31話-今後-
その時の私は妙に勘が良かった。
今までの経験を分析して、【彼】に会えるとしたらどういう場所か、を察知することができたのだ。
盗聴を避けるために、それでいて監視を行うために、向かいのホテル―――ミシェルたちに初めて会った【迎春閣】の17階―――談合していた部屋に比べて2階分上の部屋。
その部屋で待ち受けていたところ―――予測していた通りに、【彼】が現れた。
もちろんまぐれ当たりの可能性もあるし、そもそも【彼】が私の待機を知ってて見過ごした可能性もある。
だがそんなことは大した問題ではない。
今一度、今回の会談内容について、私は【彼】に意見を問う必要があった。
「……言いたいことがあるようですね」
「……どういうことなんですか? あのヤグルマ長官と、チェルージュの保衛部長官との会談」
「駒に使われたことを言っているのですか?」
私が全部言う前に、ことの詳細をものの一言で表す【彼】に、おもわず後ずさりしたくなる。
今の私の感情も、一連の任務についてどう考えているのかも、この男には丸々お見通しらしかった。
「……私は、国民の安心を手に入れるつもりで、チェルージュに潜伏したつもりでした」
ゆっくりと、用意していた言葉を紡ぐ。
「でも私が手に入れたはずの国民の安心は、今さっき、上層部の人間たちに売られました。それも、仮想敵国に」
話している間、同情するような視線では一切なく、しかしこちらから視線をそらさないままに、【彼】は黙って聞いていた。
【彼】の威圧感に気圧されそうになるのをこらえて、私は問いかけた。
「上官は、最初から全部承知で私に潜入活動をしろって言っていたんですか……? 私は今回の潜入作戦を国の平和のためにやったのであって、権力者の汚職のためにやったのではありません」
「それは単に君の想像力不足じゃないですか?」
容赦ない返事を投げかける【彼】。
「君は今になって、自分が汚職の為の駒として使われたことに憤っているようだが、それは今の今まで上層部の腐敗を疑ってかからなかった君自身の責任でもあるのではないですか」
「っ……自国の政敵に勝つために仮想敵国と取引するなんて、誰が想像できるって言うんですか。手段と目的が逆転しています」
会話の中で【彼】が時に冷徹な発言をすることは、こちらも承知済みだった。
だからなんとかして返事をしたが、今こうやって言い返すだけで精一杯だった。
今までの私が組織に対して従順すぎた、それは事実かもしれなかったから。
だが、今さっきの腐敗会談の被害者はおそらく私だけではない。
私が諜報活動の中で騙してきた、罪のない市民たちもまた、櫻宗の与党派と、野党派の狭間で身を削られている。
私が組織に対して従順であり、かつ無知であったが故に。
「……これだと私は……私は、何のために……」
何のために、カナタとセツナをアイドルにしたというのか。
私は【彼】を真正面から見据えつつも、言葉を紡ぎだせない状態にあった。
頭の中で回る思考の渦の中に、行動神経が追い付かなかったのだ。
私が今まで工作活動をしてこれたのは、国の為という大義名分があったからだ。
国に拾われた少女時代以来、そう教わって工作活動のための訓練を受けてきた。
だがそれならば、今の私と、今の会談は何だったのだろう。
さっき部屋の隅で聞いていた一連の活動は、【霧】、そして政党、ひいては老人たちの権力を守るための行いでしかなかった。
私が【霧】に利用されるのはいい。
彼らがいなければ私はとっくに戦火の中で焼け死んでいただろうから。
だがあの少女たちは?
アイドル活動を通して自分を変えることのできたセツナは?
不安定な情勢の中で、それでも私のプロデュースするアイドル活動を愛してくれたカナタは?
戦後生まれの彼女たちは、本来新たな未来を築いていくべき存在だったはずだ。
でもこれじゃまるで、旧時代の老害たちの権力を維持するために、私は彼女たちを利用したようではないか。
いや、彼女たちだけではないのかもしれない。
もしかしたら、私が偽の映画製作活動に携わっていた時。
一人の少女を、あの映画製作で裏切った時。
あの時点で、【霧】はここまで腐敗していたのかもしれない。
真相は見えてこないが、【霧】、そして私は、今の今まで二人や三人ではない、数えきれない人数の国民を、自分たちの保身のために裏切ってきた可能性がある。
影となって国民を守るのが、【霧】の本来の存在意義だったはずなのに。
他国民のみならず自国民までも裏切ってやることが、国を守るのではなく権力にあぐらをかくことなら、そんな諜報機関など存在する意味あるのか?
まして、そんな組織の操り人形として動いてきたこの私は―――
そこまで考えたその時、また彼が口を開いた。
「自分の【在り方】について、考えているようですね」
一瞬の表情を見て、今現在の思考まで読み取る。
相も変わらず【彼】の分析力は卓越していた。
それとも表情でバレるくらい、今の私は途方に暮れていたのだろうか。
「前々から思っていました。あなたほど自らに無頓着な人間も珍しいと」
……は?
「駒どころか、生贄の山羊に使われることすら厭わないエリート工作員。政治家の影武者となって爆弾テロを食らい、全治に数年かかる負傷を追うことも厭わない優秀なスパイ。自分に興味を持てない人間は工作員としては組織にも従順だし、優秀かもしれない。だがそれは同時に主体性に欠け、自分の意見を述べられないということでもあった。そんなあなたが今、組織の腐敗に対して私に異議を申し立てようとしている。自分自身の意見を言おうとしている。明らかに、今までとは違う傾向だ。」
【彼】にそう言われてはっとした。
【霧】の一構成員に過ぎない私が、このような感情を持つことの異常さに、今更ながら気づいたのだ。
本来【霧】の歯車に過ぎない私は、組織が腐敗しようが何の感情も持たずに、歯車として生きていくべき人間だったはずだし、私自身もそのことに納得していたはずだった。
だから恐らく、数年前、いや、ほんの一年前の私であれば、今のように組織の腐敗に直面していたとしても、関係ない、仕方がない、と割り切っていたはずだ。
少女の頃に空襲で死にかけて以来、私は割り切っていたはずだから。
死ぬも生きるも、いつ何をしてどうなるかも、その場の偶然次第で、そこに個人の意思や能力などは微々たるもの、と。
そんな私が、今組織に対して、個人的な感情を持っている。
そんな事実を彼に指摘されて、私自身が内心他人事のように驚いていた。
だが。
「今君の心は、大きな迷いの中にあるようだ。自らが今後をいかに生きるかの迷いの中にね」
「今後……!?」
続けざまに【彼】の口から出たその言葉に、私は思わず戸惑った。
自分が今後を如何に生きるか、という言葉を聞いて、何も具体的なイメージがわかなかったからだ。
腐敗した組織の為にしか動いていなかった、という自分の現状がそのままでいいとは、最早思えない。
脳の部分で仕方がないと割り切れても、感情の部分では納得できない。
それはあの時フィルムをゴミのように焼き捨てられた時に感じた怒りからも明らかだった。
だが組織の駒として生きてきた人間は、組織の腐敗に気づいた時、どのように生きればいいというのだろう。
組織を抜け出す?
無理だ。
私はこの生き方しか知らない。
そういう少女時代を過ごしてきた。
かといって、これ以上組織の下で動くのは感情が納得しそうになかった。
恐らくこのまま組織の歯車として任務を続けていたとしても、待っているのは組織のへの不信感故の戸惑い、そこから生まれる致命的なミス。
スパイにとって、致命的なミスは死を意味する。
自分の生きる意味。
自分の生きる理由。
今まで考えてこなかった、考える必要のなかった問題に直面した結果、私の脳内を
それでもなんとか、私は反論しようとした。
「今後って……今後ってどういう意味ですか? 国を背負う私たちにとっては、今この瞬間こそが大事なはず。今の私たちの活動如何では、私たちの今後どころか自国の未来すら潰えるというのに」
反社的に口から出た反論の内容に、内心自分で失望していた。
【霧】が腐敗しきっていると知りながら、その腐敗を知った以上最早諜報員として任務を遂行するのは困難だと知りながら、まだ自分は【霧】の諜報員として生きようとしている。
国を守るために国の影となる、最早幻想でしかない【霧】の工作員として。
結局のところ、組織に育てられた自分が、組織なしで動くことなど土台無理な話なのだろう。
たとえその組織が、知らないうちに根元から腐っていたとしても。
「国の方が、私たちを必要ないと言っても、ですか?」
【彼】のその返答に、思わず私は言葉に詰まった。
またしても、反論できなかった。
先ほどのチェルージュとの取引で、ヤグルマは取引のために【霧】の予算削減を示唆していた。
企業が社員をリストラするように、諜報員たる私たちも解任されかねない。
機密情報を知っている以上、ただの解雇ではなく政治犯として幽閉されるのだろう。
私は組織なしには動くことができない。
だが、組織の方が私を必要としているとは限らない。
事実、諜報活動の中で組織に切り捨てられた諜報員は枚挙に暇がない。
「貴方が年老いるまで国が面倒を見るようであれば、あんなくだらないデマを流したりもしないでしょうに」
あんなデマ、と聞いて、私は帰国直後に読んだあの新聞の事を思い浮かべた。
【彼】も、報道機関を巻き込んだ上層部のやり口に不満を抱いていることは明らかだった。
「国に見捨てられた時。国自体が無くなった時。あらゆる事態を想定して、今一度あなたはもっと真剣に考える必要がある。自分の【今後】、自分の【在り方】をね」
「考えるって……どうやって、ですか。【霧】のために、国のために動いてきた私が、【霧】や国が腐敗したときどう動けばいいかなんて、私は誰からも教わってないし……」
―――そもそも、あの日空襲でがれきの下敷きになって死ぬはずの私を救い、【霧】に入れ、スパイとしての生き方を叩き込んだのは貴方じゃないか。
―――今になって【今後】や【在り方】を考えろだなんて、無責任じゃないか。
一瞬そんな考えが頭に浮かび、声に出そうとして。
感情的に勢いよく振り返った時。
その場には誰もいなかった。
【彼】のいつもの雲隠れに、私は今までで一番の苛立ちを覚えた。
苛立ちが過ぎ去った後私の心中を支配したのは、とてつもなく虚無的な感情だった。
これまで何度かあった任務失敗の時ですら得たことがない、深くて重い空虚だった。
脳内に何か救いを求めようとして、記憶を反芻し。
―――トクン。トクン。
例の鼓動と、【鼓動の原因】に思い至った。
だが即座に、私はその鼓動を思考から振り払った。
私に、その【鼓動の原因】にすがる資格はなかったから。
【鼓動の原因】を切り捨てたのは、私自身だったから。
一瞬視界に映った自分を見て、自己嫌悪に陥って、たまらなくなって、私は部屋を出て行った。
一瞬見ただけなのではっきりとはわからないが、涙を浮かべていた気がする。
奇妙な話だった。
存在自体が空虚なスパイが、虚無的な感情を持つなんて。
理由を説明づけるとすれば。
【鼓動の原因】に、それだけの力があったからなのだろうか。
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