第29話 秘密
(いつかあなたにも本当に守りたいと思える人が出来るといいね)
今となってはもう二度と聞くことのできない、あの優しい声で最期にそう言い残して、抱いている腕の中で静かに息を引き取っていった。
そして息絶えた彼女を壊れるくらい思い切り抱きしめたのも、確かこんな赤い月が輝く夜だった。
何故こんな事を今ごろになって思い出しているのだろうか?
そうだあの少年に最後にかけられた言葉だ。
だから辛い過去に引き戻されているのか?
エスフィータ エスフィータ
こどもたちに口づけを 幸せだった日々を思い出し涙するだろう
エスフィータ エスフィータ
亡き魂に花束を こぼれる涙を胸に抱き明日を見つめるだろう
エスフィータ エスフィータ
輝く王冠に祝福を 赤い月夜の晩に彼方のまばゆい光を掴むだろう
エスフィータ エスフィータ
鏡の中で踊り続け 永遠にほほ笑み続けるだろう
エスフィータ エスフィータ
ファ オ デルタトロス
リヴァは寝室の窓辺に立ち、赤く光る月を眺めながら静かに唄いだした。
それは物悲しいような、心が落ち着くような不思議な旋律の唄であり、シキはベッドに横になりながら彼が唄っているのをじっと聞き入っている。
「その歌は何の歌?」
唄いおえる頃、彼女はゆっくりとベッドに上半身を起こしリヴァに訊いた。
「淋しい時に元気をもらえる唄で、自分を励ますのです」
やっと目を覚ましたので、リヴァは急いでベッドの端に座りシキの頬に手を当てて容態を確認した。呼吸は乱れておらず、嗅がされた薬による副作用は気にしなくても良さそうだった。
その翠色の瞳が何時になく哀しそうだったので、
「大丈夫、安心してください。彼らはアルギナの放った刺客から、無事逃げることができました」と優しく言った。
シキはその言葉にホッと安堵すると、ぎゅっと目を閉じて感情を押し殺して肩を震わせている。
そうだった。いつもこういう時、この人は静かに心の中で泣いているのだった。
「今日ぐらい思い切り泣いたって、いいのですよ。私じゃ頼りないかもしれないけど、あなたを受け止めることぐらいできます。伊達に歳をとってはいません」
思わずシキは驚き、リヴァの顔をじっと見つめながら大粒の涙をポロポロこぼしはじめた。
運命とはなんと残酷なものなのか。期間限定でこの国に来て、偶然あの抜け穴を見つけ、お互いに心を通わせた二人が一緒に過ごせたのはほんの僅かな時間だ。
はじめて泣いた顔を見たからか、息絶えた彼女の事を思い出したからか、もう我慢ができなくなり、思わずシキの背中に手を回すと、ついに強く抱きしめてしまった。
そして腕の中で泣いている小さな身体が小刻みに震えている。
何だ、簡単な事じゃないか。最初から淋しそうな時は、こうしてただ抱きしめてあげればよかったのだ。
(本当に守りたいと思える人が出来るといいね)
そんなのもうとっくに気づいていた。また失うのが怖かっただけだ。
親子でもなく、兄妹でもなく、恋人でもない奇妙な関係。せめてこの腕の中から巣立っていくまで見守っていこう。私の小さな宝物を、あなたの代わりに……
「私はまだ十歳で、出来る事なんて何もない。今より、もっともっと強くなって、必ずこの塔の外へ出てみせるわ。そして自分の幸せを見つけるの」
どれぐらい時が経っただろうか。抱いている腕の中で彼女が固く決心したかのように言った。
リヴァはシキからこんな言葉を聞くとは思わなかった。
「これからがあなた自身の戦いです。揺るぎない信念を貫いた時、本当に人生で手に入れたいものが見つかるでしょう。今はじっと機会を待つのです。必ずその時は訪れます」
抱いていた手を、両肩に置き、目をそらさず言葉を続けた。
「もうこれからは稽古で手加減しなくていい。私はさらに強くなるのだから」
シキは今さっき泣いていたにもかかわらず、威厳に満ちた女王のような態度でリヴァに命令をした。
リヴァはその戦う決意が決まった顔を見て、あの少年と心を通わせた事が、少なからず彼女に心境の変化をもたらしたことにようやく気付いた。
いや二人の運命は残酷なんかじゃない。己の運命を何とか変えようとこうして歩み出したのだから。
「陛下の仰せのままに……」
リヴァはベッドから降りてシキに忠誠心を表すために片膝をついた。
湯殿にある大理石でできた浴槽に入りながら、眠っているように翠色の目を閉じている。
リヴァはそんな彼女の髪を梳かしながらお湯をかけていた。立ちのぼる湯気で湯殿内は白い霧が掛かったように見える。
やがて浴槽から出て、一糸纏わぬ姿で立っている彼女をそっと柔らかい布で包み、そのまま抱き上げると、男の子たちですら気付かなかった特別な扉からさらに奥へと進む。
その扉の奥には、灰色の壁ではなく、白い大理石の壁に囲まれた聖なる場所が広がる。
たった今、清められた体をその部屋の真ん中にある一段高くなった台座の上へと立たせた。リヴァは大人になるために少しだけ丸みをおびてきた体を丁寧に拭きながら、その体中に残る青紫色のあざや擦過傷を見る度に激しい良心の呵責を感じていた。
彼女は自身が望んだからか、剣術稽古で吹っ飛ばされ、厳しい指導が入っても決して音を上げない。
ふらふらとよろめき血を吐きながらも手の甲で口を拭い、剣を地面に突き立てながら必死になって立ち上がる。
真っ白の気高い彼女が口を真っ赤にして佇む姿に、指導しているリヴァですら目が離せず、冷たい何かが背筋を走る。
そんな時の事を思い出しながら、銀色の髪を乾かす。これは特に念入りに。
この時にくすぐったそうに笑うのが、稽古の時と違ってまたなんとも可愛らしい。しかしリヴァは指を唇に当てて音を立てないようにと注意を促すと、またやっちゃったと思わず首をすぼめる。
そして白い絹で出来た裾まであるバミルゴの衣装を着せ、真っ赤なリボンを腰より少し上で締めた。その間、二人に一切会話はなく、シュルシュルという衣擦れの音だけが聖なる場所に響き渡る。その上に、金の豪華な刺繍の入ったコートを羽織らせ、先程乾かした髪の上から金の花びらが幾重にも重なった豪華な簪をさす。
リヴァは真っ赤な紅を紅差し指でつけてあげる。
紅をさすことで一気に大人びた雰囲気になるこの瞬間がたまらなく魅力的だった。
絹の白い靴を履かせ、台座から降ろすと湯殿側ではない反対側の扉へ連れて行く。
両開きの扉をあけて、最後に深々と頭を垂れて送り出す。
シキは扉から出て、石の廊下を玄関ホールへと、金の簪をシャンシャン鳴らしながら颯爽と歩いていく。
玄関ホールには真っ白なキャソックを着た神官二十名ほどが両脇に整列しており、彼女の姿を確認すると、神官たちは一斉に頭を垂れて出迎えた。
神官たちの前を通り過ぎ玄関を出ると、真っ黒な唐車が停車しており、神官の数人が慌ただしく動き回る。
四脚の台を踏み台にし、神官二人が入口に懸かった御簾をかかげると、シキはその下をくぐって唐車に乗り込んだ。
唐車の奥にはどういう風の吹きまわしかアルギナが座っている。
珍しく扇で口を覆わずにシキに向かい、
「お戻り頂いて何よりです、姫さま。残念ながら彼らは途中で邪魔者が入ってきて取り逃しましたが。今回は私が迂闊でした。二度とこのような事にならぬよう国外の者を一切侵入させませんからご安心を」と目を下に落として、しみじみと口に出して言った。
お前も乗っていたら重いだろう。傾いてひっくり返ったりしない? ねえ? ねえ本当に大丈夫?
シキはそう思いながら、じっと耐えてリヴァの言葉を思い出していた。
(今は機会を待つのです。必ずその時は訪れます)
御簾がおろされ、神官たちが引く唐車は国民が寝静まった新月の真夜中に宮殿へと向かう。
怪しくも神々しい唐車は、赤い光をまるで煙のように纏いながら走り続ける。
国民の誰もが与り知らぬ重大な秘密を抱えながら。
リヴァは唐車を見送りながら、心の中で呟いた。
青い瞳の少年よ。君は知っているか?
彼女のあの白く透き通る素肌に刻まれた傷跡を。己の運命を変えようともがき苦しみ戦っている傷跡を。
その魂が叫んでいるかの如く、必死に立ち続ける姿の何と美しいことか。
もし君が彼女と共にありたいと願うなら、そのすべてを受け入れるだけでなく、精神の深い所に入って行かなければ本当の彼女に辿り着くことはできないだろう。
もし君のその無垢な瞳で、笑顔を与え心の傷を癒す力があれば……
そして玄関の両開きの大きな扉を閉めると、溜まっている家事をするため二階へと上がっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます