刺客
ことん、と音がする。
重厚な机に置かれた紙に判が押される音。俺の大好きな音だ。
この音が鳴る時、それまでに俺が積み重ねてきた経験と根回し、そして実力の全てが報われた気持ちになる。
まぁ、今回は俺とほとんど関係ないところでなってる音なわけだが。
「よし…と。ルメールちゃん、ここに名前書いてもらえる?」
「はーい。ルメール……リトス、どっちが良いのかな?」
「正式な書類だ。アイゾルニアって書いて良いよ。」
真剣な顔で自分の名前を書き込むルメール。中々綺麗な字を書くことに少し驚いた。いつも走り書きの俺より字体も形も整っている。
「リトス、呆けてないで立ち会いよろしく。普段なら秘書にやらせるところだけど、ここには貴方しかいないのよ。」
「おう。」
咳払いをして姿勢を正す。商売以外は割と良い加減に生きている俺だが、こればかりは厳格にいかねばならない。
「我、リトス・カザの名の下に、ルメール・アイゾルニアとファス・ラ・ヤルザ両名の契約を見届ける。
願わくば、全ての龍が死に絶えたその後もこの絆が続かんことを。」
口上を述べたら、契約書に書かれた2人の名前の上に俺の名前を書き込む。
俺たちが生まれる遥か前から連綿と受け継がれてきた、伝統的な契約の作法だ。
「はい、これで私とルメールちゃんの間には正式に契約が結ばれました。これからよろしくね?」
「はい!よろしくお願いします!」
腹を括ったのか気合の入った返事を返すルメールを横目に俺は切り出した。
「で、次は俺の話なんだが…その前に腹減らねぇか?」
「そういえば…そうね。私とリトス、まともな物食べてないわ。」
今ようやく気付いた様にヤルザは呟いた。
商談に夢中で完全に忘れていたが、俺とヤルザは丸一日何も食べていないのだ。
「んーーっ…思い出したらお腹空いたわ。何か持ってきてもらうからそこで待ってて?」
大きく伸びをしたヤルザはそう言って部屋を出て行った。
やたらと豪奢に彩られた部屋に俺とルメールだけが取り残される。
することも無いので部屋の調度を眺めていると、ルメールが俺に聞いてきた。
「ねぇリトス。あのヤルザって人、どんな人?」
「どんな人…か。そうだな…。」
俺が商売人としてほんのひよっ子の頃からの付き合いである彼、いや彼女の事を思い出す。
「…一言で言えば底知れない奴だな。長いこと付き合ってるが未だに分からないことだらけの男だよ、あいつは。」
商売の基礎に始まり、商会での作法、交渉の仕方、言葉での殴り合いのやり方まで、俺はほとんどの事をヤルザに教わった。
宝石の目利きは流石に習得しきれなかったが。
「何でそんなこと聞くんだ?」
「うん…あの人と話してから…なんでかずっと頭と目が痛くて。」
「痛い?毒盛ったりなんかは絶対にしない奴だぜ。
ちょっと見せてみな。」
ルメールの正面に立ち、その目を覗き込んだ。
さして警戒もせずに顔を突き出すルメールに邪な気持ちをかき立てられるなどということは無く、その目に特に変化は見受けられない。
強いて言うなら、普通の人よりも赤みがかっているくらいだろうか。吸い込まれる様な深みのある赤色だ。
「特にどうにもなってねぇな。疲れてんじゃねえか?」
「んー…そうなのかな?」
「ま、寝てりゃ治るだろ。」
「そうかなぁ……」
考え込む様に俯いたルメール。すぐに寝息が立ち始めた。
「ったく呑気な奴だ。これから散々利用されるってのにさ。」
「…………んー………すぅ…」
あどけない寝顔を見ていると、利用する事に少し心の痛みを覚えた。
「ま、仕方ねぇ。そういう巡り合わせって事だ。」
そう割り切って痛みを忘れ、俺は机の上に手を伸ばした。
手に取ったのは、あの時船の中で見つけた信奉者達の紋章が入った紙束。
名簿なのは間違い無い。問題はこれが一体何の名簿なのかだ。それが俺には見当もつかない。
ヤルザはこの名前の人間が既に死んでいると言った。
「あいつ、名前に心当たりがあったみたいなんだよな。死んだ奴を集めてた?いや違う……」
それなら、ルメールがここで生きていることの説明がつかない。
人が生きているか死んでいるかを調べるのなんて簡単な事だ。わざわざこんな事をする理由は無い。
「むぅ…なら船に乗った段階では生きていたとしよう。となると何故死んだんだ?痕跡一つ残さず死ぬなんてあり得ない。まず不可能だ。」
あの船以外のところで死んだということだろうか。
「わっかんねぇなぁ……ヤルザの情報待つしかねぇか…」
思考を放棄したところで、扉の外から足音が聞こえてきた。ヤルザが戻ってきたのだろう。
「…ん?」
おかしい。それにしては慌ただし過ぎる。
飯を運んで来ただけのはずなのに、複数の人間がどかどか走る様な事態になるだろうか?
首を捻っていると、扉が蹴り開けられた。
「おーヤルザ。何をそんなに急い――」
「ルメールちゃんを隠して!早く!」
「…は?隠せったってどこに。」
「どこでも良いから!あいつらが来る――」
その言葉が最後まで発せられることは無かった。
後ろから殴られたのだろう。前のめりに倒れ込むヤルザ。
その身体を器用に避けながら部屋に入って来たのは覆面をしてはいたが、明らかに覚えのある人間だった。
「資料の回収は私がやるわ。あなたはアイゾルニアを連れて行きなさい。」
顔は見えないが、その声と体格は間違えようも無い。先程お茶を持ってくるついでにルメールをいじくり回していったあの女だ。
「……ショーラ?お前、ショーラだな?」
名前を呼んでやると、ショーラは驚いた様に俺の方を向いた。
「あら、あなたさっきもいたわね。ヤルザに近い人間は今この街にいないはずだったけど…情報に漏れがあったかしら。」
「リトス・カザ。要注意項目に入ってたぞ。見なかったのか?」
ショーラの後ろから大柄な男が入って来てそう言った。こんな清廉潔白な人間が要注意とは何と失礼な。
「まぁ良いわ。それよりあんた、それ渡してくれる?私達の物なんだけど。」
「断る。あんたの言葉を証明する物もねぇのに渡す義理なんてねぇよ。」
言ってからまずいと思ったがもう遅い。高圧的に言われたものだから反射的に噛みついてしまったのだ。
「証明ねぇ。それこそ必要かしら?そもそもあんたを殺して奪えばなんの問題も無いのに、わざわざ生かしておいてあげている事を理解してから口を聞いてくれる?」
そう言ってショーラは片手を俺に向けて軽く振る。それを見た後ろの大男は、背中から短い棍棒を引き抜いて見せた。
一見するとただの木の棍棒だが、持っている男の腕の筋肉が太くうねって様子からすると中に金属でも仕込んであるのだろう。
「あーー分かった分かった!渡す!渡すから!だからそいつでぶん殴るのは勘弁してくれ。」
こういう時はさっさと降参するに限るというのは経験で理解している。
右手に持っていた紙束をショーラに放り投げた。
それを確認もせずに仕舞い込んだのを見届け、俺は左手を背中の後ろに隠す。
「これでよし…と。後はアイゾルニアだけね。レト!」
「了解。」
「…おい待てや。誰がそいつまでくれてやるっつったよ?」
二人の動きが止まり、俺を見る。
何処から漏れたのかは知らないが、こいつらはルメールがアイゾルニアの一族である事を知っている。彼女が目的なのは確かだ。
「ルメールにはまだ働いてもらわなきゃならねぇんだよ。お前らみたいな性根の腐った連中には渡せねえな。」
「あんた…この状況でよくそこまでなめた口聞けるわね。命惜しくないの?」
「こちとら口の上手さだけで飯食ってる様なもんだからな。そりゃ褒め言葉ってもんだ。」
勝ち目は無い。だが、ここで時間を稼げば何か状況を打開できるかもしれない。
「はぁ……もう良い。タオ、殺していいわよそいつ。」
こいつはタオという名前なのかと、振り下ろされる棍棒を見ながらぼんやりと考えた。
目の端に赤い光が見えた気がしたが、それは多分血の色だろう。
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