火星年代記:砂の海に帆を上げて
人は個体差が大きい。
だれかの大好きなものが、だれかの大嫌いなものである。
であるから、読む本の選択などは、各個人に任せておくべきで、他人が口を挟む話ではない。
しかし、それでも勧めたくなる本はある。
たとえば、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』だ。
『火星年代記』は、人類の火星への進出と、地球の危機に際して出戻っていく様子を描き、核戦争により地球の文明が崩壊し、ふたたび火星を訪れた「地球人」が、「火星人」として生きようとする話である。
このおわりとはじまりの物語を、レイ・ブラッドベリが詩情豊かに描いている。
好きな詩は何かと問われれば、私は本作と『さようなら、ギャングたち』をあげたい。
二〇三五-三六年の章を読んで、『さようなら、ギャングたち』を思い出した人もいるのではないか。
『火星年代記』は優れた詩なので、何度読んでもおもしろいし、読むたびに発見がある。
途中から一か所だけ目を通しても楽しめる。
また、本を読んでいて、あまりイメージの喚起を受けない人でも、本作を読むと、他の作品に比べて、想像力を刺激されるはずだ。
そういう作品なのである。余白が多いというか。
火星人の姿も、いろいろと想像を掻き立てられる。
私は、メキシコの翡翠の仮面が浮かんだ。二〇三六年十一月の章の描写などから。
作者のレイ・ブラッドベリはアメリカ人であるため、肯定・否定関係なく、キリスト教の影響を感じる。
ラストあたりは、聖書の知識があるかないかで受ける印象が変わる。
言い換えると、聖書を知っているとおもしろさが増す作品だ。
個人的には、火星に進出した人類が、地球での核戦争の始まりを受けて帰還を開始するあたりからおもしろくなった。
そこまでは少々手こずった。
あと、星新一はレイ・ブラッドベリから受けた影響について言及しているが、『火星年代記』を読んでいると、「星のあの作品は、ここから思いついたのかな」と思わせる場面がいくつかある。
例を挙げれば、二〇三六年十二月の章は、「一日の仕事」(『だれかさんの悪夢』収録)を連想させる。
星新一の作風は、徹底したムダの排除が特徴である。
それは、星作品の機能美、独自性を生み出している源だが、その反面、その排除が表現の限界を生み、彼への評価の限界にもつながった。
星新一は子供が読むもの、卒業するものという言は、あながちまちがいではない。
星が切り取り過ぎたものを、ブラッドベリはちょうどよく作品に残している。
彼はブラッドベリになりたかったのかもしれない。
後期の星新一は民話調の作品を多く残した。
レイ・ブラッドベリもSFから離れ、幻想小説や怪奇小説を中心に書くようになった。
外見だけ見れば、このふたりはよく似た作家である。
「火星年代記」に話を戻すと、何といっても終わり方がすばらしい。
乗ってきたロケットを壊し、「火星人」となった三人のアダム(男の子)たちが、地球から四人のイブ(女の子)が来るのを待つ。
女の子がひとり多いことを受けて、アダムたちのママが口にする「それが、あとで面倒なことになりそうね」という一言で、その後の火星の歴史について、いろいろと想像がふくらむ。
「火星人」における最初の殺人の発生。もしくは一夫一妻制の放棄。
数が増えれば、争いも起きるだろう。
砂船で争い合う未来の火星人たち。皆、戦闘用の緑の仮面をつけている……。
この壮大なお話の中で、いちばん好きな登場人物は、火星のアダムになることを拒んだ男、ウォルター・グリップである。
火星でひとりパイプをくゆらせながら、日々を過ごす様にあこがれる。
だから、話としていちばん好きなのは、グリップが主役の二〇三六年十二月の章である。
文章について話せば、三人の分担による訳だが、ちがいは気にはならない。
言葉選びが少し独特な人がいるが、その人の癖ではなく、もともとの文体を気遣ったためかもしれない。
二〇五七年四月の章では、章題である「長の年月」の「長の」が繰り返し使われることで、話に深みがましている。
最後になるが、作中で、ロボットネズミが掃除をしてくれる場面があるのだが、我が家にも何匹かほしい。
その場面が出て来る二〇五七年八月の章の無機質さも、捨てがたい味わいがある。
星新一テイストの。
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