29話-報道-


 目を疑った。




『チェルージュ、【歌声】の実験に成功』


『すでに実用段階か』


『チェルージュの潜伏者が、完成した【歌声】施設の実態を明かす』






 【彼】から予定されていた任務の中止を伝えられた日の翌日、タバコ屋で売られていた新聞の一面を飾ったフレーズだった。


 私が仮の住まい―――カナエ・シモツキの家ではなく、数週間前に新しく購入した待機中用のアパートの一室―――で広げた大手全国紙。その一面には、私が【霧】に向けて提出した計器の写真とは、全く異なるものが載せられていた。




 あの国に【歌声】などない。


 その事実を、イメルダに出会う直前、空港に来ていた【霧】の同胞を経由して、【彼】に数枚の写真のフィルムによって伝えたはずだった。



 なのに新聞は、私がチェルージュに潜り込んで得た情報とは真逆の事を民衆に伝えていた。




 しばしの混乱と逡巡の後、私は一つの可能性にたどり着いた。


 【霧】の上層部に、虚偽の情報を伝えた人間がいる。




 上層部―――【彼】に指示内容を与える、【霧】のトップ―――の中には、大手新聞社などのマスメディアとのパイプが深い幹部も数多く在籍している。


 デマ記事の文面の中には、「チェルージュに潜伏した人物からの情報筋によると」というフレーズがあった。


 そして、【彼】に渡されたフィルムが、上層部の手元にわたるまでは、恐らく数日。


 私の潜伏活動が、上層部の忖度によってデマに利用されていることは明らかだった。




 ゴシップ誌ならともかく、大手新聞の一面に、事実無根の記事が載っていたのだ。


 情報伝達の過程で齟齬が起きたとも思えず、【霧】あるいはそれを統括する情報部や現政権で、何か私の思惑から外れた陰謀が動いていることは確実だったのだ。




―――我々も操られる側の人間なのです。政府の人間たちにね。




 脳内で、いつかの【彼】の言葉がこだました。


 まさか。


 情報部が、私のチェルージュ潜伏作戦の時点で、この報道を画策していたとしたら?


 最初からこの報道をすることが目的で、政府や【彼】は私をチェルージュ国に調査に行かせたというのか。




 一年にわたる【ロングデイズ・ジャーニー】のプロデュース活動と、それでカモフラージュした私のチェルージュでの諜報活動。それ自体が、このデマと何かしらの関連性があった、という可能性がある。


 自分を操る側の人間だと思い込んでいた私は、本当は彼らに操られていた……?




 安い陰謀論じみた仮説ではあるが、【霧】自体が【歌声】に関するデマを流しているのかもしれない。


 他国の諜報機関ならいざ知らず、【霧】とはそういう機関だ。



 だが何のために?


 ありもしない破壊兵器の存在を報道して、いたずらに国民を煽る意図が見えてこない。


 そもそも今こんなデマを流すなら、私をチェルージュへと潜入させる必要なんてあったのか?



 私が自分自身に、これまでの任務の根幹にかかわる問いかけをしていた、その時。




「おめでとう」


「ひっ……」


 気が付いたら、【彼】がその場に座っていた。


 いつの間にか、【彼】はコーヒーが入れられたカップを片手に持っていた。




 声が出てしまったその口を、私は思わず塞いだ。


 今まで急にその場に【彼】が現れて、驚きはしても悲鳴など上げることはなかったはずなのに、自分としたことが迂闊な反応だった。




「突然乱入した男に悲鳴ですか。女子大生らしいリアクションですね」


 皮肉交じりのその言葉に焦りつつ、私は向き直った。




「貴方は任務を立派に遂行したようですね。その証が、この新聞に文字となって出ています」


 任務を遂行。


 我のない自分ながら、達成感のある言葉だった。


 新聞の見出しが、自分の報告内容と真逆の内容でさえなければ。


  


「次の指令を遂行することで、貴方の今回の【諜報】も完遂される」


「は、はい」


 基本的に、冷静に受諾してきたはずの彼の指令。


 しかし今回は、胸の中の煮え切らない感情を制御できず、思わずどもってしまった。


 恐らく今の私のスパイとしてのスキルは、訓練生時代並みに退化している。


 


「……動揺しているのですか、この見出しに」


 まずい。


 バレた。


 とは言っても【彼】ほどの優秀な工作員なら、私の動揺とその理由を見抜くなど朝飯前なのだろうが。




「不思議ですね、今まであなたは、自分が囮になることを厭わない、優秀なスパイだったはずなのに」


 その通り。だと思う。


 諜報・工作の全貌がスパイたる我々に知らされないことなど、【霧】の二十年間では数えきれないほどにあった。


 盗聴テープを入手した潜入先のスパイと入れ替わり、身代わりとなって爆弾テロの脅威渦巻く死地に赴いたことだってある。


 著名な政治家の影武者となって爆弾テロの被害を受け、十代の内の一年間を【霧】の運営する病院で過ごしたこともある。


 それに対して、私は文句を挟もう、と考えたことは一度もなかった。他の構成員に同じく。


 組織の望みこそが、私の望み。


 それ以上は何かを主張する必要も、考える必要もなし。


 組織の大局で観た目標が達成されれば、それ以上求めるものは何もなかったからだった。






「ともかく、工作員として任務は今まで通り遂行するように」




 しかしこの時この瞬間、私が覚えた感情は戸惑いだった。


 別に今でも、囮となることは怖くない。


 現に【霧】の構成員として、単独でのチェルージュ潜伏もやってのけた。




 だったら、なぜだ。


 なぜこの瞬間、私は、はっきり、はい、と言えなかったんだ。




 納得できていないのか。


 国を思って遂行した工作活動が、何か、言いようのない不気味な何かに利用されているかもしれないことに。



 あるいは。



 ―――トクン。トクン。




 忘れられていないのか。


 心の中で。彼女たちのことを。


 彼女たちの歌を。彼女たちのパフォーマンスを。




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