3、文章の見た目を整えるへの応援コメント
おっしゃる事は正しいと思いますが、Web小説と
原稿用紙の作法を完全にリンクさせる必要はあるのでしょうか?
これに物凄くこだわって、内容よりもこういう作法を重視している方を
しばしば見受けます。でも、これは「公的に規定された」内容では
ないですよね?
細かい規定より、普通にスラスラ読めて、面白いかどうか?
気楽にいけるのがWeb小説の長所だと思うのですよ…。
なので私も数字表記は漢字を使いません。
どちらも普通に文書で要いられますし、
企業では普通に漢字表記は使いません
(漢字表記はNGという会社も多い)。
未だに漢字で書かないと「正しくない」のでしょうか?
作者からの返信
こんにちは!
コメントありがとうございます
自主企画から来てくださった方でしょうか?
イベントを契機に新たな交流を持てること、大変嬉しく思います。
さて、ご提示くださった疑問「Web小説と原稿用紙の作法を完全にリンクさせる必要はあるのか」どうか、ですが、
私としても、その必要はないと考えます。
そもそも、縦書き400字詰めの原稿用紙と、横書き一行数不定&行数際限なしのWEB小説と、同じ表記ルールを適用させるにはフォーマットが違いすぎます。
では、そうでありながら、何故、私は【原稿用紙の作法を反映させる】と書いたか。
理由は、3つです。
1つ目、表記揺れを出さないため
私は、どうも表記揺れに目敏いようで、「さっきは『仕草』って書いてあったのに、今度は『仕種』になってる」とか、よく気付くんですよ。
そして、それに気を取られて、物語への集中が削がれるんです。
ですから、私以上に目敏い読み手を想定したときに、記述の様式や表記揺れといった、作品の本質に関わりないところで、違和感を抱いてほしくないんです。
そのため、自分で、「」と『』の使い分けを考えて、そのルールを思い出しつつ書いていくよりも、
『』の使用はカッコ内カッコ、もしくは、書籍の提示、と無批判にルールに従った方が、表記揺れを減らすことができるはずだと考えているんですね。
あと、その方がよっぽど楽ですし。
2つ目、「読みやすさ=慣れ」だから
作文法のルールは、ある程度、人々に共有されたものです。
そのルールを受け入れるとですね、自分も書くときに頭を使いませんし、読み手も余計な違和感を抱かずに読めるはずです。
このエッセイは、児童文学→純文学と育ってきた私が、純文学寄りの大衆小説を書くさいに気を付けていることですので、
書き手も、想定する読み手も、原稿用紙作法に親しんだ人間であるものとしています。
3つ目、「慣れ」を排してもやはり、原稿用紙作法は読みやすさに貢献すると思うから
例えば、行頭字下げについて。
私は横書きWEB小説であっても、入れて欲しい派です。
何故なら、行頭字下げによる空白は、「一段落が終わる→新たな段落へ目を移す」とき、新たな段落が始まる目印になるからです。
この目印がないと、左側縦一行、全て字で埋まっている中から、次に読むべき行を探し出す必要があります。
私にとって、この空白の目印は、目線移動の負担を軽減するアイテムなのです。
一方で、私はこのコメントでは行頭字下げを行なっていません。
それは、行頭字下げの代わりに、段落の前後に空白の行を入れているためです。
この空白行が、段落のまとまりを示しているので、敢えて行頭字下げにて示す必要がないと考えています。
*
要は、形式が一貫して保持されているもの、そして、親しんだ形式に沿ったものが、一番読みやすいんです。
自分の親しんだ形式と異なるものが提示されると、その差異や差異の理由が気になるものですから。
数字表記に関しても、漢数字と英数字との節操ない混用を避ければ良いのです。
私も、このエピソード内で両方の数字表記を用いています。
使い分けは、名詞であるかどうか。
一段落とか一文とか。これらは、名詞として独立していますから漢数字。
10行とか100字とか。これらは、数量の値そのものに意味があるので英数字。
じゃあ、三文目とか五文目とかは、英数字で表すべきなんですが 笑、名詞「一文」との統一を持たせるために、敢えて漢数字。
と、このように、書き手当人が使い分けのルールを守っていれば良いと思います。
文章の見た目を整えることとは、私にとって、拙作を読んでくださる読者さまへのささやかなおもてなしです。
まあ、自己満足ですがね、良いんです。その方が美しいと思いますし、文面の整然さを含めて、私は自身の作品価値を見出していますので。
……こんなんで、回答になっていますかねぇ?
3、想定読者を定めるへの応援コメント
想定読者を定めるの、難しいですよね!
歴史小説を「幕府って何?」みたいな小学生に読ませようと思ったら、説明ばっかりでお話が進みそうにないですものね。やっぱりある程度は読者さんに知識を求めてしまいます。
でも、私も時代物とか読んでて「なんかよくわかんないけどこの人はとにかく偉い人なんだな」って勝手に脳内補完して読み進めてしまったりもします。
それで話の大枠が理解できるならそれでもいいのかなあ、とか。
長文失礼しました。私の近況ノートの方にお返事書かせていただきましたので、ご確認ください!
作者からの返信
なんかよくわかんないけど〜と思わせながらも、偉い人がわかる、物語の空気感が伝わってくる
これは、安易な言葉を使えば、描写の力 = 筆力ってことなんじゃないかなぁと思います
しばらくは、説明文も小説も分つことなく、
わかりやすい文章の書き方について述べていきますが、
説明文が内容理解を最大の目的と定めるのに対して、小説は違う……という点が、肝となる両者の差異なのかもしれません
まだまとまりきっていませんが
ありがとうございます
2、文字から想起されるイメージの共有への応援コメント
「釣鐘瓜」という言葉を見た瞬間に一旦離脱して画像検索してしまった私をお許しください……(笑)
勉強になりました。
作者からの返信
あ……なるほど、スマホという媒体の特性を考慮していませんでした……!
なんだか騙してしまったみたいで申し訳ないですねぇ
ありがとうございます
5、その他の細かな注意点への応援コメント
書き方により、色々じゃないかと思います。
小難しい作法を守った方が良いケースもあるし、
それを逸脱した方が伝わる事もある。
断定する事はないし、芸術とはそういうものでは?
長く守られた作法が正しいとも思いません。
長いから正しいとする根拠もないと思います。
文書の細かい事よりも、面白い話を読ませて下さい。
作者からの返信
難しい問題です。
テーマ「自由」で作文を課されたとき、スラスラと書ける子と、何を書いたら良いかわからずにフリーズしてしまう子、それぞれいると思います。
どちらが作文の書き手として優れている、とかそんなことはありませんよね。
テーマ「自由」で書けない子も、テーマ「夏休みの思い出」なら、生き生きと書けるかもしれませんし。
私は、どちらかというと、テーマを与えられた方が書きやすいタイプでした。
今でも、俳句とか漢詩とか、制限の厳しい文芸を好んで作成しています。
そんな私が、小説を書くときに気を付けていること、ですから、なかなかに旧来で作法に縛られたエッセイだと感じられるのかもしれませんねぇ……
さて、面白い話、ですが、自らの作品を提示するほど怖いものなしではありませんので 笑、私の好きな本を二つ。いずれも、青空文庫にて読めます。
寺田寅彦『どんぐり』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/827_13489.html
主人公の語りにて進む、妻と息子との物語。
前半と後半、両者のコントラストが大変際立つ作品です。
倉田百三『愛と認識との出発』より「自然児として生きよ ――Y君にあたう――」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000256/files/2590_20695.html
「常識を捨てたまえ!」
私、なんとなく、白狐姫と白虎隊さんには、そう言われたような気がしましてね、この作品を思い出したんです。
このお話、本当に面白いですよ。