第30話 最強の切り札

「不味い! 不味い! もういい加減なんとかならないの、この食事?」


 ジェシーアンはいきなり怒り出してスプーンを投げつけた。スピガはこんな小娘如きに、何の文句を言われる筋合いがあるのか、ぽかんと口を開けた顔をしていた。

 シュウはそんなスピガの顔が面白くて、クックッと笑いを必死でこらえている。


「苦情が出ているようだぞ、スピガ」


 そんなシュウの言葉に、お前がこんなの連れてきたんだろうと思いながらも、沸かしたお湯をティーポットに注ぎ、スピガは特別な茶葉でお茶を淹れはじめた。


「じゃあ、次回からお前が作れ」というスピガに対し、

「私は、掃除や洗濯、食事を作る以外のこと全部やっているでしょう!」

 ジェシーアンも一歩も譲らない。


 その掛け合いが面白可笑しくてまたシュウは小さな笑い声をたてている。

 今でこそ、こうして何事もなかったかのように笑っているが、実はシュウが目を覚ましてから一悶着あったのだ。


 彼は目を覚ました時、ぼんやりと灰色の天井を見上げていた。

 ジェシーアンに刺された傷はそれなりに痛みつづけていたが、特に違和感を覚えたのは見上げている天井の見え方だ。

 しかしすぐにそれは理由が明らかとなった。


 スピガにユイナを連れてくるように命じたのだが、彼女をジェシーアンが介助して連れて来たからだった。


 すぐにユイナと自分の目をスピガが入れ替たことを知ったシュウは、ベッドから飛び降りスピガに掴みかかり、眼を赤く光らしてスピガの首を力の限り絞め上げたのだ。

 そしてスピガは、首を絞められているにもかかわらず、ただ黙って含み笑いを浮かべている。


 ユイナがすかさずふたりの間に割って入り

「宿願を果たすまでの間よ、兄様」と下手な嘘をつき何とかなだめすかした。

 シュウは少し落ち着きを取り戻したが、ジェシーアンは隣でこのやり取りをただじっと聞いている。


 ユイナの申出により、彼女はスピガと永遠の契約を交わした。

 それによってスピガは、最強の切り札を手に入れたのだ。


 もしもこの契約の事をシュウが知ったら首を絞めるどころでは済まないだろう。

 しかしこの契約が有効な限り、スピガを手にかければたちまちユイナも死んでしまう。

 改めて考えてみるまでもなく恐ろしい契約であり、自らの命をかける必要なんてどこにあるのかジェシーアンにはさっぱり理解できないが、兄妹以上の強い絆で二人が結ばれていることは、はっきりとわかる。


 彼女には想像も出来ないだろう。過酷な運命により生まれてからたった二人でお互いを支え合い、生き永らえてきた二人のことなど。


 ジェシーアンがスピガの作る、たいして美味しくない豚肉料理に文句を言いながら、ふと前を向くと、シュウは自分とユイナの食事に先程からずっと何かをドバドバとかけている。


「あなたたち兄妹はさっきから何をかけているの? そんなにかけたら、その味しかしないと思うのだけど」


 二人はぴくっと反応して、一瞬食べる手が止まってしまった。


「結局は不味いのでしょう?」

 ジェシーアンはそう言い、じろりとスピガの方を見て、ほら見ろといった顔をしたが、彼は気にせずお茶を啜っている。

「それで何をかけているの?」


 シュウは汚れた口をナプキンで拭きながら

「これは北すもものジャムだ。非常に貴重品でお前みたいな山猿が、おいそれと手に入るものではない。俺たちは特別なルートで仕入れているんだ」

 と勝ち誇ったような顔をして延々と仕入れルートについて説明しているが、何のことはない。

 その昔、この兄妹を北に運んだあの業者から、毎年城で引き取って貰えなかった北すももを、今でも破格の値段で買い取っているだけだった。

 しかもシュウはちゃっかりこの業者を、自らが立ち上げたビジネスでも利用している。


 スピガの祈祷が、一部の貴族たちの間で流行っていることを知ったシュウは、貴族たちの誕生日を聞いて彼に占いをさせた。これが意外と当たると評判になり、瞬く間に人気占い師の地位を獲得する。

 しかし多額の報酬を得られる一方、占いをすることでシュウ達の世話をする人がいなくなってしまったのだ。


 この兄妹の立ち居振る舞いは実に見事なものなのだが、それ以外のことはからっきし駄目で、とくに家事全般は大の苦手だった。

 そうかといって失踪中である自分たちのために使用人をあてがうこともできず、あれこれと考えた結果、ついに理想的なビジネスモデルを思いついたのだ。


 シュウは「おみくじ」をスピガに命じて業者に制作させ、その業者を通じてカルオロンだけでなく大陸中で販売した。

 これが未来に希望を見出すことの出来ない人々の心を捉え、彼が手掛けた「おみくじ」は飛ぶように売れることとなる。


 シュウはなんだかんだ言っても商才にたけた人物で、子どもながら多大な富を築いたのだ。スピガはそんなシュウのサポートをしつつ、身の回りの世話をして次第に彼の言いなりになっていった。


「山猿って、お前天才だな、シュウ」

 スピガは山猿というフレーズがツボにはまり笑い転げている。


「北すもも……」

 ジェシーアンはいつもならこんなシュウやスピガに、怒って突っかかっていくはずなのに、今日に限って神妙な顔つきで黙り込んでいる。しばらくじっと考えこんだあと、ふらふらと立ち上がり三階にある自分の部屋へと上がっていった。


 シュウとスピガは言い返してこない彼女にいささか拍子ぬけした顔をしているが、ユイナはそんなジェシーアンの心情を隣で感じ取っている。

 シュウと目を入れ替えてから、彼女は目が見えなくなった分、それ以外のものを感じ取る事が出来るようになった。

 人の気持ちや感情は勿論のこと、危難を避けるため予知、あらゆる感覚が研ぎ澄まされてユイナの中に大量に飛び込んでくるのだ。


 そしてジェシーアンが来たことでシュウは劇的な変化をもたらした。

 前はあのように人前で声をあげて笑うことはなかったのに、今では笑うだけでなく彼女に鋭い突っ込み入れたりしている。

 そしてそんなシュウの突っ込みに全力でぶつかっていくのが、ジェシーアンの凄いところだ。この二人は口を開けば言い争いばかりしているが、なんだかんだ言っても気が合う。


 というよりジェシーアンの性格によるものが大きいのかもしれない。

 歯に衣着せぬ物言いで裏表のない彼女のような人間と接することで、人に心を開こうとしなかったシュウも少しずつ気を許すようになっていった。

 しかしユイナは日々変わっていく彼以上に、ジェシーアンの心境が気になって仕方がない。


 ジェシーアンは自分の部屋のベッドにごろんと横になっている。

「北すももか……」


 何故だろう。ここに来る前から知っていたような気がする。

 でも肝心なところが思い出せない。頭にずっと靄がかかり、心にぽっかり穴が開いたみたい。気持ちが悪いなあ……。


 急に彼女は身体がむず痒くなり、体を思いっきり動かしたくなってきた。

 何かを思い出したように、ベッドから走り出して階段を一階まで駆け下り、玄関ドアを開けて夜にもかかわらず外に飛び出した。

 そんなせわしなく動きまわる彼女に驚き、スピガとシュウは立ち上がり二階の居間の窓から外を見ている。

 ジェシーアンは裏庭まで走り、納屋の中からそんなのあったのかという錆び付いた鍬を担いで戻ってきた。

 そしていきなり雑草が生える、原野を耕し始めたのだ。

 月の光を借りて、土の匂いを嗅ぎながら無我夢中で鍬をふるう。あれほどもやもやしていた心が自然と落ち着き、幸せだった感覚を思い出す。


 私は知っているこの感覚! 身体が覚えているんだわ!


「何だあいつ、こんな時間に。やっぱり山猿だ」

 スピガは呆れた様子でそう言った後、お茶を飲みにテーブルに戻った。シュウはそんな鍬をふるう彼女のことを二階から、冷たい目でじっと見下ろしている。


「もうなんでいつも手伝ってくれないのよ」


 ジェシーアンはそう言って、一瞬、誰かの名前を呼びそうになった。

 いつも隣にいてくれた大事な人の名を。思い出せるはずもないのに。

 冷たい夜風が頬を撫で、彼女の長いポニーテールを揺らしている。一気に寂しさに耐えられなくなってきて、両手で顔を覆いながら嗚咽を漏らして泣いてしまった。


 月の明かりに照らされる、彼女の姿をシュウは目に焼きつけていた。


 もうあと戻りなんてできない。

 遠くまで続く空と地、空気すべてが白一色に染まるあの美しい白銀の世界で、もう終わるかと思った儚い一生。

 しかし何かが確かに導いたのだ。だからこのまま終わるわけになんていかない。


 ダリルモアへの復讐を果たすため仮病を使って山脈に向かった時、握りしめてくれた手が暖かくて、殺す事ができずに、結局そのまま連れてきてしまった。憎みたいなら憎めばいい。笑顔を奪ったこの俺を。お前の標的となることなんか想定の範囲内だ。それでも譲れないものがある。


 シュウは見下ろしていたのをやめ、顔を上げると、赤く輝いている月へと目を移した。

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