすぐ死んでしまう自分のことを、意識せずにいられる気がした。人は三日程度は飲まず食わずで生きていられるというが、どうだろうか。私はどこまで持つだろうか。たくさんのことが脳裏を過った。楽しかったこと、嬉しかったこと、辛かったこと、悲しかったこと。氷点下のなかで自分の熱を保つために引き出した記憶のなかには、全て彼がいた。こ、このアイスクリームが、溶けたら、帰る。そういっていたのに、帰れなくなった。大分の街は半透明の凍った死に覆われ、私が冷たくなって仲間入りするまであと少しに思われた。無線通信機はすぐに壊れてしまった。寒さと恐怖。音のない世界で、防護服の内側の私の涙だけが冷え固まってしまわないのは救いだった。

 やがて、何もない一日が終わり、周囲が暗くなってくる。昼は冷えるが、夜はもっと冷える。体温調節機能はもう持たない。三度目の朝日を拝むことはないだろう。そう思った私の視界が完全に真っ暗になった。冷気に曝され続けた外部カメラが先に充電切れになったらしい。はぁ、と息を吐く。彼は、ほかの友達は、無事だろうか。駅ビル通りの氷結域に巻き込まれたらしいひとは、奇跡的にほかには確認できなかった。死ぬのは私一人だけ。そのことを思うと救われたような気がしたし、地獄に叩き落とされたような気もした。助けて欲しかった。けれどいまさらだ。氷結域は日本中、世界中で発生していて、その対抗策もまだないという。好きだった。愛していた。だからこそ、彼には私ではないほかの誰かをこれから助けてほしいと思った。それだけは、本当に最後の私の願いだった。

 いくら経っただろうか。自分の心拍しか聞こえなかった世界に、音が一つなった。ジジっと、アブラゼミの鳴くような音。幻聴かと思ったが、そうではないらしい。身体が揺れる。何かを考えるより先に、正面のモニターが起動した。外部バッテリー接続。その文字を見た瞬間、目が見開かれた。

「帰ろう」

 声と、眩いばかりの光。そこに、いた。防護服を着込んだ彼は、抱き締めるように背に回した手で有線通信とバッテリーを接続して私にそういった。見上げれば、大分市上空には三つの小型の航空機が環状に旋回していて、画面には、対寒熱波たいかんねっぱ試作機運用テスト中と出ている。

 次第に氷が溶け、しっとりと濡れた街。頼りになる肩に担がれながら、街を覆い架かる虹の下、温かく熱を持った帰路を進む。有線接続の時点でバイタル情報は伝わっているはずなのに、彼は何度も私の生存を確かめ、私もその度にうんと頷いた。

 致死的な寒波は各国の偉い研究者たちの実証実験によって抑えられたものの、気候が完全に戻るのは一○○○年以上先とのことだった。そんなに長く待ちきれない私たちが二○年ぶりの大分七夕冬祭りを開催するのは、もう少し先の話になる。

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