28話-直後-
ターミナル内のとある一般人立ち入り禁止区域。
【霧】の協力者の助けを得て、私はとあるオフィスへと入り、入り口脇にあるシュレッダーに向きなおった。
そのシュレッダーを使って私は、カナエ・シモツキとしての社員証、保険証などあらゆるデータをすべて破棄した。
その後、更衣室で衣服を下着やアクセサリーまですべて脱ぎ、取り外し、指定されたロッカーへと押し込む。シャワーの後、代わりに別のロッカーに入っていた衣服を身に着けた。
着たのは、白のブラウスに青のロングスカート。休暇中の女子大生を思わせる服装で、初見ではカナエ・シモツキとは似ても似つかないラフな印象を持たせている。
下着などの目に見えない部分を含めて、自身の一切の印象を【事務的な女性】から脱却させる。
鞄、財布などの持ち物も、破棄して新しいものに代える。ある程度の年季を思わせるように、鞄の一部には傷がついていた。
カナエ・シモツキを殺して、女子大生という新しい仮面を被りなおす儀式。
自分がただの【霧】のスパイへと戻るために、必要な儀式だった。
今の私を見て、カナエ・シモツキと同一人物だと気づく人間はいないだろう。
そういう別人に成りすますすべは、【霧】に入った当初から【彼】に叩き込まれている。
油断はできないが、チェルージュからの監視の目もある程度はごまかせるはずだ。
オフィスをでて、恐らくターミナルに現れるであろう【彼】と連絡を取ろうとしていた、その時だった。
生憎電話コーナーは満室なので、座席ブースに座って待っていたその時。
「達成感にでも包まれてんっすか、【カナエ】姉さん?」
後ろの席から、声をかけられた。
無視しようとしたが、あることに気づいて振り向き、返事をした。
「私はそんな名前じゃないわ」
そもそも、カナエという人物はもう存在しない。
「じゃ、なんて名っすか」
「初対面の人間に教えると思う?」
「そっかそっか、そーっすねごめんなさい。あー、アタシのことはここじゃ【イメルダ】とでも」
「……【同業者】同士でここみたいな目立つ場所での会話は控えるように。そう【彼】から言われなかった?」
直接の面識はないが、声と見た目とそぶり、何より自分を【カナエ】と見抜いたことでわかった。
彼女――イメルダは私の【同業者】―――【霧】のスパイだ。
【霧】の一員なら、【彼】とも面識がある筈だし、櫻宗の空の玄関口であるこの国際空港に私が異なる姿で行き来している、という状況から、何か任務を終えて変装をし直した後だ、という推理は容易。
また【霧】のスパイは、名前やサインを介せずとも互いを確認できるように、見た目と声だけで個人を特定できるための訓練を受けている。
彼女は、私より五年ほど後輩の、【霧】での諜報部門に勤めている女スパイだ。
見た目は十代前半で、まだ子供と言っても差し支えない外見だが、れっきとした【霧】のスパイの一員。
事実、私も彼女より一、二歳ほど上の頃に初めての任務に携わったので、少女のスパイの存在は想像するに難くはない。
それを踏まえて、私は先輩として指摘をするように彼女―――イメルダに、彼女を後輩と見たうえでの返事を返してみたのだ。
接触者に怪しまれないように、声を張らずに世間話のようなトーンでの返事だった。
「いやー、アタシは【彼】の言うことが絶対とは思ってねーんで。姉さんと違ってね。案外空港の入国ゲート前って、会話は聞かれないもんっすよ。みんな海外から帰ってきてヘロヘロっすし」
一瞬私は、その言葉の意味を図りかねた。
私だって、【彼】に対して思うところはなくはない。
国側の意図を測りかねる任務に関して、最低限の説明しか伝えてくれなかったことも幾度かあった。
しかし、【霧】に所属する国家の犬である我々が、任務の意味を問いかけて何になるというのか? 国の意図がどうあろうと、【霧】がなければ我々は生きてはいけない。個人の意見など殺し、任務を遂行する以外に、【霧】のスパイに生きる道はない。だからこそ、私はついさっき、二人のアイドルと袂を分かった。
同じ【霧】のメンバーでありながら、【彼】との関係について、私と違う視点に立つイメルダ。
言葉の意図を測りかねていた、私に、彼女はさらに言葉を紡いだ。
「それに、ズレてるのは【霧】の方かもしれないっすよ。与党のチェルージュとの対立路線が、世間からブーイング食らってるこた、姉さんもご存じっすよね?」
その発言を聞いて、私は何も言い返せなかった。
選挙が迫る中で、現与党がその政策を国民やメディアに問題視されつつあることが事件の背景にあった。
元々この国の軍事政権は、戦後の混沌とした政治情勢の中でどさくさに紛れて実権を掌握した政府であり、かつて戦前期に存在した民主主義政権とは主義も主張も異なっている。
今櫻宗では、表現・集会・報道などの自由も、軍事政権の下で著しく制限されている。
だが戦争直後から草の根的に続いていた民主主義運動は、昨今徐々に実を結びつつあった。
国家の圧力によって何度か妨害を受けたりもしたが、軍事政権由来の内閣が何度かデモによって瓦解し、野党の側からも正当な民主主義路線を謳う議員が票を獲得し始めている。
その中で、時たま暴力的な行いによって政治的主張をしようとする人間も現れた。
ふと頭の中を、【歌声】調査の任務の直前に尋問したトラックの運転手がよぎった。
私が彼を尋問した目的は、彼の所属する商業組合が犯罪組織と提携して倉庫の爆破を計画していたため、その犯行時刻を問い詰めることにあった。
当初指定暴力団かと思われたその犯罪組織は、後々の【霧】の同胞の調査で、政治的要求を行うテロ集団であると判明した。
単なる会社と反社会的勢力の小競り合いの結果かと思われた倉庫爆破計画は、運搬トラックなど建設工事に関わる車両を破壊し、現在の政府が後援する都内の新市庁舎の開発計画を妨害する、明確な政治的意図のある計画だったのだ。
だが、そんな時期に櫻宗国を騒がせたのが、【歌声】の開発疑惑であったことも忘れてはいけない。
「でも、【歌声】がかの国で実用段階に入っているかもしれない。どちらかというと今は国民全体が、一丸となって国外の脅威に備えるべき時じゃないかかしら」
そう答えた後、その言葉にあまり感情がこもっていないことに気が付いて、まずい、と思った。
今回調査した【歌声】の開発施設がはりぼてでしかなかったこと、そもそも私が【歌声】の調査のためにチェルージュに潜入したことは、まだ誰にも伝えていない秘密だ。
私の演技の拙さで、国家の秘密を悟られてしまうかもしれなかった。
たとえ【霧】の同胞であれど、簡単に遂行中の任務の内容を話すわけにはいかない。敵を欺くにはまず味方から、諜報活動の基本だ。
「確かに、お隣さんで破壊兵器があるとなれば脅威っすよねぇ。反政府運動とかしてる場合じゃなくなる、ほどの」
私の答えにも、どこか皮肉めいた言葉を返すイメルダ。
私は彼女と話していて、口調の微妙な違和感に気づいた。
【霧】のスパイが、誰かに変装していない状況で語る櫻宗語は、現代の標準語である南部地方の方言を使うことが多い。
しかし、彼女は違った。
北部地方の方言―――それも、若者らしいフランクな方言だった。
南部には、終戦以来この国の権力を牛耳ってきた軍事政権の出身者が多い。
任務を伝えるときの【彼】やヤグルマ長官も、南部地方の方言だった。
対して北部は、リベラルな民主主義を掲げる野党側の勢力が多数の支持者を集めている地域だ。
戦前の民主主義政権では、この北部地方の方言こそが標準語とされていた。
もちろん、彼女が任務遂行中で、誰かに化けて口調も北部の方言に変えている、という可能性も否定できない。
だが私は、これ見よがしともいえる口調で北部地方の方言を話すイメルダの背景に何か【霧】とは違う存在を感じざるを得なかった。
そもそも彼女の名乗った【イメルダ】という名前も、民主主義運動によって独裁政権の転換に成功した南国の女性政治家、イメルダ・リ・ロードスを彷彿とさせた。
「そりゃー、アタシも【歌声】の脅威が絶対にありえないとは言いませんけどね? ただ思うんっすよね、仮に【歌声】の正体がわかったとして、この二国の緊張関係は本当に和らぐのかな、って」
目が笑っていなかった。
心の内で私の言葉を一笑に付しているのが、容易に想像できた。
「ま、今は同じ【霧】の先輩後輩っすし、よければ連絡でも」
「その前に」
スーツケースの表面に付けられた、小さなバッジのようなものを取り外して彼女に示した。
【霧】の人間がよく使う、小型盗聴器だった。
「【霧】の先輩相手に盗聴とは、良い度胸ね。【連絡】っていうのはこういうこと?」
「……試しただけっすよ。でも流石先輩でしたね」
そう言って仕切りなおすように名刺を手渡すイメルダ。
「また会いに来ますんで」
それだけ言うと彼女はベンチから立ち上がり、そそくさと去って行った。
◆ ◆ ◆
数日後。
【彼】からの任務の変更を意味する暗号が、仮の住まいとしていた安アパートに届いた。
本来の指令はチェルージュへの潜伏作戦のようにコンサート会場で指揮者のサインを通じて伝達されるが、任務の変更は私事を伝える手紙を装って伝えられる。
何のことはない、ただの任務場所において私の立ち位置を変更する、という内容だった。
だが、妙に思った。
【彼】からの任務が、突然変更になることなど、仲間の死亡時を除いてなかったからだ。
そして、今現在は【霧】の工作員で死亡報告がなされた人間はいない。
が、すぐに忘れた。
アイドルの少女たちとの別れから気持ちを切り替えるには、スパイとしての新たな活動が必要だと思えたからだった。
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