23話-声音-

 死体が、吊るされていた。


 クレーンのワイヤーに、首を吊らされた死体がぶら下がっていた。


 明らかに、何らかの見せしめとして晒し者になった死体だった。




 世界地図や櫻宗で夕方に放送されるニュース映像では絶対に目にすることのできない光景が、目の前にあった。




 同時に、脳の中枢神経に訴えかけるような強烈な不快感を催す悪臭が、鼻を刺激した。


 車の窓ガラスは閉めているはずなのに、ほんのわずかの隙間をくぐって、臭いが車内を侵食してきた。


 どこか一点から強烈に臭ってくるのではなかった。


 この町全体を、この悪臭が包み込んでいたのだ。


 正に、街を包み込む【霧】のように。


 そして悪臭の正体を、私は自分のスパイとしての経験と、先ほど見たクレーンに吊るされた死体で、即座に察知していた。




 車内から外を眺めていると、放置されたままの死体が偶然目に映った。


 窓越しで見ているのに、その見た目だけで条件反射的にそれ自体の腐臭が感じとられそうな、生々しい死体だった。


 よく見ると、死体の脳天には穴が開いており、血が噴き出していた。


 明らかに、ついさっき息絶えた者の死体だった。


 舗装された街の中で、終末世界のような光景がさも当然のように目の前に広がっていたのだ。




 その悪臭と、その死体で、私は改めてチェルージュがどういう都市かを実感した。


 


 私も全く知らなかったわけではない。


 というか、櫻宗人のみならず、チェルージュ国民の惨状は世界的にも知られている。


 チェルージュから命からがら櫻宗などに亡命した人々が語る母国の惨状が、連日ニュースで報道されているからだ。




 それにチェルージュに潜伏したことのある【霧】のスパイは、帰国時、その多くが壮絶な経験をしたかのような沈痛な面持ちで帰ってきた。


 当然感情を殺しての任務を本業とするスパイなので実際に表情として表に出すことはないわけだが、それでも潜伏する前と後で、明らかに面構えが違っていた。


 恐ろしいものを見た、恐ろしい場所へ行った、恐ろしい経験をした、ということは、潜伏時のことについて何も聞いていない私の目にも明らかだったのだ。




 目の前の光景は、そのようなテレビで語られるニュースの何千倍もの情報量を、私の脳内に送り込んできた。


 行く前と同じ精神状態で、櫻宗に帰れるかすら危うい、と思えた。


 最早平常心を必死で保たなければならない状況にあった。


 




「はい、ここらへんで降りましょうか」




 舗装されていない道路の適当な場所でバンを止めて、私たちは下車した。




 さっきまで車の窓越しに伝わってきた悪臭が、直に私の目、鼻、口に流れ込んでくる。




 思わず私は、裏路地に駆けた。


 壁の水道に、思いっきり吐しゃ物を吐き散らかした。




 あまりにも、あまりにも情けなかった。


 情報としては知っていたはずだ。チェルージュ国民の、凄惨な生活環境は。


 【霧】の情報を通すまでもなく、チェルージュからの亡命者の言葉で。




「言ったでしょう? 資本主義者の来るところじゃないって」




 既に【慣れて】いるのか、この悪臭の中でも平然としているカトリーヌとミシェル。


 設定上別に問題はないのだが、はたから見ても私が外国人であることは丸わかりだった。




 空襲で家族を失って以後、スパイの活動を始めてからも、私は人の死に何度も立ち会ってきたつもりだった。


 それこそ、共に【霧】の養成学校で育った女子たちで、今この世にいないメンバーは少なくない。


 しかし、この国の死は、今まで見たことのない異様な不快感を伴うものだった。


 死体を取り巻く情景をよく見ると、その不快感の正体がわかる気がした。

 その場を歩く市民―――お世辞にも裕福どころか平均的な市民生活をしているとは言い難い風貌―――の誰も彼もが、その死体を処理するどころか、視線すら向けようとしなかった。

 警官や救急隊などの公的な存在が、死体を処理することもない。



 死体は吊るされているや、倒れ込んでいるだけではない。


 誰も彼も、ただ生きているというだけで、生気とは縁のないオーラを放っていた。



 この町全体が、死人のようなものだったのだ。


 放置されてハエのたかるゴミ箱のように。




 ―――離れたい。


 不快感を煽り続ける悪臭の中で、ろうそくに火がともるようにそんな考えが脳内に沸いた。




 恋しくなったのだ。


 たまたま自分が生まれた場所というだけの、櫻宗が。


 異国のこの地の、悪臭と、脳のどこか奥底へと訴えかける嫌悪感ゆえに。


 感情を殺すべきスパイとして、あってはならない挙動だった。


 だが、その時。


「シモツキさん」


 その一声が、私を正気に戻させた。


 私をここに迎えてくれた政務官の一人、ダント氏だった。




「私がここに、貴方を招待した理由がおわかりですか?」


「それは……私が行きたいって言ったのに応じてくれたから……」


 息を切らしつつも、私は何とか答えた。

 しかし彼は、目を血走らせて私の顔を見据えて言った。


「この惨状を……我が国のこの惨状を! 外国人の貴方にこそ伝えたいのです。知っていただきたいのです……!!!」

「は……はい? 何をです?」


 ダント氏はここしかチャンスはない、といった、鬼気迫る表情をしていた。

 言われて、私は戸惑っていた。

 設定上、私はしがない若手アイドルプロデューサーであり、ただの一介の民間人でしかない。

 そんな私に対して、彼は何か重大な役割を半ば強引に託そうとしているようだった。


「貴方には見ていただきたい。そして語っていただきたい。世界に向けて……! あの、かつて自然の美しい、世界に誇れる国家であったチェルージュの、の支配によって悪臭漂うゴーストタウンへと荒廃した現状を……」


 その言葉はまずい。

 もうあなたは喋らない方がいい。

 そう言おうとして、私が口を開いたのとほぼ同時。


「ダントさぁん」


 ダント氏の肩をポン、と叩くカトリーヌ。


 彼の頭を滝のように伝う汗。




「ちょっとカトリーヌとあっち行こうかぁ」


 カトリーヌはやけにおどけた口調で、彼の背中を押して裏路地へと促した。


 私を飛行機から空中へと落としかけた、あの時の口調に似ていた。




「いやいや、カトリーヌさん、まずは町のことを彼に」


 正気を必死で取り戻しながら、私は彼女を―――恐らくその場で、部下にを行おうとするカトリーヌを制止しようとした。


 しかし。




「やめなさいっ」


 何者かの手が、私の肩を掴んで制止した。


 振り返ると、ミシェルだった。


 感情を表に出した声音だったので、最初彼女だと気づかなかった。




  表情こそいつもの仏頂面だったが、私の肩を掴むミシェルの手は、普段の冷静沈着な彼女からは想像できないくらいに力と感情が込められていた。そのまま肩の肉に食い込むのではないかという力だった。



 彼女にもここまでの感情が存在したのか。




 彼女の意外な一面に私が気を取られている間に、ダント氏とカトリーヌは町の裏路地へと消えていった。




「しかし……」


 何とかミシェルを振り払おうとする、その行為もむなしく。




 パァン!!!!




 町に充満する悪臭すら劈くかのような銃声が、当たりに響いた。


 反応したのは私だけだった。


 生気を失っている故か、ルドヴィシの住民は一切の反応も見せなかった。


 私を止めたミシェルはというと、目をつぶりながら顔を私から逸らしている。




 程なくして、裏路地からカトリーヌ―――カトリーヌ一人だけが、戻ってきた。


 スカートのポケットからはみ出た手ぬぐいが、紅く染まっていた。




「あの、ダント氏は……?」


「み」


 硝煙が、銃口から洩れていた。


「せ」


 彼女は腰に下げる刀の方が使い慣れているはずだが、銃を撃ったのは私にも【措置】を印象付けるためだろうか。


「し……」


 彼女はこの町へ来る前に、ダント氏を止めることもできたはずだった。


「めっ」


 それをしなかった理由を、いま彼女は直接私に語った。




 そして私に向きなおると、銃口を突きつけるかのように、私に告げた。


「櫻宗に帰っても、見てるからね? いつでも、どこでも」




 カトリーヌの発する言葉の意味を、私は語られずとも察していた。


 異国人、ことに櫻宗人でありながらチェルージュの地方地区の現状を自分の目で見た以上、カナエ・シモツキは一生チェルージュの諜報機関の監視対象となる、ということだ。


 当然カナエ・シモツキという名前も素性も私の本来の姿ではないため、アイドルプロデューサー・カナエ・シモツキとしての素性を一切合切消し去れば監視から逃れることは不可能ではない。


 だがそれでも、この街の惨状と、その場で人が一人死んだという事実と、カトリーヌの今の言葉は、私個人を圧倒させるに十分だった。




「それで? もう帰る?」


 視線を逸らしたまま、銃声と悪臭、それぞれの不快感に押されていた私にカトリーヌは問うた。


 ついさっきまで話していたダント氏の死。


 明らかに、私にこれからの立ち振る舞いについて問い聞かせようとしていた。




「たまにね、あえて櫻宗人にもこの町の風景を見せるの」


 死人のような目で貧困にあえぐルドヴィシの人々を見ながら、カトリーヌは私と視線を平行にしてゆっくりと語り始めた。




「この光景を見せて、櫻宗人が何人逆上して我々の胸倉をつかみかかったか知れないわ。いかに機械的に振舞う人間であっても、この光景は耐えがたいみたいね。ま、彼らは皆になったけど」




 その時私は、チェルージュで死んでいったスパイの中には、銃ではなく鋭利な刃物による傷によって殺された者もいることを思い出していた。



 彼女は私の仲間の仇、という可能性もあるわけか。




「あたしは……」




 帰りたいと、正直に答える選択肢も頭をよぎった。


 しかし、ついさっき聞こえた銃声、この場にダント氏がいないことが、自分を無理やりにでも冷静にさせた。




「あたしは興行に、金に、魂を売った人間。この程度の風景で稼げるチャンスを手放したりはしません」




 ナイーブな考えは犬にでも食わせろ。


 自分がこの町の地獄をどのように感じようとも、この場で苦しんでいる人間全員を救うことなんてできっこない。


 それに今私が彼女に逆上して死んでいった同胞たちの二の舞になったとしても、それは国の実情に気圧されて本来の目的たる【歌声】の調査に失敗することを意味する。櫻宗の平和を望んで死んでいった彼らに合わせる顔がない。




 思い出したように、死臭が鼻を串刺しのように刺してきた。


 まだ死んで間もないはずのダント氏の死体の臭いすらも、混ざっているかのように思えた。


 それを振り払うように、私は姿勢を正した。




「フフッ、この先に政務官用の宿泊施設があるわ。そこんで休んでいきなさいな」


 煽るように、試すように、カトリーヌが笑った。


 かと思うと、同時に肩をポン、と叩く手があった。


 ミシェルの右手だった。



「お忘れなく。このプロジェクト、ひいてはあなた自身が、あなたの行動如何で無に帰しかねないことを」



 彼女の声音は、やはりいつもより感情を帯びていた。


 何かを告げたことで、悲惨な結末を終えた誰かを知っている。


 彼女の言葉は、そんな口調で紡がれていた。


 宿泊施設に向かうためにバンへと戻る中で、私は今日のこの風景を見直していた。


 恐らくダント氏がカトリーヌに処刑された、あの裏路地。


 貧困にあえぎ、感情すらも失ったかのように見えるこの町の住民たち。


 クレーンに吊るされ、晒し者にされた死体。 


 彼らを救えない自分が、救えないなりにやることは、最早一つしかなかった。


 この地獄を、櫻宗国にまで広げないこと。


 そのために侵略の機会を、【歌声】の実用の機会を、チェルージュに一切与えないこと、だった。




 その時。




 ―――トクン。トクン。


 体内で、あの特別な音が脳内にこだました。




 私は、求めていたのだろうか。


 何かの、特別な何かの救いを。




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