遠藤周作の「沈黙」を読む

〇ふたつの視点


 遠藤周作の「沈黙」について、主にふたつの点から語りたい。

 ひとつ目は、読み物としての「沈黙」について。

 ふたつ目は、日本人とカトリックについて。




〇読み物としての「沈黙」


 日本人とカトリックについて語るうえで、「沈黙」は重要な小説である。

 しかし、その観点の前に、読み物としての「沈黙」について述べる。



・良い点


 まず、大前提として、単純におもしろい小説であることを強調しておきたい。

 扱っているテーマの重さから、読まずに敬遠している人もいるが、それはもったいない。

 なぜ、神が沈黙を続けるのか?

 その謎を解くミステリー小説としてよめばよい。


 こう書くと、「沈黙をミステリー小説あつかいするとは何事か」とお叱りを受けるかもしれない。

 昔、山崎豊子の「白い巨塔」について、エンターテイメントとしておもしろいと、ある掲示板に書き込んだら、作品への冒瀆だと怒られた。

 作者の山崎自身が、「白い巨塔」はエンターテイメントとして書いたと言っているのにもかかわらず。


 小説が現実社会に与えた影響を、エンターテイメント性、おもしろさよりも上に置くのは、下劣極まりない価値観だ。

 政治的主張で、作家の良し悪しを判断するのと同じくらい愚かな話である。


『日本人とカトリックについて語るうえで、「沈黙」は重要な小説である』

 冒頭でそう書いた。

 しかし、それよりも重要なのは、小説としておもしろいかどうかだ。

 いや、作品の中で言及されている宗教的な主張が大事なのだから、物語としての出来不出来を問う必要はない。

 そう反論する者には何と言おう?

 私はとしての「沈黙」について話している。それに対して、あなたは小説以外の何かとして「沈黙」を読んでいる。

 と答えるか。


 小説としての「沈黙」のおもしろさに話を戻すが、ジェイムズ・ジョイスが「ユリシーズ」で、物語の構成をホメロスの「オデュッセイア」に対応させたように、「沈黙」では、主人公の行動が、ユダの密告によりイエスが十字架にかけられるまでの過程と対応している。

 これは、物語に深みを与える、よいしかけだと思う。


 あとは、文章のつなげ方がうまい。

 この点に関して言えば、物書きのよい手本になっている。



・悪い点


 いちばんの難点は、主人公の視点と、いわゆる神の視点が混同しており、読みづらい。

 ふたつの視点を混同させることで、何らかの効果をねらったのであれば、そのもくろみは失敗している。


 また、キリスト教の用語やラテン語、長崎の方言に対するフォローがされていないので、そこで目が止まってしまう。


 難点の最後は、小説の締め方。作者の意図はわかるが、私はやめるべきだったと考える。

 読み手のリズムが崩れ、読後感に悪い影響を与えている。

 少なくとも長すぎるのはまちがいない。



 多少の難はあるが、「沈黙」は普通に読めば、普通におもしろい小説である。

 次のように、ひとを前向きにさせる言葉ものっている。

『私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ』(遠藤周作/沈黙/新潮文庫/位置№3668/3811)




〇日本人とカトリック


・遠藤の問題提起


『じゃが、俺にゃ俺の言い分があっと。踏み絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。俺を弱か者に生まれさせおきなが、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃ』(位置№2195/3811)


 どうして、カトリックが日本で広まらないのか?

 思いつくのは他の宗教にも当てはまるものばかりで、特有の原因はわからない。

 ただ、カトリックだけの話ではないが、迫害や意志の弱さなどにより、信仰しんこうを守ることができなかった者たちがいる。

 そういう者たちを、カトリック教会はもはや教徒ではないからと、切り捨てて来なかっただろうか?

 信仰を守り切れなかった者たちも生きて行かなければならない。

 それを、もはや自分たちには関係のない者として切り捨てるのは、組織の論理としてはわかる。

 しかし、その姿勢は、宗教とあいまいな関係を続けて来た日本人には、厳しく、冷たいものに見え、距離を置いてきたのではないか。

 殉教者の最後ではなく、棄教者の末路を見聞きして、日本人はカトリックを評価したのかもしれない。



『その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ』(上同/位置№3328/3811)


 踏み絵を踏んだ者を許すキリストならば、日本人は受け入れるだろう。

 しかし、それはカトリックの規定するキリストではない。



・どうすれば、日本でキリストの教えが広まるか


 カトリックなどの組織から離れた信仰という形ならば、日本でもキリストの教えが広まる余地はある。

 既存の組織が示しているキリストから離れた、日本人に合ったキリスト。

 そのようなものは正しいキリストの姿を示していないと、既存の組織は言うだろう。

 しかし、それは、その組織にとっての正しいキリストでしかない。

 キリストの教え自体は、日本でも広がる可能性はある。

 しかし、それを担っている組織の姿勢が日本人には合っていない。




〇神に対する疑問


 「沈黙」と直接の関係はないが、私には神に対する素朴な疑問がある。

 なぜ、自分を信じろというのか。

 なぜ、自分以外の神を信じるなと言うのか。

 なぜ、自分を信じる者と信じない者で対応を分けるのか。

 なぜ、人間の価値観に基づいた善人、悪人で対応を分けるのか。


 この人間に都合のよすぎる存在を、神と呼んでいいのか。

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