第3話 森の女王

 ダリルモアはヒロを抱きながら馬に跨り、次は何処に行こうかと頭を悩ませた。

 カルオロンへ戻るのは危険すぎる。

 だからといって赤子と二人ずっと野宿を続けることも難しく、深刻な問題がヒロの乳の問題だった。

 乳母の知り合いなんてそうそういるものでもないし、赤の他人に頼めるほど世の中甘くない。

「私に、乳は出せんからな……」

 取り敢えず知り合いがいるカルオロン近くの集落に行くため、再び西へと戻ろうと行き来た道をたどり、川沿いを西への向かったのだが、予感は的中し、途中よりヒロの様子がどうもおかしい。


 眩いばかりの笑顔を振りまいていたのに、笑顔どころか喃語も発しなくなり、ぐったりとしてどことなく顔色も悪くなってきた。

 母親が倒れていた時期から推測すると、もう数日は何も口にしていないはずである。

 そして集落まではだいぶ距離があるため先を急ぐこともできない。

 赤子は体が小さい分、体調の変化が顕著に表れる。

 今のうちに手を打たないと取り返しのつかないことになりかねないのだ。


 ダリルモアは手綱を取りながら、ふと彼女のことが脳裏に浮かぶ。

 そう彼女。かつての宿敵であり、一筋縄でいかない相手だ。


 彼女に会うことはおろか、接触する前にヒロ共々取り殺される可能性だって十分ありえる。

 しかしこの非常時に彼女以外、当てにできる相手が思い当たらなかった。

 ダリルモアは西へ向かっていたのだが、グッと馬の手綱を引き、南のデルタトロス山脈へと進行方向を変えた。


 デルタトロス山脈は大陸の中心に位置し、南北を隔てることから人々は山脈をデルタトロスの剣と別名で呼んだりもする。

 その名の通り、大陸に剣を置いたように見えることに由来している。

 この山脈の北側では、山脈に風が当たり、そのまま北側へ冷たい風が流れ込むことから、剣風と呼ばれる風による寒冷な気候となる。一方南側ではこの風の影響を受けることはなく、一年を通して比較的温暖な気候に恵まれている。

 この山脈が南側と北側を隔てているため、北側と南側の往来には、大陸の西側か東側の平地のルートを通らなくてはならない。

 したがってこの山脈では人が足を踏み入れない、美しい森が数多く存在するのだ。


 ダリルモアはようやく山脈の麓までやってきた。見上げると山脈はまさに剣を上に向けたように山々が連なっており、頂上付近の刃の部分は白く雪化粧されている。

 ぐったりとしているヒロを左手でしっかりと抱き、山の中へと進んだ。

「助けるからな! 頑張るのだぞ!」

 抱いている丸みを帯びたちっちゃい背中が暖かく、それだけが唯一の救いであった。

 奥へ進むにつれて、怖いくらい緑の色が濃くなっていき、当初見えていた日の光もほとんど差さない、森の入り口へと辿り着いた。


「さあここからが本番だ……」

 更に突き進むと川幅五メートル位の細い川に行き当たった。

 川は苔の生えた石がごつごつと飛び出しており、川の水蒸気が冷やされて霧状に広がっている。苔で滑らないよう手綱を慎重に操りながら森の奥へと進むと、周りに光はおろか、鳥のさえずりさえも聞こえない。

 そして跨っている馬の様子が明らかにおかしくなった。

 通常は両耳を音がよく聞こえるよう音の方に向けているのに、耳を後ろに伏せだし何かに怯えている。

 馬の首のあたりを手のひらで叩いて励ましたちょうどその時、後方で何やら動く黒い影を感じ、ダリルモアは一気に馬を走らせた。


 走る馬を追いかけるように、さらに黒い影が多数、後方より追いかけ、馬は追いつかれないよう必死で森の中を全速力で走る。

 ダリルモアは華麗な手綱裁きで、倒れた木を飛び越えたが、その倒れた木に気付かず黒い影のいくつかが木に激突した。


「最後まで逃げおおせるか……」

 突如、前方に何匹かの狼が現れた。


 体長1メートルを優に超えるその黒い狼たちは牙をむき出しにして、涎を垂らしながら飛びかかってきた。

 ダリルモアは手綱を一瞬緩め、急に左へと馬首を向け、左の森の中へと進む。

 黒い影である狼たちの何匹かは、ダリルモアを見失い、そして姿を消したが、依然として数匹の狼たちはしつこく追いかけてくる。

 馬は泣きそうな目で必至に自分が進むべき道を確認しながら走っていく。

 不意に抱いているヒロが急にピクリと動いたため、ダリルモアの集中が途切れ、思わず握っている手綱を緩めてしまい、瞬く間に追いかけてきた狼たちに取り囲まれてしまった。


 狼たちはじりじりと間合いを詰めてくる。

 ダリルモアは歯を噛みしめ、抱いているヒロを引き寄せた。


 そのとき、ダリルモアの目の前にそびえる、針のように尖った岩の上に輝く白い影が立っていた。

「……怨嗟の念」

 ダリルモアにそう言っているのは、追いかけてきた狼の二倍以上はある、真っ白い毛をした一匹の大狼であった。


 大狼は神々しく輝きながら、白い毛をひらひらと風になびかせ、ふたつの大きな琥珀色の目でじっとダリルモアを見つめている。

「ササ」

 ダリルモアがそう呼んだ途端、黒い狼たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。


「私は幻を見ているのか? 今にも喉をかき切ってやりたい相手が目の前にいる。

 よく私の前に再び顔を出せたものだね、ダリルモア」


 ササは黒い狼たちとは比べものにならない、大きな牙をむき出しにして威嚇してくる。

 さすがにダリルモアも彼女の怒りは納得しているようで、申し訳なさそうに目を下に落とした。

「昔は、私もまだ若く、ササも女王になったばかりだったし……」

 するとササは間髪を入れず

「そんな言い分、お前の口から聞きたくないね」

 とその大きな琥珀色の目を見開きダリルモアを睨みつけた。


 ダリルモアは何とか和解の糸口が見つからないか、あれこれ思いを巡らせてみたが、事が事だけに慎重に対応しなければならない。

 そして勇気を奮い立たせササに語りかけた。

「あの時、この森に入り、我々は壮絶な死闘を繰り広げた」

 ダリルモアは昔を思い出すように、森の奥の方を眺めた。


 そうササにはじめて会ったのは、ダリルモアが騎士として徐々に知られるようになってきた頃だ。

 ある主君に雇われていた時に、その主君が自らの威厳を知らしめるため、新しい森の女王に会いに行くと言い出した。


 ダリルモアは無意味なことだと、取り合わなかったものの、同じ主君に雇われていた彼の親友が、その主君や数人の家来と森に入っていったのだ。

 今になって思えば、その親友自体も彼女に会いたかったのかもしれない。

 新しい森の女王とは言うまでもなくササの事であり、その姿を一目見れば、誉れを手にできるとされる彼女は、戦に携わる者たちの間で知られる存在であった。

 ところが主君たちは森に入ったきり、行方がわからなくなってしまったのだ。

 仕方なく、ダリルモアは部下を伴い森へ主君や親友を探しにきたのだが、ササは新女王らしく罠を仕掛けてきた。


 主君や親友たちが捕らえられているところに救出にきたダリルモア達だったが、ササは狼たちに指示し回り込んで待ち伏せさせ、残りの狼たちはそこに向かいダリルモアたちを追い込み、逃げ場がなくなった状態で襲ってきた。

 ダリルモアは果敢にも剣をとり狼たちに立ち向かっていったのだが、この時、狼たちの中にいたササの子どもである大狼を殺めてしまったのだ。


 狼は通常、四、五頭ほど子を産む。しかし無事に成長するのはこの半分にも満たない。

 ササと同じ大狼が誕生するのは数十年に一度あるかないか。

 その大狼をダリルモアは殺したのだ。ササは怒り狂い、最後までダリルモアと共に戦った、ダリルモアの親友を噛み殺し、一人となったダリルモアへと迫る。


 その姿を一目見れば、誉れを手にできるというが、ダリルモアは迷信など信用しないし、実際親友はササに噛み殺されてしまった。

 もはやこれで命運が尽きるかと思った時、天がダリルモアに味方した。

 なんとササの近くにあった木に雷が落ちたのだ。

 近距離であったため一瞬、ササは恐怖心から震え、その隙にダリルモアは難を逃れることができた。


 ササは昔を思い出し、哀しい目をしてダリルモアを見ていた。

「ところでさっきから大事そうに抱いているそれはなんだい?」

 ずっと気になってはいたが、ダリルモアに対する怒りの気持ちを抑えられず、なかなか聞き出せずにいたのだ。


「この子は、私の希望だ」

 ササはしばらく岩の上からヒロを見ていたが

「虫の息のようだね」と言って岩から降り、ダリルモアに近づいてきた。


 ササはヒロとダリルモアを舐め回すように見ながら、ダリルモアの足元まで来た。

 彼女はこういう時、艶っぽい女を全面に押し出して、相手の情報を引き出そうとする。

 自分にとって有利か不利か確認するために、女王として身に着けた知恵だ。

 ダリルモアは目をぎゅっと閉じて話し出した。

「ササ、この子に乳をあげてほしい……」

「なん……だと……」

 ササの白い毛がいっきに逆立ちはじめたのを、ダリルモアは目を閉じていても感じとることができる。

 猛烈な怒りはある一定を超えると防衛本能が働く、まさに今の彼女はそんな状態だ。


「私はお前に大事な子どもの大狼を殺された。それからどんな月日を過ごしてきたかお前にわかるかい? それなのにお前は希望だとか何とか言って、その子を助けろという。私の子は殺したのに!!」

 今にも泣きだしそうになってササは小刻みに震えていた。


「……そう……ムリを承知でお願いしている……」

「だったら何故?」

「この子を救いたいからだ!」


 ササはこのままでは埒が明かないと、この二人の息の根を止めようと思った時、ダリルモアは泣きながらササに告げた。

「子を殺されたお前の怒りは至極当然のこと……だが、私も後に引くことはできない。お前に私の命のかわりを進呈しようそれでどうだ?」


「命のかわり?」

 ササは急に何を言い出すのかと思った時、ダリルモアはそっとヒロを地面に置き、剣を取りだし、おもむろに剣を左手に持ち替え、そして愛おしそうに右腕を見て、なんと自らの右腕を切り落としのだ。

 剣は腕の骨をバキバキと砕き、神経や筋肉を切り裂いた。

 ダリルモアの顔が苦痛で歪む。


「ササどうだ! 大陸一の剣士の腕で、今まで奪ってきた魂の塊だ。これを喰らえば魂の分だけ精を得られるぞ!」

 ササはうつけたように立ち尽くしていた。

 ダリルモアにとって剣士の命とも言える右腕を失うのは、ササが牙を失うようなものである。失ってまで「乳を飲ませろ」なんて常軌を逸している。


 ササは冷たい笑みを浮かべ

「哀れなダリルモア……自らの過ちの為に大事なものを失うなんて」

 そう言いながらダリルモアがたった今切り落とした、右腕を口で銜え、彼の目の前で食べはじめた。

 口を血だらけにし、骨を砕きながら口の中へと押し込んで行く。

 ダリルモアの努力の結晶を、あたかも否定するかのように彼自身に見せつけて。


 ダリルモアは着物を破り、切断した傷口を丁寧に巻き取り止血しながら

「失ったのではない。必要じゃないと判断したからだ」と言い放った。


 ササは思ってもみなかったことをダリルモアが口にしたので少々驚いたが、右腕を食べ終わった途端、舌で口のまわりをベロっと舐めた。

「ダリルモア……私にも譲れない信念がある。しかしお前の気持ちは承知した。お前の魂は私の血や肉となり受け継がれる。望みどおり赤子に乳を授けよう」

 そして地面でぐったりとしているヒロを銜えて自分の寝床へと連れて行った。


 岩の割れ目に細い隙間があり、ササはヒロを銜えその先へ向かうと、中は空洞になっており、天井のわずかな隙間から光が差し込んでいる。

 森の厳しい温度変化を受けることなく、寝床は一年中暖かい。

 ササはぐったりしている彼の口元に乳首を近づけると、最初は反応しなかったが、口元が乳首の触れた途端、勢いよく吸い付いて啜りだす。ヒロが乳を飲んでいたため、寝床にいた他の狼たちもササのもとに数匹やってきて乳を飲みはじめた。

 黒い狼たちの中に混じって一匹の白い毛の狼がヒロの隣で乳を飲んでいる。

 ササは鼻で愛おしそうにその白い狼をつついた。


「タイガ……」

 タイガは今年生まれたばかりの大狼で、今はヒロより一回りほど小さい。

 ダリルモアにとってヒロが希望ならば、ササにとってはこのタイガが唯一の希望だ。

 恐らく大狼が産まれるのはこれが最後であろう。

「タイガ……私はお前が一人前の大狼になるためならどんな事だって厭わない。たとえ宿敵の精でもお前のためなら喜んで受け入れよう……」


 そう言い、ササは数日間ヒロに乳を与え続けた。

 ダリルモアの右腕の「精」はこうしてヒロやタイガに受け継がれることとなり、ヒロは打って変わって元のように元気な姿に戻った。

 すっかりタイガと仲良くなり、お腹が満たされると二人でじゃれ合って遊んでいるのを、ササは暖かく見守っている。


 一方、ダリルモアは傷口の止血はしていたが、炎症をおこしており、そのため熱も出はじめていた。一刻も早く手当しなければならない状況を察してササが訊いた。

「あの子はもう大丈夫だ。今後、乳は必要ないが、お前はもう限界だろう?」

「……本当になんでもお見通しだね。そういう所、嫌いじゃないよ」

 ダリルモアは身に着けている着物から紐を一本取り出した。

「行くのか?」

「ああ……」

「ダリルモア……お前はその子が何者か知っているのか?」


 ダリルモアはヒロをタイガと遊んでいるところから抱いて連れてきて

「この子は恐らくコドモタチ……」とササにポツリと伝えた。

「危機が迫っているときにあらわれるという……その子が……まさか今?」


 まるで頭にキスをするかのように、ササはヒロに近づき鼻を頭につけた。

「可愛いヒロ。お前に加護を授けよう。その力を本当に必要になるまで使わないように」

「私はこの子を立派に育てることが宿命だと思っている。未来に希望を見出すために……。ありがとうササ、前よりいい女になって驚いたよ」

 ダリルモアはヒロをその紐で背中におんぶして、連れてきた馬に跨り、森の奥へと消えていった。


「コドモタチか……」

 ササはタイガの傍に寄り添い、彼らが消えていった森の方を複雑な表情で見つめていた。


 山脈から離れダリルモアは迷わず西へと進路を取った。

 すでに手足は冷たくなり、時折体の震えも出てきている。ヒロはそんなダリルモアの背中が心地よいのか手足をバタつかせ、眠くなると勝手に寝ているようだ。

 今は目的地に無事到着することだけを願いダリルモアは馬を走らせた。

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