第155話 深夜の訪問者
「………誰? まあそうですよね。ご存じじゃなくて当然だと思います。でも私が此処まで辿り着くことを、咎める者は別に誰もいないでしょう」
上半身裸で鍛え上げられた肉体のテルウが目の前に立っているのを見た女の子は、恥ずかしそうに顔を赤く染めて目線を横に反らした。
「俺、くたくたなんだよね。王太子殿下が一日も早く体を元通りにしろってうるさいから、訓練に付き合ったり、揉み療治したり。急ぎじゃなければ明日にしてくれる?」
「私はずっとテルウ様の居住するこのフロアの掃除を担当していました。だから此処にいても王弟殿下から掃除のご要望があったのだと誰もが思うことでしょう」
「えっ、そうなの? ごめん全然記憶にない」
「ええ、その通りだと思います。ずっと部屋を掃除していても、テルウ様は何か食べているか、寝ているかで、一度も私の方は見ませんでしたから」
「ふーん、まあどうでもいいや。それで用件は何?」
「あの、………申し上げにくいことではありますが、今晩だけ一緒に過ごしてくれませんか?」
無理なお願いは到底受け入れられるものでなく、テルウはそのまま扉を閉めようとしたが、いつの間にか女の子は扉の蝶番に手を掛けている。そのまま無理に閉めてしまえば指を扉に挟まれ大怪我にも繋がるだろう。
それだけに、この女の子が生半可な覚悟で扉を叩いたのではないという意志表示とも受けとれる。
「どうして俺が、掃除担当のあんたと一晩過ごさないといけないんだ?」
「私、明日城を離れて実家に帰ります。そしてすぐ結婚することが決まっているんです」
「婚約者がいるんだろ? だったら尚更こんなところに来てはいけないはずだ」
彼女はフフと鼻で笑ってから、グッと拳を自分の胸を押さえつけて、辛そうに語り出した。
「………婚約者と言っても、相手は亡くなった父親よりもずっと年上の男性です。嫁ぐ支度金として家畜を何頭か譲ってくれるのだとか。これで実家の家族も安心して冬が越せます。私だけじゃない、此処で働かせて貰っているものの殆どが、家同士で決めた婚約者がいて、実家に戻れば家の為に結婚する運命なんです」
それはこの国、いや、大陸全体で親が決めた望まない結婚をしているという当たり前の話だった。
彼等は恋愛に関係なく婚姻する。
貧しさゆえ口減らしのためか、家同士の利益のため繋がりを求めることもあるのかもしれない。
女性であれば十分な教育や、自立の機会を奪われたまま、親になって、またその子も同じ運命を辿る。
その昔、ミッカが子どもたちを引き取り、教養を身につけさせたいと思っていたのには、根底にこういった理由があったからだった。
誰もが平等に教養を身につけ、自立した大人になって貰いたい。
政略結婚で嫁いだ彼女にとって、自立した女性とは彼女自身の憧れだったのだろう。
そして今、その意思はアラミスに受け継がれ、王太子の婚姻相手を探す目的もあるが、未婚の男女を国中から募って基礎教養を高め学力向上につなげていく。
しかし志半ばで、生活の為、結局は彼女のように家同士が決めた婚約者と婚姻していくのだ。
………裏を返せば
恋愛そのものが、ごく一部の特権階級にしか許されていない特別な行為だということであった。
王太子であるヒロが恋愛で一喜一憂しているのも、テルウが幼馴染との淡い初恋を引きずっているのも、はたから見れば恵まれた立場であるといわざるを得ないであろう。
いやひょっとして、ヒロのように国を背負う立場であるものの方が悲劇的かもしれない。
彼らは平民と違い逃げることすらできない。
国同士の結び付きを深めるため、政治の道具となって政略結婚する。
もはや彼等に自由な婚姻など存在しないのである。
その背負っているものが大きすぎて、流される運命には付き従うしかなのだ。
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