第69話 唇の熱
最初は唇同士が軽く触れただけで、彼女は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに目を閉じて身を委ねてきた。
ヒロは堪え切れずもう片方の手を彼女の腰に当てて、さらに強く抱きしめた。
五年間の離れ離れだった辛い日々のことを思い浮かべながら、何度も何度も唇を重ねる。
ヒロが思い描いていた通り、こんなに柔らかい感触を知らないというほど、その唇はとても柔らかく、唇を通してとろける様な気持ちへと変化していく。
そして二人はお互いの思いをぶつけるかのように、その暖かい唇の熱を感じながら、ようやく想いを通わせる。
「ど、どうしよう。気持ちが抑えられない。ようやく君に触れられたんだもの。もっと、もっとしたい!」
彼女はとろーんと半開きの目をして、ん、んと言いながらも
「初めて会った時から大好きよ、ヒロ。このまま私を連れ去って……」
と繋いだ指先に力を込めた。
そのたった一言が、薬のせいで興奮していたヒロのハートにさらに火を点けた。
もういつから湯殿に入っていないとか、そんなことはどこかで吹っ飛び、そのまま押し倒しそうな勢いでズンズンと彼女にキスしながら、前に進みだしたのだ。
もはや今いる場所が、断崖絶壁の山の頂上だということは頭から完全に消え去り、ただ思いが通じあえた事にすっかり舞い上がってしまい、さらに力いっぱい、芳しい匂い漂う彼女を抱きしめた。
「今日から俺たちは恋人同士だ。これからはずっと一緒だよ、もう絶対に離さないから」
そう言って、さらに唇を軽く噛むようにキスをした。
そんなキスにすっかり甘い顔をし、色っぽく頬が染まっている彼女を見てしまったヒロはさらに自分が抑えられなくなってしまう。
いつの間にか彼の首に手を廻して濃厚なキスをしていたのだが、やがてシキは異変に気付く。
それは興奮したヒロに押されて、どんどん崖の方へと向かっているかもしれないことだった。
ん?
気のせいかしら?
霞がかかってよく見えないけど。
横目でちらりちらりと場所の確認をしようとするが、ヒロの顔が視界を塞いでいるのと、気持ちが高ぶって平衡感覚を失ってしまう。
これはひょっとすると、非常にまずい状態なんじゃないかいうことに気が付いた途端、案の定ぐらっと身体から力が抜けた。
崖から後ろに倒れかかっているシキが見える。
「◯×△◇■◯×××!」
言葉にならない叫び声をあげたヒロはようやく、興奮した自分が崖から彼女を押し出してしまった痛い現実を知ることとなる。
今、自分の身の上に起きていることが信じられない。
どうして? どうして、ヒロ?
どーーうーーしてーー???
という顔をして、シキは掴んでいる手がスルッとヒロから離れた。
「あわわわわわわ、シキ! こんなつもりじゃなかったのに! 気持ちが抑えきれなくて押し出しちゃった」
どうしよう! どうしよう!
あれほどベガに注意されたのに、また見境なく突っ走ってしまった。やっと君と繋がることができたのに!
ヒロは仰け反り落ちかけている彼女の体を、飛び出していって両手でガシッとしっかり抱いた。
頭の辺りに顔を押し付けて愛おしく庇う様にありったけの力を込める。
そんな抱き合った二人の身体は、崖の上から鏡に向かって真っ逆さまに落下していった。
あれほど苦労して登った山がやっぱりこんなにも高かったのかと思うほど、長い滞空時間と猛烈な風を感じながら、やがて二人の身体は途中から燃え盛る真っ赤な炎に包まれていく。
そして、その赤く燃え盛る炎が緩衝材の役割を果たし、鏡は二人に触れることなくパリパリ、ガッシャーンと凄まじい音を出して割れた。
その割れた時の衝撃音が鼓膜を通して脳にまで達したので、脳震盪を起こしかけ、やがて二人とも意識が遠のいていく。
(…………何か聞こえてくる。可愛らしい小さな声で誰かが唄を歌っている)
エスフィータ エスフィータ
こどもたちに口づけを 幸せだった日々を思い出し涙するだろう
エスフィータ エスフィータ
亡き魂に花束を こぼれる涙を胸に抱き明日を見つめるだろう
エスフィータ エスフィータ
輝く王冠に祝福を 赤い月夜の晩に彼方のまばゆい光を掴むだろう…………
(あれ? この唄って前にも聞いたような……)
ヒロが薄目を開けると、シキによく似ているあのホログラム映像で浮かび上がってきた黒髪の女の子が、隣でシキが歌っていたあの唄を歌っている。
その小さな黒髪の少女は唄うのを止め、ヒロに話しかけてきた。
「やあ、二人とも鏡の中からは無事脱出できたようだね。でもまだまだよ。まだ何も始まっていないのだから、ふふふ………」
そして抱き合っている二人の周囲をクルクルと踊り子のように回りはじめ、飛ぶように舞い踊りながら再びあの唄を歌いはじめる。
(………なぜこの子もこの唄を知っているのだろう?)
腕の中を見るとシキの銀色の髪が揺れている。
ようやくお互いの気持ちを確認し、恋人になれた彼女。
自分に力を与え、戦う勇気を与えてくれる彼女。
叶うならば、ここままずっとこうして抱きしめていたい。
「永遠に俺の傍にいて……、シキ……」
やがてヒロは完全に意識を失ってしまった。
“ねえ、君はあの鏡の中で過ごした時のことずっと覚えていただろうか?
今になって思えば、二人きりで過ごしたあの満ち足りた時間が、一番幸せだったのかもしれない。
二人とも背負うものが何もなく、ただ純粋に愛を囁いていればよかったのだから。
あの時は夢にも思ってもいなかったんだ。
まさか、まさかこんな事になるなんて……………“
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